閉店作業


 深夜0時をとうに過ぎ、全ての閉店作業を終えると桂はカウンターに突っ伏してしまう。星波は「もう鍵閉めて寝るぞ」と低い声で桂を窘めてくるが、動きたくない。

「つかれた」

 スツールに座り動こうとしない桂を見て星波が溜息をつく。

「………なんか食う?」

 彼にしては珍しく優しい問い掛けに桂はしばし悩む。お腹が減っていると言えば減っているし、だけどもう疲れ果てて何も食べる気がしない、そんな気もする。体というよりは気持ちが疲弊している。

「昨日買ったヨーグルト、そこの冷蔵庫に入れっぱなしにしてた気がする」

 その桂の要望を聞き入れた星波が冷蔵庫に手を伸ばしかけたその時、またしても店のドアを誰かがノックした。桂が少し大きな声で「鍵開いてます」とドアに向かって叫ぶと、軋む音を立ててドアが開いた。訪問者は確認するまでもなく山崎だった。今度は交番でよく見掛けるベテランの警官を連れてやってきた。さっき廃墟アパートの前にいた警官のひとりだ。しかしそちらの彼は「私はそこのアパートを朝まで見張りますので」と頭を下げてすぐに出て行く。ただの顔見せだ。こちらを少しでも安心させようという、それだけのこと。

「で、今度こそ何の用ですか。今日はもう閉店です」

 冷蔵庫から手を放した星波がそう言うと、山崎は「わかってますよ、でもまだ看板の電気がついていたので」と笑う。桂はこのままヨーグルトを食べ損ねてしまうような気がした。仕方がないけれど。

 ガスマスクを外した山崎の頬は寒さで赤くなっている。

「すいません、ヤマダさんを刺した犯人がわかったのでお伝えに参りました」

 聞かなくても誰かなんとなくわかる気がした。

「………ツキさんですか」

 桂がカウンターに突っ伏したままそう聞くと、山崎は申し訳なさそうな声で「はい、そうです」と答える。桂が星波に向かって「誰だかわかる?」と聞くと「あの路上だろ」と素っ気ない返事を投げられる。流石にわかるよ、とぼやきながらも星波は怖い顔で山崎を見つめている。

「俺は商店街のイベント絡みであの女と連絡先は交換してる、来月も同じようなイベントやる予定だって町内会長が言ってたから今日連絡した。日程と内容の簡単な確認だけした。後から余計な詮索はされたくないから先に言っておくからな」

 それは初耳だ。

「俺があの女に電話したのは多分5時か6時位かな、その後2度寝した」

 ぶっきらぼうに星波の言った事を山崎は丁寧にメモを取る。丁度桂が下で仮眠しているタイミングだ。山崎はこれから携帯電話の履歴を調べる、と言う。

「彼女がナイフを持ったままで、店の前の死体は私が殺しましたと言ったので現行犯逮捕という事になりました」

 理由は、と桂が聞くより先に星波が問い掛ける。

「実際の詳しいところはこれから。ナイフは拾ったもの、と言ってます。どこで拾ったのかまではまだ言ってくれなくて」


 ツキさんはヤマダと知り合いだったのだろうか。

 それともツキさんは本当にヤマダとホシクズを間違えたのだろうか。

 ホシクズが既に死んでいることを知らず、ホシクズのマスクと革ジャンを身に着けたヤマダをホシクズと間違えて殺した。

 ホシクズとツキさんはライブハウスで接点があった。そこで我々の知らないトラブルがあったのかもしれない。

 それとも。昼間にホシクズを殺したのは通り魔のヤマダだと思っていたが、もしかしたらツキさんが両方殺したのか。

 複数の可能性が考えられる。

 今確実なのは、彼女が店の前の死体を殺したと口にした事だけではあるが。


「なんか随分あっさり捕まりましたね、彼女」

 嫌味ではなく、気が抜けてしまう。ついさっきまであんなに大騒ぎしていたのに、終わる時はあっという間だ。早い解決は良いことなのだが。桂はそれならそれまでの徒労は一体なんだったのだろうとすら思う。つかれた。兎に角疲れた。

「彼女、パトカーの横を通る時にちらりと私と桂さんの顔を見たんですよ、その時の挙動がおかしかったので一応職質という形で声を掛けたんです」

 それでよく大金星を引いたものだ。警察のカンは鋭い。

「よく犯人は現場に戻るとか言うけどそれ?」

 星波の問いに山崎は「まあそれはそれなりにある事ですね、珍しい事じゃないです」と苦笑いを見せる。

「凶器のナイフを捨てに行く途中だったとは言っているんですけど」

「でもさあ、あのツキさんはさ、女にしてはまあまあ背丈がある方とはいえよく人を殺せたな。そりゃ本物のホシクズなら泥酔なりオーバードーズなりで寝てたらまだチャンスはあるんだろうけど、ヤマダはそうじゃないだろ」

 その星波の疑問はご尤もだ。それもこれから本人から語られるのだろうか。

「今あそこのアパートを徹底的に調べているところですよ、人が侵入していた形跡があったので」

 こんな時間なので不動産屋への連絡が難しくて困ってるんですけどね、と言う山崎の言葉を聞き流しながら、これを機に早く取り壊してしまえばいいのに、と桂は思う。

 空っぽの廃墟が自宅のほぼ目の前にあるなんて怖いに決まってる。

 そこには何もないのに。

 打ち捨てられた祭壇にも何も宿らない。人の住まないアパートになんの意味があるのだろうか。


「ただ気になる事があって」

 山崎は目を伏せて不意に言い淀む。

「なんだよ」

 早く上で休みたい、いや、早くゲームをやりたいであろう星波が急かす。山崎は困った表情を浮かべながら桂に視線を向ける。

「パトカーに乗せる前、職質の段階では『あの男は桂さんの害になるから』って言ってたんですよ。すいません、桂さんと彼女とのご関係は?」


「………全く意味がわかんないんですけど」


 そう答えるしか無い。

 実際彼女は店に何度か来たことがあり、路上ライブをしている姿もよく知っている。

 お互い人気の少ないランドリーで擦れ違えば軽く頭を下げ合う程度の認知はしているが、決して仲が良いわけではない。彼女の名前と顔と歌声以外のことはほとんど知らない。限りなく赤の他人に近い顔見知り、程度の認識だ。店には何度か来ていますけど、としか答えようがない。知っていることと知らないことなら知らないことの方が多い。

「はい、私も意味がわからなくて。先程のパトカーでの桂さんの態度を見る限り、深い関係には見えなかった。こういうお店をやっているから界隈の人間関係に詳しい、位の話だと思うんですよ。でも応援を呼んで、あそこの署に輸送する途中から口を噤んでしまって」

 山崎にわからないなら桂にもわからない。

「星波さんとホシカワさんの関係が良くなかった、という話なら私もわかるんです。ただツキさんが星波さんでもなく店の名前でもなく、桂さんを名指ししたのが引っ掛かっていて」

 本当に身に覚えがありません、と桂は何度も繰り返してしまう。

「あの女性、夜は2駅先のスナックで夜遅くまで働いていて、その後は早朝に惣菜を作るアルバイトを掛け持ちしていると言っていました、覚えは?」

 桂はこの界隈の知り合い以外の店では極力飲まない事にしているし、その惣菜屋がどこの店かもわからないのに何がわかるというのだろう。情報が少ないとかそういうレベルの話ではない。


「もしかしてあの女、本当はガスマスクの中身がホシクズじゃなくてヤマダなのわかってて殺ったんじゃねえの。それかどちらにも恨みがあったからどちらを殺しても良かったか」


 嘲笑うような星波の言葉に桂も山崎もしばし黙りこくる。

 同じナイフの傷がある2人の男の死体と、その凶器のナイフを持ったひとりの女。

 彼女はどこまで真実を話すだろうか。


「………ヤマダさん、右の手のひらに傷がありました。古い傷。ホシクズはメンタルの病気が理由の左手首の傷だけど、彼は手のひらだから珍しいなと思って。理由は知らないけど、昔ツキさんと何かトラブルでもあったのかも」

 沈黙が怖くて桂が絞り出すように声を出すと、山崎はそれを反芻するかのように何度かの瞬きをしてメモを取った。

「あとホシクズには足首に小さいタトゥーが入ってる、蛇のモチーフ。この時期だとパンツとかブーツで隠れてるからわかりにくいけど」

 星波がそう付け加える。

「ありがとうございます、また明日お伺いするかもしれません、失礼しました」

 彼はそう言って頭を下げ、店を出て行った。外の粉雪は雨混じりになっているようだった。質量のある雫が山崎の肩に掛かるのが見えた。まだあのアパートの前には警官がいる。


 今日は耳鳴りが酷い。店の中に静寂が訪れてやっとその事に気が付く。

 本当は気分転換に深夜まで営業している銭湯に行こうと思っていたが止めた。

 今夜はシャワーだけで済ませて早く薬を飲んで寝てしまおう。

「桂、もう休もう」

 星波はそう言いながら店の鍵を閉めた。桂は頷いて、ようやくスツールから降りる事が出来た。

 体が重い。

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