事件発生

「せなくん」

 寝ている彼に声を掛けてもびくともしない。

 普段は仕事が終われば出来るだけ早く寝る癖に、昨夜は珍しくスマホでゲームをやっていたのを知っている。その前の日も同じ理由でろくに寝ていないはずだ。たまに唐突に彼はそんな子供みたいなことをする。


「ねえ、せなくん、店の前で人が死んでる」


 彼の焦げ茶色の髪をよけ、その耳元に声を掛けながら体を揺すると彼はぐちゃぐちゃのベッドの上で漸く上半身を動かした。しかしまだ体を起こす気は無いようだ。


「誰?」

 彼はだるそうにそう聞き返して来る。

「多分ホシクズ。いつものフルフェイスのガスマスクだし、着てる革ジャンも確実にあいつのいつも着てる奴」

 そう早口で言葉を打ち付けると、数秒の間が開く。

「なんで?」

 まだ寝ぼけているのだろうか、不思議そうな顔で星波は桂の顔をマジマジと見つめてくる。

「そんなの俺に言われても困ります、犯人じゃないから」

 もう開店時間だというのに、なかなか覚醒してくれない。とは言え天気の悪い日に体調が優れないのはお互い様ではあるのだが。だけど仕事の時間だ。店長には起きて貰わないと困る。

「警察呼んだ?」

「呼んだ、なんなら救急車も呼んじゃった。もう死んでるけど」

「埋めに行く?」

「だからもう警察呼んじゃったから手遅れです」


 ここは星波の経営するバーの2階、我々の住居でもある。

 桂は手を伸ばしてカーテンを開けた。夜なのに外は明るい。


「あとツネさん来てる。ツネさんが店の外に行き倒れがいるって教えてくれた」

 ホシクズもツネさんもこの店の常連客だ。そこでようやく星波は体を起こす。

「今日警報出てる?」

 窓の外を一瞥して彼は言う。

 夜の始まりの赤と青と黒が入り混じった空の色。遥か遠くに霞む高層ビル。ネオンと灯、霧に塗れた夜が始まった。

「出てる、だから外に出るならマスクして」

 桂はベッドの上でゆっくりを着替える彼の傍らに古びたガスマスクを投げ置いた。ハーフタイプの口元だけを覆う物だ。

 夜なのに眩しい。人工の光が夜の闇を燃やしている。

 桂は目を細める。

 繁華街の放つ人工的な夜の光に慣れるのに1年掛かった。昼はスモッグで太陽の光が半減しているが、逆にトウキョウの夜は夜なのに余りに眩しいのだった。

 年寄りは今のトウキョウの風景を「昔の映画のようだ」とぼやく時がある。しかしここに住む人間に取っては全部がたった今の現実だ。

 星波はまた勝手に桂の黒いセーターを着ようとしている。その胸元に光るネックレスは安いチェーンに古い指輪を通しただけの簡素な物で、でも彼はこれを絶対に外さない。そして桂が無くしたと思っていた耳栓は星波が勝手に使っている事に今気付く。

「この耳栓、何処に仕舞えばいい?」など、よく悪びれず言えたものだ。

 サイレンが聞こえる。パトカーと救急車が近付いてきている。

「ていうかケイ、死体放り出して俺の事呼びに来たの?」

 彼は上目遣いで桂を見るが、その目はまだ眠そうだ。

「死体はツネさんが見ててくれてるから」

「ならいいけど」

「とりあえず警察の相手は最初は店長がして」

 真正面から目を見てそう言い聞かせると彼は頷いた。途端に機嫌が悪くなる。

 星南は最近飲み方の汚くなったホシクズにいつも文句を言っていたからだ。一応客だから無下に出来なかっただけ。口には出さないが、顔全体に「めんどくさい」と書いてある。しかし桂は桂で余り警察と関わり過ぎないようにしたい。その事情を星波は誰よりもわかっているはずだ。

 ホシクズに対しては次にやらかしたら流石に出禁にする、と先週閉店後の掃除をしながら星波が喚いていたのを覚えている。その時桂は最後の客が吐いたゲロを掃除していた。ゲロの処理はいつもうんざりする作業だ。

 時々、店の前に鳥の死骸が落ちている事がある。体の弱った鳥がビルの壁や電柱にぶつかり息絶える事があるらしい。保健所を呼べばすぐに来て処理してくれるが、正直仕事とはいえ酔っ払いのゲロこそ外野の誰かに処理して貰いたい。わがままなのはわかっている。


 星波は人付き合いが苦手な癖に、なんで接客業をやっているのか。たまに不思議に思う時がある。身内と他人は別、と彼は言うが、たまにやたら口が悪くなるのでハラハラしてしまう。

 桂も接客が特に好きなわけではないが、星波よりはまだ愛想笑いが得意だ。この店に立つようになって初めて知った自分の特技だった。傷つかないようにするための愛想だ。前は余り笑う事を許されない生活をしていた。薄いベールの向こう側でミステリアスである事を求められていたから。

 とりあえずここに立ってお前はニコニコしとけばなんとかなるだろ、と言われ、その教えをずっと忠実に守っている。それが必ずしも正しい事だとは思わないが、愛想良くしている事で得をする場合は確かにある。

 性質の悪い客は桂が何かするよりも先に女なら理詰めで詰られてから穏健につまみ出され、男なら全て星波に殴られ追い出され出禁にされる。


「だからうちの店の常連客と店員が最初に見つけました、俺はついさっきまで上で寝てたんですよ」とドアの外で繰り返す星波の声が薄く聞こえて来る。ガスマスクでほんのりとくぐもった声。彼は機嫌が悪ければ悪い程声が大きくなる。そして慇懃無礼な敬語。

 店内には今、ツネさんとツネさんの友達ユカリさんがスツールに座っている。

 最悪のタイミングで来店してしまったユカリさんは3駅先の大手企業で働くОLで、ツネさんはフリーランスのカメラマン。どんな接点で友達になったのかは知らない。酔っぱらったツネさんの話は何時もちょっぴり要領を得ないから。

 7つのカウンター席とひとつのボックス席だけのそれ程大きくはないバーだ。桂はツネさんとユカリさんの前にビールを置く。

「いただきます」

 同時にそう口にした2人の声はかすれていた。長年の飲酒のせいなのか砂埃のせいなのかはわからない。

 大気汚染の酷い日、つまり警報の出る日は不要不急の外出は控えるように役所から放送が入る。

 しかしそれでも飲みに来る人間というのはいる。こればかりはどうしようもない。人間とはそういうものだ。こちらはそれに合わせて空気清浄機をフル稼働させて店を開けるしかない。

 お腹空いてるなら僕が簡単なもので良ければ作りますけど、と言うと、2人は「大丈夫」と即答する。正直料理の腕は桂よりも星波の方が遥かに上だ。多分2人はそれを知っていて断ったのだろう。仕方ない、お通しのナッツだけを彼らの前に置く。少し悔しい。

「田舎出身なんで鶏絞めるのは得意なんですよ」

 桂がこの話をすると、大体の酔っ払いは笑ってくれる。悪趣味な話だとは思うが、案外それを好む人間は多いのだ。


 いつも桂がキッチンを使う度、星波は「火が強い」と怒る。子供の頃から火の扱いには気をつけろとは確かに言われ続けて来た。しかしそれでも加減がわからない。多分自分はせっかちなのだろう。


 ちなみにツネさんは隣駅にあるギャラリーで打ち合わせの後立ち食いそばに寄ってから、ユカリさんは6時に仕事が終わり同僚と新しく出来たカフェで軽く食べてから来たと言う。

「JRの駅に近いところですよね、あの新しいカフェ僕も気になってるんですよ」

 桂が言うとユカリさんは「あの元ライブハウスだったところ。でも高いばっかりで味はイマイチだったな、いつまで持つかね」と言う。その店がお気に召さなかった故に早々に同僚と解散し、ユカリさんが歩いてうちの店に来たのが19時30分頃。

 この店はJRの駅と地下鉄の駅の中間辺りに有り、ユカリさんは今夜は地下鉄に乗って実家に泊まる予定でここまで歩いてきたという。

 折角だし通りすがりにうちの店で1杯口直しをしてから、と思っていたら店の前にパトカーと救急車がいて驚いたようだ。

 それでもドアの前で警官と話していた星波と目が合い「ああユカリさん、大丈夫なんで中に入っててください」と促されビールにありついたが「こういう時でも営業するの逞しいね、ていうか警察も止めないんだと思った」と笑う。

 正直人がひとり死んでいる。

 冷静に考えると大丈夫でもなんでもないのだが、無理を押してでも営業しないと、仕事をしないと明日の飯も食えないような店や人間がこの街には少なくない。星波の場合は「退屈だから」という理由で店を開ける。2人だけで質素に暮らす程度の金ならなんとかなる、というのが彼の口癖だ。

「そういやあのライブハウス、いきなり潰れたよなあ。なんか店長とオーナーが金で揉めたんだっけ?」

 ツネさんがぽつりと呟いたその言葉に、桂は「まあそんなところですよ」と簡単に答える。

 内情はある程度知っているが話せば長くなるし、そもそも何をどこまで好き勝手ベラベラ話して良いのかわからないから。こういう店に立っていると、沢山の真偽不明の噂話が無限に集まって来る。

「ていうかユカリさん、週末にわざわざ実家帰るってなんかあったの?」

 その質問をするツネさんの声は微かに心配の色が混じっていたが、ユカリさんは「別になんにも悪い事は起きてないよ、ただ明日弟が子供連れて遊びに来るかもって言ってたから顔見たくて。犬ももうおじいちゃんだからさ、こまめに会っておきたいんだ」と笑う。

 笑顔のユカリさんは帰る家がある、帰りたい家がある、それはとても良い事だ。

 ちなみにツネさんは両親を10代の頃に亡くし、身寄りはお姉さんだけだそうだが結婚で今は北海道に住んでいるという。姉も自分もお互い苦労をした身、関係は良好だがあちらは家庭があるし距離もあるからそう頻繁には会えない、とシニカルに笑う。仕事で北海道に行った時に時々会ってはいるけど、と楽しそうに話す。その話はツネさんが酔った時に何度も聞かされている。

 桂は北海道など行ったことが無い。

 飛行機だって人生で1度しか乗った頃が無いのだ。真冬のそこは一体どんな土地なのだろう。想像もつかない。今日のトウキョウよりずっとずっと寒い場所らしい、という事しか知らない。

 今は星波と2人でここでつつましく生活するのが精いっぱい。

 北海道に旅行に行くにはどれくらいのお金が掛かるのだろうか。

 旅費だけでなく数日店を休業しなくてはならないのだから尚更簡単には行けない。桂は週に3日、平日の昼間に隣駅にある大きなビルで清掃のバイトもしている。1日5時間、時給1320円。

 もし遠くに旅行に行くなら、その清掃のバイトも増やしてお金を作らなくてはならない。そもそも星波が北海道まで一緒に行ってくれるかどうかはわからないが。

 ユカリさんは姪っ子が凄く可愛いと笑い、ツネさんは甥っ子が凄く面白いと笑った。

 トウキョウに来てから桂は1度も家族には会っていないし一切連絡も取っていない。

 常連客は皆、若くしてここで働き始めた桂が訳ありであろう事を漠然と認識しているので家族に関しての話はほとんどしてこない。

 星波は星波でいつも不躾な酔っ払いに家族の事を聞かれる度に「うちは10年前に妹が家出してから一家離散してるんで」とえげつないことを表情ひとつ変えずに口にして、淡々とグラスを取り換えている。全ての説教も同情も何もかもを「そうですね」の一言で切り返している。気付けば星波に家族の事を聞く人間は居なくなった。


 外の先の見えない押し問答が途切れ、星波がドアを開けた。見慣れた警察官を一人連れて。いつもこの界隈を巡回している人だ。警官番号はR182番、名前を確か山崎とか言った。カウンター内の小さな冷蔵庫には彼から貰った緊急時の連絡先が書かれたチラシを貼っている。冬の終わりの冷たい空気と春の初めの微かな砂埃が混ざり合い店内を緩く撫でていく。

「第一発見者に話聞きたいって」

 ドアを乱雑に閉めた星波は不機嫌を隠さない。「腹立つくらい寒い」とぐちぐち言いながらガスマスクを乱暴に外すと桂と入れ違いにカウンターの中に入る。


 奥のボックス席に山崎とツネさんを向かい合わせで座らせる。

 山崎の前に水を置くと桂はツネさんの横に立った。申し訳なさそうな顔で山崎は「桂さんも座って下さい」と言ったが、店員なので、とそれを固辞する。客の前で座る事に慣れないというのもあるが、単にこのボックス席は狭い。体の大きな男3人で膝を突き合わせて座るようには出来ていない。本来男が女を口説くための席だ。本当はこういう時、警官が立つものなのかもしれない。それでも疲れた顔の山崎を見たら「座って下さい」という言葉が先に溢れてしまったのだった。

 金曜の飲み屋街の交番など座る間もないくらい忙しいだろうに、宵の口にいきなり大きな事件だ。

「常川さんが店の前で死体を見つけたのが18時55分頃」

 山崎はツネさんにそう確認して手帳に書きつける。

「いつもより、開店より少しだけ早く着いたんだよ。遠目にまだ看板に電気がついてないなと思って時計見たらそれ位の時間だった。それで店に近づいたらホシクズがドアの横んとこに座り込んでて。一見また酔ってるか体調悪いのかと思ってさ」

 ツネさんは頭を掻きながらそう補足する。

 開店5分前、それ位ならノックして来たのがよく知った常連客なら状況に寄っては通してしまう事もある。特にツネさんなら普通に店に入れてしまうだろう。

「こんな時間から泥酔して大丈夫かよホシクズ、って肩揺すったらそのまま横に倒れて、そしたら中に着てるTシャツが血で真っ赤になってて驚いちゃって」

 そこでパニックになったツネさんが店のドアを強く叩き、ドアを開け外を確認した桂が通報した。

 桂が時計を見て、看板に電気つけなきゃ、と焦ってドアに手を掛けようとしていたその瞬間だった。そして桂もドアから外を覗いて店の前で倒れているホシクズの姿を確認し、電話をして、それからなかなか起きない2階の星波に改めて声を掛けに行ったのだった。店のドアを開けると目の前に2階に上がる階段、左手に店舗だ。

「フルフェイスのガスマスクをしていても彼だと判断したのはどうしてですか」

 その山崎の質問に、ツネさんと桂は共鳴し合うようにそれぞれ「革ジャン」「革ジャン」と答えた。

 フルフェイスのマスクもホシクズがよく使用していた物だとは思うが、彼がよく着ていた革ジャンは襟の所に星の形のスタッズが付いている特徴的な物だった。

 ワインレッドカラーの革ジャン。少なくともこの店の常連客でそんな服を着ているのはホシクズだけだった。それどころかこの界隈であの色の革ジャンを着ている人間はホシクズ以外ほとんどいない。あと体格も大体記憶している通りのそれに近かったから、桂もツネさんも「ホシクズじゃん」と判断したのだ。

「雰囲気、雰囲気よ」とツネさんは言う。

 桂は死体には触っていない。ツネさんは触った。結果、ツネさんだけ指紋を採られる事になった。

「そりゃ疚しい事なんてしてないけどさあ」

 そうぼやきながら山崎の後について店を出て行くツネさんの背中を見送った。

 誰だって楽しくはないだろう、警察に指紋を採られるなんて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る