忘れられた遺跡 4
目の前の、恐らくはこの図書館の司書であろう彼女は、俺がその姿をじっと観察するように見つめているのに気付いたのか。
そんなに見つめられると、恥ずかしいですね…ともじもじしてしまい。あ、可愛い…と心の中で思いながら、ごめんなさいと謝罪をする。
そんな一幕を経たのち。こほん、と彼女は一つ咳払いをして、話をし始める。
「本題に入る前に、自己紹介をいたしましょう。私の名前はシロネ、と言います。どうぞお見知り置きを。」
そう言うと彼女は、ぺこりと一礼して。次は貴方の番ですよという視線をこちらに向けてくる。
それを感じ取った俺は、社会人経験によって培われた自動挨拶モードが発動して、そのままの流れで挨拶を行う。
「あ、これはどうもご丁寧に。私の名前は───」
そうして、それを答えようとしたところで。
ふと、異変に気づく。
あれ。俺の名前って、何だったっけ。
生まれてからの記憶は確かにある。両親や友達の記憶もある。自分が通っていた学校や塾の名前も、会社の名前もしっかりと覚えている。
旅行した先も、挑戦したアクティビティも、最期に見た景色も当然覚えている。
でも、何故か。気持ちの悪いことに、俺の名前だけが記憶の中からポッカリと抜け落ちており。どう頑張って思い出そうとしても、それだけが思い出せないのだ。
両親の名前は分かる。それ故に、恐らく俺の苗字が“渡辺”であることも分かる。
でも、それだけだ。
逆に言えば、それ以外のことは思い出せるというのに。
この何とも言えない気持ち悪さ。自分の名前という、最も自分を世界から見た時に象徴するアイデンティティの一つであるそれを。
どうやら転生した時に、それだけ落っことしてしまったようだ。
その結論に至ったその時。
そういえば、自己紹介の最中だったと思い出して。
「あ、すみません。名前、必要ですよね。ええっとぉ」
そう言いながら、どうしようかとオドオドしていると。ふと、そういえば、自分がネットで使っていた名前があったな、と言う事を思い出す。
アレなら、少女の名前であっても違和感が無いはずだし。これからは、名前を思い出すまで一旦それを名乗る事にしよう。
「く、
彼女───シロネにそう言いながら、慣れるためにも、自分の中で何度もそう言い聞かせる。
俺は渡辺 黒羽、俺は渡辺 黒羽、俺は渡辺 黒羽…。
そうやってぐるぐると考えていると。シロネは、はい、よろしくお願いしますね、と返して、それで───と話の続きに戻る。
「ここを黒羽様にご紹介したいのは山々なのですが…なにぶん、今現在、ここは問題が起こっていまして。」
「問題?」
シロネは少々言い淀みながら、はい、と言う。
「本来ならこの図書館には、この世に存在する二億冊種類以上の凡ゆる蔵書が収められている筈なのですが。」
「に、二億冊…!?」
そう言われて、周りを見回すと。
確かに、それだけ収められていると言っても納得してしまう程に、本の迷宮が無限に広がっているように見える。
ただ、目的物を探すのは大変そうだなぁ、と思うくらいで、そこに何か問題があるようには思えないのだが。
そう考えて、シロネの方を見ると。
「───そうですね。こういうものは、実際に見てもらうのが早いでしょう。」
彼女はそう言うと、ふわっと俺の手を取り。
あ、柔らかい…と感じながら手を引かれると、ここ───他の場所と比べてかなり整然としており、ロビーといったような印象を受ける場所を離れ。
その横にある、布が被せられてはいるが、椅子や机などがごちゃごちゃと置いてある休憩スペースの間を縫って。
その先にある、背の高い本がみっちりと入っている沢山の書架の間に入り、そこで立ち止まると。
「どうぞ、何か本を手に取って読んでみてください。」
シロネはそう言って、俺の手を離す。
「わ、わかりました。」
そうだな…と思いながら、適当にそこにある本を選んでみる。
茶色い装丁のそれは、少し古びたように見えるが。題名やらなにやらが潰れていて読めず、どんな内容なのかぱっと見では分からないようになっている。
取り敢えず中身でも見てみるかとペラペラ開いてみれば、それが───全てのページが真っ白な本である事が分かる。
「え?」
いやいや。そんな本なんて、ネタか何かでも無い限り無いだろうと、もう一度ペラペラめくって見てみるが。
やはり、それは全てのページが白紙で構成されており。ページ番号すら書いている様子もないのである。
そしてこれは、この本だけが特別という訳でもなく。
横に並んでいる、他のデザインの装丁の本を読んでみてもそれは同じであって。そのタイトルはぐちゃっとなっていて文字としての体裁を取っておらず、中身は白紙で構成されており。
恐らく、ここに蔵書されているように見える、無限に存在するこの本の迷宮の中の本も同様なのであろう。
ここまできて、ピンと先ほどの彼女の言葉の意味がつながってくる。
「問題っていうのは、つまり───」
「はい、想像の通りです。ここに蔵書されている筈の一部を除いた全ての本は、このように白紙となっておりまして。」
“一部の特殊な本”を除くと、しっかりと読める本は現在のところ5冊のみで、不完全なものも含めると100冊程となっています。
そう続けた彼女は再び俺の手を引いて、移動し始める。
「どうしてこのような事になっているのか。それを説明する前に、まずはこのコア・シェルフという場所について説明しておきましょう。」
彼女は続ける。
「ここは…そうですね。貴方にとって分かりやすいように言えば、“精神世界”というのが一番妥当でしょうか。」
精神世界?
それを聞いて首を傾げると、彼女は、まあ細かい事は気にしないでください。夢の中の世界と思ってくれても構いません、と付け加える。
「それ故に、この場所に収められているのは、貴方の記憶の中にある本だけでして。」
つまり、先ほど100冊程度と言ったのは、貴方が実際に本を開いて読んだ事のあるもの全てを集めたらそうなったという事であり。
彼女はそう言って、最初にいたロビーの方に戻ってくると。
その少し先にある、受付のような場所に積んである薄い本を一冊手に取って、こちらに渡してくる。
そこには高校生の時に読んだであろう、何処か懐かしい匂いを感じる“数学I・A”と書かれた本があり。
それを手に取って読んでみると、いつかに見た公式や定理、問題や図などが印刷されていて。白紙の本でない、本物のそれがそこにはあった。
なるほど確かに、彼女のいう通りであれば。
受付の所に重ねて置いてある何冊かの本をチラッと見る。
あそこにあるのは、俺が読んできた本という事であって。しっかりと全ページ読んだものはこうして完全に再現されているが、そうで無いものは半端に再現されているため、不完全と言った訳か。
………。
ってちょっと待って。もし、彼女の言が正しいとするならば、という前置詞が付くけど、最悪な事に気付いてしまったんだが…。
───そう、もしかして、俺が前世にヒソヒソ集めていた、
そんな事を考えてしまったのが顔に出ていたのか。彼女はここで出会ってから初めてみるような、ニコォっとしたイイ表情を浮かべて、しれっと言う。
「ありますよ、勿論。」
ほら、と指し示したそこには。真面目な教科書とかの本のタワーの横に平積みにされている、
「ちなみにこれが、“一部の特殊な本”でして、これらを含めると、完全に読むことの出来る本は、先ほどに比べて───」
「ちょぉぉおっっとストップ!!!」
その先は言わせないと言わんばかりに話を遮った俺は、すぐさま土下座の形を取り。
わ、忘れてくれ…何でもするから…!と地面に頭を擦り付けて懇願するしかなかった。
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