ヴァァァァァァァァミリオン

タチバナエレキ

ランドリー

 桂はいつも回る洗濯機を見つめてしまう。

 無になる。空っぽ。

 自分はただの器として産まれて来た。

 この洗濯機と同じ。


 コインランドリーの出入り口で見知った顔と擦れ違い互いに軽く会釈し合う。

 彼女は天気の良い日によく駅前で路上ライブをしているミュージシャンだ。

 黒いワンピースに大きめの革ジャン、いつも背中にギターケースを背負っている彼女は、洗濯物の詰まったビニール製の袋を片手にランドリーの中に入って行く。業務用スーパーで売られているビニール製のエコバッグ、あの中身はライブ衣装だろうか。

 大きな洗濯機の回る音と外の風の音が出入り口の狭間で混じり合う。

 この複雑な大きな音が混ざり合う瞬間はいつも不愉快だ。

 きもちがわるい。

 すごく、すごくきもちがきわどいところにある。こういう感覚をきもちわるい、って言うんだっけ?たまに頭と体がめちゃめちゃになって正しいことばがわからなくなる。

 こういう時は右足から外に出た方がいい、右足、右足からだ。

 桂はそのまま真っすぐ帰宅する事にした。

 職場兼自宅のある商店街の果てに向かって俯きがちに歩く。

 消防車の音が聞こえる。どうやら駅の向こう側らしく、少し遠くに黒煙がたなびいている。距離はあるはずなのに煙の匂いがしたような気がしてつい早足になってしまう。マスクをしているのだからこれは気の所為。気の所為だとわかっているのに体が強張ってしまう。


 この街はいつも灰色に見える。もう慣れたけれど。でもこの空気の悪さだけは体に応える。


 店のドアを強くノックする音に、桂は「はい」と大きな声で返事をして外に出た。

「サインお願いします」

 業務スーパーの宅配ドライバーが付き出して来た伝票に汚い字で名前を素早く書き付ける。いつも自分の名前ではなく、この店の主である星波の名前を書いている。

 無愛想なドライバーだが、桂が「ありがとうございます」と笑顔を返すと右の頬を緩めて重い段ボールを無言でドアの内側まで運んでくれる。大体帽子を目深に被っているため口元でしか表情が読み取れない。たまに覗かせる目元はいつも動かない。ロボットのようだ。

 この男、いつも伝票のやり取りをする時に桂の手にさりげなく触れる。

 これは最悪な災厄だ。いつか殺す。

 ドライバーとの些細な雑談で、今日もまた通り魔が出た事を教えられる。

 ただでさえ治安が余り良くない地域なのに、最近より物騒になった。

桂がトウキョウに来たばかりの頃、ここに住み始めたばかりの頃はこの治安の悪さを怖いと思っていたが、最近は感覚が麻痺して来ているのを感じる。それを良くない事とは思いつつも、人間は環境に慣れてしまうのだ。今の桂はここでの暮らしを嫌だとは思わない。良いことも沢山あるから。前に住んでいた場所の夜の闇とそれを照らす焚き火の方が怖いとすら今は思う。


 2035年、国内の大気汚染は急激に悪化し「警報」の出された日はガスマスク着用での外出が推奨されていた。地方は現在小康状態にあるが、都市部の数値はなかなか改善される事がない。


 桂は狭い店内に置かれた大きな時計を確認する。針は16時半を差している。

 近所の潰れたライブハウスから譲り受けた時計。壊れてただのオブジェと化していたダーツ台を処分して手に入れた時計。秒針の音が静かな店内に響く。

  開店時間は19時、準備はもう少し遅くて良い。

 あの時桂は「邪魔になりそうな大きな時計よりオーナーの趣味だった古いレコードプレーヤーと古いレコードのコレクションが丸ごと欲しい」と言ったのに、この店の主には聞き入れて貰えなかった。古いが桂でも知っている位有名なメーカーの物で絶対に綺麗な音がするはずだった。それなのに。

 どちらも邪魔になるのは同じだし、それでも壊れたダーツ台よりはまし、というのも同じで、そうなるとバイト扱いの桂の要望よりも店主の意見が絶対なのだった。


 今日は空気がいつもより悪い。太陽もくすんでいる。

 ほんの1分、マスク無しでドアを開け外気を吸っただけで軽く咳き込んでしまう。

 うがいをしてからカウンター内に踏み台代わりに置いているビールケースに腰を降ろす。うがい薬がなくなりそうだ。明日買いに行かないといけない。

 やたら体が重い。このままゼリーになって溶けてしまいそうだ。それ位空気に質量を感じる。気圧も大分低いのだろう。頭も痛い。

 通り魔の話を聞き、早朝は強風の音がうるさくてちゃんと眠れなかった事を不意に思い出す。あの時間、風の音に紛れて微かに聴こえてきた歌声は夢なのか現実なのかわからない。

 近くに平日だろうとなんだろうと24時間営業している大きなチェーン系居酒屋がある。

 外がうるさく感じるのはその店の客がどんな時間でも往来するせいもあるだろうと勝手に判断したが、如何せん最近耳栓を無くしたばかりでなかなか寝付けなかった。今日の事件は一体何時頃に起きたのだろうか。

 今の内に少しだけ眠ろう。

 桂は細長い体を折り畳むように膝を抱え、目を閉じる。スマートウォッチのアラームを確認してから。町内会長からメッセージが来ている事に気付いたが、多分すぐに確認しなくても大丈夫だ。毎年恒例春のチャリティー募金のお知らせだろう。

 この店の主の星波はまだ寝ている。2階の自宅でスヤスヤ寝ている。

 店を開ける前に起こさなくてはならない。


 桂が7歳年上の星波に出会ってもうすぐ3年になる。

 あの時桂は17歳だった。

 凄く昔な記憶もあるし、昨日のような気もする。出会ったというよりは拾われたという方が正しいのかもしれない。いや、あれは誘拐だったのかもしれない。今はもうどれでも良い。彼に着いて行く事を決めたのは自分の意志なのだから。

 初対面の時は星波の方が背が大きかった。

 しかし桂は17になっても成長期で、あの頃は水を飲むだけでも背が伸びた。なんでも口に入れて飲み込んだ。

 そして当時から変わらぬ178センチの星波の身長を気付けば3、4センチ越して、20歳になった今はもう桂の成長期は止まったはずだ。多分。とはいえ身長だけは彼を超えたが、桂の体は相変わらず子どものように華奢で薄っぺらく真っ白で、星波の体は筋肉質だった。

 殴り合いになったら恐らく死ぬのは桂の方。

 無論、彼が桂を殴る事などないだろうが。並んで歩く時は少しだけ星波が上目遣いになる。

 第一印象が「なんだこのインテリヤクザ」だったことは未だに本人には言えていないが。


 今日も夜が始まる。

 夜は火を絶やしてはいけない。

 真っ暗闇は怖い。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る