最後に。
3月の祝日、桂は北海道に居た。
ツネさんが撮影のついでに姉家族にも会う予定だし、どうせならアシスタントかモデルとして付き合ってくれる?と桂を誘ってくれたのだ。
大手ネットメディアの取材で金払いの良い仕事だから桂君ひとりだけならスタッフとして経費で連れていけるよ、と言われ、桂は悩んだ。
星波は「俺は大丈夫だから行けば」と表情ひとつ変えずに言った。
桂は意を決し、清掃のバイトのシフトを調整し、急遽3月半ばに3泊4日の北海道行きが決まった。なんでも件のネットメディアがいつも依頼しているカメラマンが急病でツネさんに仕事が回って来たらしい。だが桂はモデルの依頼は丁重に断り、アシスタントという名目で同行することとなった。目立つ仕事は余りしたくない。
トウキョウに来てから星波と4日間も離れるのは初めてだ。行き先は札幌。流石に誰でも知っている主要都市。人生で初めての「旅行」だった。
4日目の朝、桂の目覚めは良かった。時計を見ると6時半。
昨日の夕方には仕事もつつがなく終わり、夜にはツネさんの家族とホテルでの食事会に誘われた。桂は一人でも構わないと言ったのだが、ツネさんは「俺が友達連れて来る事って滅多にないからさ、家族が会いたがってて。嫌じゃなければおいで、お金なら気にしなくていいから」と桂の腕を引っ張った。
ともだち。
桂はその4文字を口の中で何度も反芻してしまう。
ツネさんの家族はとても話しやすい人達だった。
血の繋がりの無いはずのツネさんの義兄でさえツネさんによく似た明るい笑顔の優しい人で、仲の良い他人は顔が似てくるんだよと言われた。
ツネさんは桂の事を「よく行く飲み屋のバイトの子なんだけどさ、凄く気が利くから今回アシスタントとしてついてきて貰った。北海道初めてなんだって」と正直に紹介した。
早い時間に朝食を終え「チェックアウト10時だよね?その前に少し自由行動してきて良い?折角だから1人で散歩してみたい」とツネさんに聞くと、俺は10時にロビーで待ってるから行ってきな、と笑顔で送り出される。
公衆電話の使い方を教わり、小銭を数枚ポケットに忍ばせて外に出る。比較的立地の良いビジネスホテルは快適だった。桂には何もかもが初めての経験だ。
昨日の食事会の後、桂は星波にメッセージを送ってみるがなかなか既読がつかなかった。しばし不安になったが、そういえばまだ店は営業している時間だと気付く。隣にいないと調子が狂うな、と思う。
この3月の送別会シーズンは特に定休日を決めず、出来るだけ店を開ける、と星波は宣言していた。
そんな時期に俺がいなくてもいいの?と不満をぶつけると「前の店長が短期間だけ戻って来るから安心しな」と返された。それなら、とは思うが、正直なところヤマダとツキさんの件があって以降はほんの1〜2時間すら店から離れるのも星波をひとりにするのも怖かった。
こちらの北海道旅はツネさんがずっと桂と一緒に居てくれるし他にもメディア側のスタッフが同行してくれるというし、現地での仕事中は派遣のモデルさんも着いてくる。
ツキとヤマダの起こした事件は確実に常夜教の方にも届いているはずだ。あれだけニュースで大々的に取り上げていたのだから。
ヤマダはツキさんに殺され、ツキさんは逮捕された。
ツキさんは全ての食事を拒否し、舌を噛み切ろうとして今は警察病院に移送されているという。そして点滴に繋がれた彼女は現在何も話そうとしない。彼女が何を思ってそうしたのか、我々は知る由もない。
桂のすぐそばにまで常夜教の刺客は来ていた。
あの2人が桂のことを神社に、常夜教にどこまで報告していたのかよくわからないという恐怖がある。もしろくに報告していなかったとしても事件の報道の余波でヴァーミリオンが、桂の居場所が結局バレてしまうのではないかと不安だったのだ。一応この約1ヶ月間は特に問題なく生活出来ていた。我々の事情を汲んでいる山崎はこまめに巡回をしてくれているし、店の前の防犯カメラも直った。それでもいつ何があるかわからない。
なんとなく店にいるかなと思いユカリさんの方にメッセージを送ってみると「こちらは平常通りでーす」と、ユカリさんと星波、そしてあと数人の常連客の写真が送られてきて安堵した。それでも無事帰るまでは安心できない。
わかってはいたけれど本当にここはトウキョウよりも寒い。でも空気は澄んでいる。
公衆電話は21世紀に入り携帯電話か普及したことで一気にその数が減ったが、大きな災害を何度か経て再びその存在意義が見直されている、らしい。今は都市部ならある程度はその姿を見つける事が出来る。公共の福祉ってやつだよ、と以前酔ったホシクズに教えられたような気がするけれど、なんとなくそれは間違った使い方のように思う。
桂は電話ボックスの中に入ってみる。なかなかお目に掛かる事の無い大きな四角い電話機。そして数回の深呼吸の後、ツネさんに教えられた通りに受話器を手に取ってみる。
もう2度と帰らない、いや、帰れないと思っている実家の電話番号を丁寧に押していく。無意識に息を止めている事に気付き、マスクを外して息を吸い直す。
自分のスマホから電話をすることには漠然とした抵抗があった。出来るだけあちらに自分の情報を知られたくない。GPSをオフにし番号非通知にすれば良いだけの話ではあるが、それでも旅先の公衆電話の方が安全だし気が楽な気がしたのだ。
数回の呼び出し音。
このまま誰も出なければいいのに、とすら思う。しかし大祭までにけじめはつけておいた方がいい。絶対に戻らない。その意志だけは変わらない。
人は殺したくない。
例え宗教の力で厳重にその罪が隠蔽されるとわかっていても、だ。
これは桂が自分で自分の意思をはっきり示さないといけない事だ。他の誰かに頼るわけにはいかない。これ以上先延ばしにするのも嫌だ。
『もしもし』
「母さん?」
声が裏返りそうになるが、必死に堪えた。
『………巫女様でしょうか』
その返答に少しだけ落胆する。やっぱり、例え2人きりだとしても、もう母は自分を名前では呼んでくれないのだ。
数年ぶりに聞く母の声は全く変わらない。懐かしい声。それなのになんでこんな他人行儀なのだろう。
「………俺です、ケイタです」
泣きそうになるのを堪えながら、遠い地の母に呼び掛ける。
桂が筆頭巫女に選ばれた日から家族の態度は大きく変わった。
上のものを下に置かない、とでもいうのだろうか。「大きな宗教の跡継ぎになるかもしれない長男」から名誉ある「神様の筆頭巫女」という扱いになり、離れて暮らすことになった。当時まだ小学生だった子供にそれがどれだけ苦痛だったか。家族にはきっと一生わからないのだ。
「………母さんは俺が今どこにいるか知ってる?」
『トウキョウで似た人間を見つけたので時間を掛けて調べているところだ、とあの2人から報告を受けていました、それが3ヶ月程前です』
「ツキさんとヤマダの事だよね?」
あの2人の顔が脳裏を過る。もう2度と会えない。
『はい。ですがトウキョウに移動してから定期連絡の頻度が減り、やきもきしていたところであの事件が起きたので長老達は皆怒っています』
なんとなく、これは桂の想像でしかないが、あの2人は外の世界、トウキョウでの暮らしを案外楽しんでいたのではないか、と思っている。外の世界は麻薬。家庭教師の男が言っていた。
「常夜教はまだ俺の事連れ戻そうと思ってるの?」
『むしろ巫女様の方に何かこちらに戻れない事情でもお有りなのでしょうか』
「人を殺したくないだけだよ」
トウキョウの生活が意外と快適だということは敢えて言わない。あの店が好きだとは言わない。贖罪のために星波の隣にいたいとは言わない。
『いらないものをいるものとして火の神様に捧げるだけです、筆頭巫女の貴方様にはその義務があります』
それが我々の町を守るために必要なのです。
なんの迷いもない母の声が響く。余りに辛く、いっそ涙も出て来ない。
星波の妹はいらないものだったのだろうか。あの色褪せた写真の少女は。
「俺は絶対に戻らない、大祭は2番手の巫女に任せればいいだろ、同じ血筋なんだしあいつは俺より信仰もあるし」
『最悪の場合はそうなりますが、でもあの方はまだ未成年ですし荷が重いのではないかと。それに貴方様程の才能がありませ』
「なら中止にすればいい」
声がキツくなっているのが自分でもわかる。これは怒りだ。あの町の幸福のために、治安維持のために、宗教という大義名分で全く関係のない人の命を犠牲にしてきた。
『それでは町が存続出来ません、神様の怒りに触れて町が燃えてしまいます』
「でも俺は戻らない、あと俺の大事な人にも触らないで。もし彼に、彼らに指一本でも触れたら俺が町を燃やしに行くし生贄の事も全部警察にバラす」
『………長老衆にはそう伝えておきます』
そこで小銭が切れて音もきれた。かけ直すつもりにはなれなかった。母の声は震えていたように思う。しかし罪悪感はなかった。
電話ボックスの外の空気は冷たく桂を刺す。
警察にバラす。
そしてあの宗教が断罪され、あの町が壊れる事に恐怖はある。
あの町が無くなるという事は自分の過去も無くなるという事だ。怖くないはずがない。
しかしどうせなら自分の手で燃やしてしまう方が手っ取り早いし気が楽だ。
でもそうすると星波と一緒にいられなくなる。
筆頭巫女からの脅しの言葉はそれなりに効果がある、はずだ。
大祭は他の巫女に1度任せてみれば良い。
それでだめになる宗教なら、だめになる町なら、所詮それまでではないか。崩壊した後に自分がどうなるかは想像がつかない。またこの身を狙われるかもしれない。しかしその時にはもうあの町にそんな体力は残っていないのではないかとも思う。
夏までの数ヶ月だけ、ひとまずの命を繋いだ。
今はそう思うことにする。
誰も殺したくない。
そして筆頭巫女は大祭が終わると死ぬ。
殺されるわけではないが、何故か筆頭巫女は皆使命を全うするとその後は長生き出来ないのだ。元々体の弱い人間が選ばれる事が多いせいもあるのだろうが、これは呪いの呪い返し。桂はそれをずっとそう呼んでいる。人の命を奪った代償だと思う。交尾を終えるとメスに食われるカマキリのオスのようなものだ。
流行り病や不慮の事故ならまだ仕方ないと思えるかもしれない。しかし酷い時は理由不明のまま山の中で白骨死体として発見される事もある。そんな惨めな死は嫌だ。
自分は死にたくない。
「これは店に、ていうか星波にだな、こっちの小さい紙袋はユカリさんに。あとで名前書いて店に置いといて」
空港で買ったお土産をツネさんが順番に桂のリュックに詰めていく。これは機内持ち込み用でそもそも最低限の荷物しか入っておらずスカスカだった。スーツケースの方はもう中身に空きが無いしもう預けてしまう。そっちにはツネさんのお姉さんに持たされたお土産がぎっちり詰まっている。
「これでよし、あとは無事に帰るだけ」
ツネさんの笑顔を見て桂は頷く。
人生2度目の空の旅はとても快適で、初めての時の事を忘れそうになる。ツネさんはいつも楽しい事を沢山覚えておきな、と言うし、それには桂も賛成だ。
札幌から羽田への直行便は快晴の中を真っ直ぐ進んでいる。今は何故かとても穏やかな気持ちだ。少し眠ろう。
「ただいま」
変わらず汚いベッドで寝ている星波の頬に触れる。
まだ店を開ける時間ではないが、配送ドライバーの対応は店に戻ったばかりの桂がやった。不貞腐れながら冷蔵庫に必要なものを仕舞っている時に丁度先代店長が「ああ桂君久しぶり、お帰りなさい」とコインランドリーから帰ってきた。桂の居ない間についに洗濯機が壊れ電気屋に行ったのだけれど、星波が欲しがった機種が入荷待ちで週明けまではコインランドリー生活だと言う。
「店の準備は俺がやっておくからさ、桂君は星波の事起こして来て。まだ寝てるから」
ありがとうございます、と答え、リュックと小さなスーツケースを抱えて2階に上がる。後で彼にもお土産を渡さなくてはならない。
星波は昨晩店を閉めた後、常連客に飲みに連れ回され朝にはボーリングにまで連れて行かれ昼飯時に大層不機嫌な顔で帰宅したのだと言う。それでもここの2階でひとりきりで眠らせるよりはまだましだなと思う。常に誰かがそばにいてくれる、その安心感。星波は嫌がるのだろうが。
ちなみに先代店長は1階の床で寝袋で寝ているそうだ。変わり者とは聞いていたが、一応今は客人の扱いなのにそれで良いのだろうか。でも多分「その方が気が楽だからいいよ」と言うタイプの人なのだろうなと思う。そういえば先代店長の事を桂は名前以外余り知らない。
「ねえ、せなくん、起きて」
体を屈め、彼の耳元で大きな声を出す。数秒の間を置いて、漸く星波は目を開ける。
「………お帰り」
呻くような返事。
「それだけ?」
「それだけだよ」
しかめっ面で体を起こした星波は目を強く擦りながら桂を見ずに口を開く。
「今日は警報出てる?」
「うん、出てるよ」
桂はそう返事をしてカーテンを開けた。
まだ夜には少しだけ早い。
この街の夜は燃えるように明るい。
ヴァァァァァァァァミリオン タチバナエレキ @t2bn_3
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