ヴァーミリオン
「もっと簡単な事件なんじゃないんですか、ヤマダさんはフルフェイスのガスマスクでホシクズの革ジャンを着ていた。だからホシクズと間違われて殺された。実際仕事辞めてからのホシクズはメンタル病んでたのもあるんでしょうけど隙だらけだった」
「はい、まだ事件についてはこちらで調べている途中です。でも、もしあなたが何かを知っているなら教えて欲しい。そうすれば早く解決します。今日あった事を全部教えて欲しいです」
お互い、無意識に早口になっている。喉がカラカラに渇く。出来るだけ早く話を切り上げたいのはお互い同じだろう。
その時パトカーのバックミラーに女が写った。
見覚えがある。昼にコインランドリーで擦れ違った路上ミュージシャンだ。
彼女の名前は確かツキさんとか言う。
荷物はもう家に置いて来たのだろうか、片手のスマホと小さなショルダーバッグだけでふらふら歩いている。口元だけを隠す、ハーフタイプのガスマスクをしている。目元はよく見えるから、誰だかすぐに分かる。
彼女は肩で揃えた真っ黒なボブヘアーで、風に煽られた髪の内側は真っ赤なインナーカラーで染めている。マスクを外すと大体真っ赤なリップで、そして妙に印象的な革ジャンを着ている。ホシクズの物とは大分デザインが違うが、最早アンティークなのではと思う程年季の入った男性用の真っ黒いそれは父親の形見だと言っていた。なんとなく、目に付く存在だなといつも思っている。
「………今日は先ず昼間にコインランドリーであの女の子と擦れ違いました。よく駅前広場で路上ライブやってる子ですね」
全く関係ない事と思いながら、不意に彼女を指差して桂はそう言った。
店にも来た事がある。客としても時々来ていたが、商店街の企画したイベントで流しの歌手としてこの地域の色々な飲食店を周っていた事もある。
今日は路上ライブが出来るような天気ではなかったが、昼に会った時にギターを背負っていたのは多分スタジオ練習だったからだろう。ランドリーの近くにスタジオがあるのを知っている。
この街は安いアパートが多い上ライブハウスの多い沿線でもあるからか、バンドマンもよく見掛ける。ホシクズもその一人だった。とはいえ残念ながらこの駅界隈で唯一のライブハウスは金のために潰れてしまったのだが。
「そういえば彼女、ホシクズが働いてたライブハウスによく出演してましたよ」
桂が何気なくそう呟くと、山崎はふらふら歩いている彼女をじっと見つめる。
ライブハウスの前に貼ってあったスケジュール表によく彼女の名前があったのを桂は覚えている。月に1度はあのライブハウスに出演していたはずだ。彼女は背が高く背筋がいつもピンと伸びている。まるでモデルのようで、目につきやすい。
「………桂さん、私はあなたを信用しています。なのでしばらくここにひとりで待っていて貰えますか。本当ならやってはいけないことなんですが、お願いします。外にも出ないでください」
その山崎のいつにない真剣な声に、桂は硬い声で「はい」と答えるしか出来なかった。
桂が頷いたのを確認すると、山崎はマスク片手にひとり静かに車の外に出た。桂をひとりだけパトカーの中に残して。考え事をしているかのようにゆっくり歩いている彼女に逆に早足で近付いて行く山崎の姿を桂はじっと見ていた。
少し離れた場所から唐突に山崎に声を掛けられた彼女は不審そうな顔を見せ足を止める。山崎は声掛けを止めることなくその距離を詰めていく。
職務質問させてください、という山崎の声だけは小さいながらも明確に聞こえたが、その後の会話はよく聞こえない。
何を話しているのだろうか。
耳を澄まして集中すれば、窓を少し開ければ聞こえるのかもしれない。でもその会話を聞くのがどこか怖い。
2人はしばらくパトカーから10メートル程離れた所で話していた。
それは実際にはせいぜい数分にも満たない時間のはずだったが、桂には永遠に見えた。そして彼女は山崎に促されてパトカーの方までやってきた。俯きがちに、抵抗することもなく。
「桂さん、すいません。お話はもう良いのでお店の方に戻って構いません。ただ、出来れば明日、こちらから連絡するまで出来るだけ店から………自宅から離れないようにして貰えますか?」
その山崎の言葉に桂は驚いたが、どう反応していいかわからずただ素直に「わかりました」と頷いてパトカーから降りた。明日は清掃のバイトもない。丸1日外に出なくてもなんとかなる日だ。うがい薬は星波に買いに行かせれば良い。
パトカーからは右足から降りた。
それと入れ替わるようにツキさんが後部座席に座った。お互い無言で、目も合わせなかった。
これが一体どういう状況なのか全くわからず、しかしずっとこの場に居座るわけにも行かないので何度も後ろを振り返りながら店に戻った。山崎が無線で応援を呼んでいる。こちらには全く目もくれずに。
車の中の彼女はチラリと桂の方を見た。その目は淀んでいる。桂の目を捕えたようにも見えたし、桂の後ろを見ているようにも感じた。
桂の後ろにあるのは店の看板だ。
VERMILLION。
ヴァーミリオン、その名の通り真っ赤な血のような色のネオン。星波が先代から継いだ名前。
店の中に戻ると、心配そうな顔がみっつ並んでこちらを見る。
「ヤマダさんの事で少し色々質問されただけ、ただ明日山崎さんが連絡するまで店から離れるな、だって」
何か言われる前にそう桂が肩を竦めて言うと、それぞれ口々に「それならいい」「仕方ない」「何もなければいいよ」と言い合い、張り詰めていた表情が少しだけホッとしたような柔らかな顔に変わる。過保護な保護者達だ。
「だから俺は何にもしてませんからね」
少し不機嫌なフリをしてカウンターの中に戻ると、ユカリさんは「わかってるよ」と優しい声で言った。さっき桂が渡したソフトドリンクのジョッキが空になっている。大分酔いが醒めたのだろう。良かった。ツネさんもそこでようやく気が抜けたように息を吐く。
「そりゃここの誰かが犯人だなんて思いたくないでしょ。とりあえず山崎さんが解放してくれたなら、今は特に問題無しってこと。良かったよ」
いつもツネさんは優しい。
星波はツネさんとユカリさんの空になったグラスを下げ、手早く洗い始める。
「今日は疲れてるんで早目に閉めますよ」
その店の主の言葉にツネさんとユカリさんは帰り支度を始める。店の主は19時過ぎまで寝ていたというのに疲れているもクソもあるのだろうか。それでもこの数時間で色々な事がありすぎたのは現実なのだけれど。
「まだなんも解決してないけど、また来週来るね」
その時に話を聞かせて欲しい、そして来週もこの店が無事開いている事を祈っている、とユカリさんは言外に言っている。桂は笑顔でお待ちしてます、と返事をする。
ツネさんは来週撮影が詰まっているからいつどのタイミングで来られるかわからない、と言いつつ、めちゃめちゃ気になるから解決したらすぐ連絡しろ、と星波にしつこく絡んでいる。星波は「ニュース見ればいいじゃないですか、ニュース」と嫌そうな顔を隠さずに会計を済ませる。でも多分何かあればメッセージのひとつくらいは送るのだろう。
星波とツネさんは実は昔からの知り合い、らしい。他の常連客が思っている以上にさりげなく仲が良い。恐らく前の店長の繋がりなのだろうが、桂も詳しい馴れ初めは聞いていない。星波は鬱陶しそうに適当にあしらっているが、しかしツネさんの事を信用しているのはわかる。
ツネさんはユカリさんを駅まで送る、と言って2人一緒に店を出た。
まだ雪は緩やかに降り続けている。桂は2人にビニール傘を差し出した。随分前に誰かが置いて行った物だ。ツネさんが明日返しに来るよ、店の前に立て掛けとくな、と言ってそれを受け取る。
通り魔だったと思われるヤマダは殺されてもういない。
だがそれでももうかなり遅い時間だ。
昨年引っ越したばかりのツネさんのマンションはここから歩いて帰れる距離ではあるが、地下鉄の駅ではなくJRの方が近い。ユカリさんは地下鉄すぐそこだしこんなおばさんなんにもないよ、と申し訳なさそうに笑うが、それでも今日こんな色々あって女友達を独りで帰らせるのは怖いでしょ、とツネさんはその隣にそっと寄りそう。
そして彼らと入れ替わりで別の常連客が同僚を連れて久々に現れ、その2人は終電に少しだけ余裕のある時間に帰って行った。
金曜夜だというのに日付の変わるか変わらないかのタイミングで客足が途絶えた。いつもなら金土はもう少し遅くまで開ける事も多いのだが、やはり警報と雪の影響だろうか。
「今日は本当にもう閉店な。桂、看板の電気消して」
星波はそう言って桂にマスクを投げるように手渡してきた。ついでに店の前を少し掃除しておけ、ということだ。
警察がもう調べ尽して撤収した後だ、塵ひとつ残ってないだろうが。今日は余りにも色々有り過ぎた。客が途切れたタイミングで早く店仕舞いしてしまっても良いだろう。
箒と塵取りを手に外に出ると、丁度ホシクズが倒れていた辺りに通りすがりの酔っ払いのゲロが広がっていた。
「さいっあく………!」
ガスマスクの下で小さく舌打ちをする。
疲れた。膝から崩れ落ちそうだ。
今は廃墟アパートの前にパトカーは居なかった。代わりに山崎ではない2人の警官が入口の前で何か話している。警官達は桂に気が付くと、軽く頭を下げて来る。会釈を返す。気まずい、ような気がする。早く済ませてしまおう。
なんとなく掃除をしながら廃墟アパートの2階を見上げた。そこにあるのは空虚だ。ヒビの入った窓。そこは真っ暗だった。
でもきっとすぐそこに桂を監視する人間がずっといたのだ。しかし桂を見つけてすぐに強行突破しなかったのは何故だろう。それが不思議ではあるが。様子見だろうか。どうすれば桂を取り戻せるのか、それを入念に計画していたのか。
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