二話 鳥かごの鍵②

 長い長い旅を終えた。

 息を吸うのでさえ無意識には行えないほど、息苦しい船内。そこで10日は過ごしただろうか。5日を数える前にして昼夜の区別は無くなり、それからはただ朦朧と横たわっていた。

 そうしてたどり着いたその場所は──。


「──生きたければ、走れ。さもないと死ぬぞ」

 冷徹な眼差しでそう告げる上官らしき男。

 その傍らには、小柄な少女が立っている。

 一瞥してマスコットか、と感じたが、どうやら視線に敏感らしい。睨み返されたので、サッと目を逸らす。そうして偶然向けた視線の先では、今も閃光が走り、戦友であろう者の頭蓋が弾け飛んでいた。


「ねぇ、オースティン。もう少しましな上陸地点は無かったの?」

「知っての通り、前線はかなり後退している。ここがなんとか船を停められる最後の軍港だ」

 やけに面のいい2人の兵士は、緊迫した状況にはそぐわない程、落ち着いている。

 二人の様子に張り詰めていた緊張が薄れ、やがて夢中で走り出す周りの群衆。そして鮮血が舞い、絶望に浸る。

 その繰り返しで、一体何人が死んだだろうか。

 ただ走り、走り、走り。

 そうして走り抜けた先に、何が待っているのかも知らずに。


 リアム・ホワイトは、目の前の男の後頭部だけを目標に、銃痕まみれの荒野を走り続けていた。

 怪しげな軍隊がやってきたのはつい昨日の事のように覚えている。逼迫した生活。荒れた土で作物は育たず、照り付ける日差しで、多くの民が死んで行った。やがて、幼子たちを食わせるために大人たちが自決しようと、そう決めた時だった。


「付いてこい。飯と寝床はくれてやる」

 そう言い放つ男は、太い葉巻を乱暴にふかしていた。


 ──二つ返事だった。

 まるで示し合わせたようなタイミングだった。

 死ぬくらいならば、と。

 皆、意気込んで船に乗った。

 女、子どもを残して戦場に赴く男たちの姿は、彼ら彼女らにはどう映ったのだろうか。

 ――村のために戦いに行く英雄に見えたのだろうか。

 ――はたまた飢餓から逃れる臆病者かもしれない。

 しかしながら、誰でさえ思わなかったはずだ。


 ──その船の乗車賃が、死をもっての後払いなどとは。

 ……残念ながら領収書すら受け取ることはできそうにない。

 リアムはそう思った。ここで消し飛ぶ自分の遺体が、故郷に知られることはない、と。

 すぐ隣の集団が弾け飛ぶ。

 激しい爆発と、目を覆うほどの閃光。

 そうして頭から被る流体は、乾いてベトベトになったはずのその上から、容赦なく降り注いでいる。さながら、地獄とはさもありなんと、そう思える場所だった。


「──まさか、これが新兵教育なんて言わないよね?」

 いつの間にかすぐ目の前を走っていた少女が呟く。

 対する上官らしき男は「まさかな……」と返した。

 その是非は、こちらにとっては大変に重要なことなのだが……。

 リアムの悲痛な叫びは、戦場の喧騒に掻き消されてしまった。


 そうして続く絶望の最中。

 終わりの見えないトラックレーンの途中で、前方の選手が振り返る。

 その小柄な少女は、不意にじっと身をかがめてから、不思議そうな顔をする。そして数秒後に、思い出したかのように一言。

「――あ、伏せなよ」

 小さくそう呟くが──。

 それが自身に発された言葉だとは気付かぬままに。

 皮膚がビリッと裂ける音がする。

 弾け飛んだヘルメットを、鮮血が追いかけていた。

「──ごめん、遅かった」

 やけに気の抜けた声が聞こえた。

 ふざけんな、という文句を吐く時間すら与えてはくれないのだと。

 知らなかったのだから仕方ない。

 ゆっくりと目を閉じ、そしてなにか暖かいものを額で感じて、堕ちていくのだった。


◇◇◇


 生きているという実感は、こういうものだと初めて知った。

 この間まで居た故郷とは違い、涼しい風が吹き抜ける。

 カタリと近くで音がするが、不思議と恐怖というものはなかった。


 物音は徐々に近づき、やがて一人の男の足音だと分かった。彼はすぐそばで立ち止まったようだ。

 そうして感嘆するように息を飲む音が聞こえる。

「……すごい、生き残ってる」

 他人ごとのように呟く男の姿を見ることはできない。目を必死に開こうとするも、張り付いた何かが瞼を縫い付けているかのようで。リアム・ホワイトは、悲鳴を上げている両腕を何とか動かし目を拭う。しかし乾燥しきったそれは中々しぶとく張り付いていた。

 自分一人ではどうしようもない。

 そう考えたリアムは、顔も見えない男に助けを求めることにした。

「……そこの貴方、すまないが、水をもらえないだろうか?」

 リアムは男に告げる。

 しかし、いい返事は返ってこなかった。

「……ごめん、僕も水は持っていないんだ。喉が渇いたのならば、キャンプに戻らないと」

「そうか……いや、喉が渇いているわけではないんだ。何かが瞼に張り付いているようで、洗い流したいのだが」

「ああ、そういうことか」

 青年は腑に落ちたようにつぶやいた。

 声色は思ったよりも幼く聞こえる。

 自分は周りに比べ大分若いと思っていたが、それよりもさらに一つか二つ若く感じる。少年兵までも居るのかと驚くリアムに、その少年は「すこし待ってて」と言った。

 しばらく歩き回る音が聞こえて、そして少年が戻ってくる。

 彼は「少し汚いけど、それでもいいなら」と告げた。

「水があったのか?」

 リアムは縋るように聞く。

「いや、あったというか、作る算段が付いたというか……」

 ――作る?

 リアムの脳内には疑問符が浮かぶが、その回答が出ることはない。

「なるほど……ちなみにその水は飲むことは出来そうか?」

 彼は恐る恐る尋ねた。

 顔面に張り付いた血を洗い流したいのが一番ではあるが、喉が渇いていることも確かだ。

 干上がった口内は、微かに砂の味がする。

「いやぁ……それは…………そもそも顔を洗うのも躊躇うくらいだよ?」

「そんなに汚いのか?」

「いや、まあ絞れば顔は洗えると思うけど……なにせ匂いがひどいし、感染症も心配だ」

 少年が苦い顔をしている様子が想像できる、そんな口調だ。

「ただこういう場面だし、背は腹に変えられないでしょ?」

「……それはそうだが……」

「大丈夫だよ、兵士であればみんな結構やってる方法だよ」

 励ますように言うその口調は、もはや逆効果だった。

「水を作る」「汚い」「感染症」

 それらの言葉が、リアムの脳内を駆け巡る。

 少年が提示している液体の正体も分からぬまま、話は嫌な方向に進もうとしていた。

 しかし、その正体を聞き出す勇気はどこにもない。

 知らぬが仏とはまったくよく言ったものだと感心する余裕すら出てきてしまったのは、もう心はそう決めたということを示している。

 リアムはその正体を静かに考察し、そして想像したくもない光景を思い浮かべてしまう。

 ウッと吐きそうになるものを抑え込んで。

 そして何とか持ち直したリアムは、深く深呼吸をした。

 リアムの育った環境にとって、衛生という言葉は存在しないものに等しいが、汚いという言葉で想像されるものは、衛生などとうに通り越している。

 人体はその八割が水分で出来ているという。

 人体から水分を取り出す手段は、意外と簡単に思い浮かんだ。思い浮かんだ、が。

 …………それは水とは呼ばないだろう。

 正確に言うならば、にょ……。

 しかしながら、ふざけるなと声を荒らげることも出来ない。

 ここは戦場らしい。

 この程度のことができなくてはどうする、と言い聞かせることがやっとだった。

 リアムは長く葛藤したが、諦めて首を項垂れる。

「……………………それで頼む」

 数日前、船に乗り込む決断よりも大きな決意だった。

 なにか大きな思い違いをしているとは、極限状態のリアムには考える余地すらない。



 振り絞ったその言葉は、震えを隠しきれていなかったかもしれない。言葉を受け取った少年は一瞬考え込んだようだ。

 しかし数秒の後、リアムの決心を受け取った少年は、「分かった、ついてきて」と彼の腕を取る。瞬間、凄まじい激痛が全身に走ったが、少年はなんも気にせずリアムの体を持ち上げた。その声色からは想像もし得ない力で、彼の体はいとも簡単に引き寄せられる。

 もしかすると、声質に似合わない屈強な体なのだろうか。

 そう考えたが、掌から伝わる熱がそれを否定している。その小さな手は、おおよそ鍛え上げられたとは考えにくい、弱弱しいものに思えた。

「おい、どこに連れて行くんだ?」

「少し奥にいい場所を見つけたんだ。都合がいいと思うよ」

 ……そうか。

 確かによほどの露出癖でもなくては、その光景を他人に見せたいとは思わないだろう。

 リアムは納得して、少年に連れていかれることにした。

 右足を一歩前に出すたびに、踏み込んだ左足に電流が流れる。

 足を引きずるリアム気遣って、少年はその歩みを遅らせてくれた。

 一歩一歩が重たいのは、体の怪我とはまた別の理由があるとは思うが……。

 少年がそれを察することはない。


「君は、どうしてここに?」

 リアムはふと、少年に問いかけていた。

 彼ほどの年齢ならば、リアムの村では置いていかれる側であったはずだ。

 現に三つ離れた彼の弟は、船に乗ることはできなかった。

「……そりゃ、お兄さんと同じだよ」

「……詮索するわけではないが、察するに君はまだ少年ではないか?」

「そうだね、たぶん今年で14だと思う」

「そうか……俺の弟と同じ歳だ」

 予想通り、少年の年齢はどうしても兵士とは考えづらいものだった。

 少年は、リアムの反応に苦笑いで答える。

「そりゃ、びっくりするよね。……僕の住んでた場所は、大人が少なかったから」

 少年の口調は何処か諦めが滲んでいる。

 しかし、その短い一文で、リアムは反省を促される。

 よく聞く話だった。

 大人が少なく、子供が多い。口減らしに連れて行かれる者の年齢だって、必然と下がってしまう。そういう嫌な話だ。

「すまない。…………確かに、俺と同じらしい」

 ――それ以外にどうしようもなかった、自分と。

 リアムは頭を下げるが、少年は「気にしないで」と淡々と言った。


 数分歩いたところで、少年は立ち止まる。

 足元の感触から察するに、荒れた土の上ではなく、なにかレンガのようなものの上に居るらしい。

「ついたよ、少し準備するから待ってて」

 そう告げると、少年はガサゴソと周りを漁り始めた。

 ……準備?

 多少の疑問を感じたが、「ああ、心の方か」と納得する。

 リアムはゆっくりと腰を下ろし、一息つく。幸いにもすぐ後ろに壁があるようで、もたれ掛かることができた。

 目を覚ましてから――正確には意識が戻ってから、一寸も動けないと思っていたが、案外身体の怪我は軽いようだった。もっとも、ひどい頭痛から頭部の出血だけが気がかりなのだが。

 確認する度胸はリアムにはなかった。

 ひどく震える手をもって、傷口に触れる勇気は持ち合わせていないらしい。


「──よし。じゃあお兄さん、準備はいい?」

 暫くすると、準備が出来たようだ。少年がすぐそばでそう告げる。

 リアムは大きく息を吸って、そして吐く。

 せっかくの彼の厚意と羞恥を無駄にしてはならない。

「…………ああ、大丈夫だ。やってくれ」

「じゃあ手を出してよ」

「……こうでいいか?」

 リアムは手を椀のようにして広げた。

 すると数秒経ってから、ぴちゃぴちゃと生暖かい液体が掌に滴り落ちた。

「…………うぅ」

「どうしたの、傷に染みる?」

「いや、気にしないでくれ…………嫌なことを頼んだ、どうもありがとう」

「僕は全然いいけれど……早く顔を洗った方がいいよ」

「そうだな………………ああ、覚悟を決めたよ」

 リアムはグッと息を止める。

 そうして掌に広がった液体を、勢いよく顔面に押し当てた。ビシャっと生暖かい液体が顔にまとわりつく。苦い顔をしながらも幾らか擦ると、ようやく血が剥がれ落ち始めた。

「大丈夫? 見えるかい?」

「ああ、いけそうだ」

 恐る恐る瞼を開けると、目の前には不安そうに見つめる少年の顔がある。こうしてその姿を見るのは初めてだが、なんとも安心させられる、そういう感覚がした。


「良かった。僕はユイ、お兄さんは?」

「俺はリアム・ホワイトだ。この度はどうも助かったよ」

 リアムが頭を下げると、ユイはにっこりと微笑んだ。

 その顔立ちはあまり見ない場所のものだ。その輪郭はまだ幼く、確かに美形ではあるが、どちらかと言うと可愛らしいという表現が適切だった。少し伸ばした黒髪は、美しいと感じさせるほど艶やかで、彼が男ということを踏まえても、少し間違えれば惚れてしまいそうなシルエットだ。

「ところで、傷は大丈夫?」

 ユイは心配そうに覗き込む。

「…………大丈夫そうだ。どうやら顔に傷はないらしい」

 顔面を覆っていた血は、頭部から流れてきたものだろう。現に酷い頭痛は収まる気配がない。

「そう、それにしては、酷く何かに耐える顔をしていたから。顔の傷が染みたのかと思ったんだけど……」

「ああ、いやなんだ。それは………………尿で顔を洗ったことは無かったもので」

「……………………にょう?」

 パチパチと瞬きを繰り返すユイ。

 恥ずかしそうにこめかみを搔くリアム。

 ――二人の間に数秒の静寂が流れた。


 なにか食い違いを感じるリアムはそーっと辺りを見渡し、そうして濁った水溜まりを見つける。少年の右手には、布でくるまったボトルが握りしめられていた。その光景は、頭の中で瞬時に計算され、正しい状況と誤解を弾き出す。


 ――瞬間、顔が熱を持つのを感じた。

「──ああ!そういう事かッ」

「…………リアムさん、なにを勘違いしてたの?」

 ユイはジトーっとリアムの顔を覗き込む。

 対してリアムは、顔を真っ赤に染めて平謝りを続けた。


 ……この子の尿なら、浴びても良いか。

 などと考えてしまった自分を殴ってやりたいと、そう思った。

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