一話 鳥かごの英雄③

 その声は唐突に。

 しかし、必然に。

 いつかは来たるその時が、今日だっただけのことだ。


「――おい、お前125番だろ?」


 配給を受け取り、自身のキャンプに戻ろうとしていたところで、聞き慣れない声に呼び止められた。

 肩に掛けられた大きな手から、背後の男の体躯が推察される。

 カナと年を同じくする少女ならば、怯えて立ち竦んでしまいそうな状況だ。

 そう思ったのだろうか。隣を歩いていたオースティンが、さっとその手をどかした。


「どこのだれかは知らんが、気安く女性の体に触れるのは、やめた方が良い」

 オースティンはカナの背後に立ちふさがると、きつく相手を睨みつける。

 意外と頼りになるやつだ、と守られているはずの少女が内心くすくす笑っているとは、この場のだれも想像し得ないだろう。

 しかし少女の内心には反して、周囲を歩く人影は心配するようにその様子を見守っている。良い体躯の男が、それも二人。お互いがにらみ合うように立ち尽くしていれば、緊張が走るのも仕方がないだろう。

 カナは一歩、後ろに下がる。

 自身の安全は最優先に。

 いくら少女が「トーキョエリアのエース」と呼ばれる歴戦の兵士であったとしても、その実、身軽で華奢な少女に過ぎないのだから。


 しかし、予想された乱闘は起こり得なかった。

 その男は意外にも礼節というものをわきまえていたらしい。

「…すまない、余裕がなかったみたいだ。少し聞きたいことがあるのだが」

 その一言で、周囲を取り巻いていた兵士たちは再び各々に動き始める。

 カナもオースティンの脇に戻り、二人して男の話を聞かんと向き直った。

 オースティンの脇から覗かれるその表情は、周囲の兵士たちとは違い、緊張感が拭われない。

 どこか焦燥感のようなものが感じられた。


 しかし珍しくはないその表情に、何となく男の二言目が分かってしまう。


「俺はB-03部隊副隊長のヴァルター・ジールマンという。君たちは、A-15部隊なのか?」

 ヴァルターと名乗るその男は、丁寧な口調でそう尋ねた。

 カナが答えようとする間もなく――。

「ああ、俺はA-15部隊隊長、アル・オースティンだ。…ヴァルターといったか。俺たちに何か用が?」

 オースティンは少し乱暴な口調で尋ねる。どうやら先ほどの一連の言動に、まだ腹を立てているらしい。

 カナはその様子で、隣の青年の性格を思い出すのだった。

 オースティンの短気は、副長のウィルと比べても遜色ないものだ。

 いや、だったというべきか……。

 ウィルといえば、A-15部隊のホスフィンなんて呼ばれるほどの短慮だ。ちなみにホスフィンとは空気中で自然発火する毒物のことである。他に誰が居ようか、もちろん名付け親はオースティンだ。しかし、そのオースティンであっても人のことが言えた口ではない。

 彼らは、隊長と副長という立場でありながら、ことあるごとに言い争いをしていたものだ。無線でのやり取りに際しては、互いの部下が肝を冷やしながら見守っていたのも、今となってはいい思い出である。

 カナはオースティンを制止するように腕を伸ばしかけ。

 そういえば、と。

 かつての思い出に引っかかる、拭いきれない既視感を追いかけるように。

 目の前の男の表情を今一度注視した。

 そして、記憶の――思い出の中にいるその男の名前が浮き上がる。

 考える間もなく、カナは口を開いていた。

「――ジールマンという名をどこかで聞いた気がしていたんだけど。…そうか。あんたはウィルフリード・ジールマンに近しい人? 」

 当たりらしい。

 隣にいるオースティンは、短く息を吐いた。どうやらとうに気が付いていたのだろうか。

「ウィルフリード・ジールマン」という名に、ヴァルターは過剰に反応する。

 先ほどまでの丁寧な口調も忘れ、彼は夢中で口を動かしていた。

「そう、その通りだ‼ ウィルは…ウィルフリードは俺の弟なんだ‼」

 その表情は、一本の希望の糸にしがみつくかのように。

 男は飛沫を飛ばしながら続ける。

「弟はA-15部隊に配属された、と喜んで手紙を送ってきた。いや、もうその手紙が来たのは半年も前のことだが。あまり連絡も頻繁に取れたものではなかった。俺の配属先はもう少し北にあるんだ。しかし今回の配置変更のおかげでこのキャンプに寄ることができたものだから、久しぶりに顔を見てみようと。……聞くところによると、A-15部隊は例のポイントC奪還作戦で壊滅状態だと、一部の兵たちの間で噂になっているようで。真偽を確かめようと辺りの兵士たちに聞いてみたのだが、どうも濁されてしまって確かめられずにいたんだ。そこに血みどろの彼女がいたものだから、つい。……さきほどの無礼については大変申し訳なかった。俺は弟が心配で……」

 ヴァルターは興奮気味で二人に詰め寄る。

 オースティンの肩を掴もうとする逞しい両手は、一筋の希望を掴まんとするように震えていた。

 

 ――しかし、その両手がオースティンの肩に触れることはない。


 ヴァルターは、目の前の二人の表情を一瞥し、察したのだろう。

 もう遅い、ということを――。

 そして再び口を開こうとして、それすら辞めてしまった。

 ヴァルターの鍛え上げられた体も、こう見てはどうも小さく感じる。カナは一歩前に出ようと、オースティンの脇から動こうとするが。

 前にはだかる男は、自分が隊長なのだと。そう言いたげに、少女を静かに制した。

「……訳は分かった」

 静かに一息。

 そして、諭すように――。

「しかしだ、ヴァルター。……現実から目を避けるわけにもいかないことは、もう分かっているんだろう」

 先ほどの乱暴な語気ではなく。

 その言葉の端々から、同情と哀情と、そして悔恨が滲んでいた。

 カナはゆっくりとオースティンの顔を見上げる。

 そこには、隊長としての、沈着で、冷徹で、穏当な男の顔があった。

 ゆっくりと開かれる口元。

 そこから発されるであろうその一言を、目の前の男は果たして受け止められるだろうか。

 カナがそんな思案をする頃には、非情な現実は既に叩きつけられている。


「――ウィルフリード・ジールマンは3日ほど前に戦死したよ」


 淡々と。

 オースティンは静かに、はっきりと告げた。

 日暮れ時の陽光は、きれいなオレンジ色の光で煌めきながら、刻々と沈んでいく。

 この場の3人を見つめる夕焼けは、今にも消えようとしていた。


「な……そんな、……そうか。そう、なのか」

 ヴァルターはがっくりと肩を落とし、その場に立つための気力さえ失ってしまう。

 その表情は見るも悲惨だと、そう感じた。

 彼は首をうなだれたまま、微かな声を振り絞る。

「………弟は、最期に何か言っていたか?」

 受け入れるための言葉だと、そう思った。

 カナはそっと目を閉じ、目の奥のぬくもりを抑え込む。

 それを流しだす資格は、自分にはないと思ったから。


「特には。……ただ、気のいい奴だったよ。面倒見も良くて、隊の頼れる兄貴分だった」

 オースティンは「最も俺とは馬が合わなかったが」と付け足した。

 その表情は、ひたすら冷静に保とうとした痕跡が見受けられる。

 隣に立つ彼の拳は強く握られ、夕日に型取られるその影は微かに震えていた。


 責任を感じているのだろうか。震えるその腕にそっと触れてみる。と、意外に可愛い顔を見せたので、面白くなって笑ってしまった。

 対して、目の前の屈強な男は、人目も気にせずにすすり泣いている。

 幸運だったのは、その光景がここでは日常に過ぎないことだろう。

 声を殺して震えるヴァルターを見守る視線はあれど、その理由を推知できない者はここには居なかった。



 男が冷静さを取り戻すまで、夜はとても待ちきれないと、そう言った。

 地に頭を押し付けて震える男を、一人に放っておくほど冷酷ではない。

 彼が一通り泣きわめき、やがて会話ができる状態になるまで、カナとオースティンの二人は、その場で静かに待っているのみだった。

 もう日はすっかり暮れ、辺りは一面を黒く塗ったように。

 多くの兵士で賑わっていたはずの周囲は、人一人いないほど閑散としている。

 そんな周囲の様子に気が付き、はっと立ち直るヴァルター。

「…すまない、みっともないことをした」

そして、深く頭を下げた。そんな一兵を目の前にして。


 隣に佇む青年は――。

 我らが隊長は、目の前の兵士と同じように深く頭を下げた。

「すまなかった。…弟君の安らかな眠りをお祈りする」と一言を付け足して。

 それは言わなくてはならない言葉を、絞り出したように感じた。


 沈黙。

 ヴァルターはその青年の様子をしばらく見つめ、必死で口を動かそうとして。

 言葉にならない掠れた吐息の後に、振り絞る。


「あんたが謝ることじゃない。……少なくとも弟はそれを望んでいないはずだ」

 堂々と、険しい顔でそう言った。

 やめてくれ、とは言えなかったのだろう。

 そう思った。


 誰を責めることができなくても、誰を責めなければ。

 怒りに、憎しみに置き換えなくては、その大きすぎる悲しみを受け止めることはできないと、ここに居る皆は知っている。

しかし、そうはしないと、そう言った。

 目の前の立派な体躯のその男は――。

 どうしようもない悲しみに暮れるその男は、隊長の責務として頭を下げる一人の青年に、自身の悲しみを担がせることはしなかった。

 ヴァルターは、頭を下げたままのオースティンの肩にそっと手をかける。

 責任を背負い、表情を歪ませた男の肩に――。


 オースティンがゆっくりと顔を上げると、ヴァルターは口の端を震わせながらも、

「ウィルフリードは、あんたにとってどんな奴だった?」と告げた。

 隊長としての弔いは無用だと言いたげに、その瞳は揺れている。

「ウィルのことだから『ふざけんな、オースティン‼』って叫んでいるかもしれないよ」

 カナは笑いながら茶化す。

 それは彼女にとって、最大限に出来ることだと思う。

 振り返ってみれば、ウィルがオースティンと肩を並べていた時間は、1年にもなるらしい。衝突が多い二人だったが、互いのことを深く信頼している内情は、隊にいた者ならしっかり感じ取っているはずだ。

 ――言うべきことを言う必要はない。

 そう言ってやるのが、今やたった一人となった戦友に出来ることだと、彼女は思った。


 しばらくの沈黙。

 そして深い深呼吸を経て。


 オースティンはふっと微笑み、そしてヴァルターに向き直った。

「あいつとは、戦友だった」

 ぽつりと呟く。

 震えながら発するその声は、なぜか逞しく感じられた。

「共に笑い、飯を食った。ときには喧嘩をすることもあった」

「ああ、知っている」

 ヴァルターは頷く。

「ウィルからの手紙は、あんた達のことばかりだった」

 ヴァルターは一枚の手紙を取り出した。

「もう、分かっていたんだ。……ウィルが、弟がここには居ないということは」

 彼はぽつりと呟く。

「これが最後の手紙だった。文末には、『俺が死んだら必ずこれを届けてくれ』とだけ書いてある。すぐにわかったよ、誰に届けるべきなのか」

 ヴァルターは震える手で懐からもう一枚の手紙を取り出した。

 彼はそれを広げると、オースティンに手渡し、その手を固く握った。

「あいつは最後まであんたのことを気にかけていた」

 オースティンはゆっくりとその手紙を開く。

『おせっかいなどこかの隊長へ当てる』と書き出されるその手紙は、ただ一文。

「先に行くだけだ。俺はお前には殺されねえ」と綴ってあった。

 下手な字だ。

 しかし彼なりに丁寧に絞り出したであろうその一文は、短く、乱暴で、そして優しく。

 不器用で、しかし面倒見のいい彼らしいと思った。


「……俺の役割はこれで終わりだ」

 ヴァルターはオースティンの肩を再度叩く。

 その掌を通して、かけがえのない戦友の顔が思い出された。

「……俺は―-」

 オースティンはぽつりと呟く。

「――俺は、お前を……お前たちを殺したとそう思った」

 その表情は、隣で支える少女にだって見せたことはない。

 隊長としての威厳と冷徹と合理の裏にある感情があふれ出す。

「死ぬとわかっていた。でも俺は……」

「あいつはあんたに殺されたわけじゃない。しかし、あんたがそんな顔をしている限りは死にきれないだろうな」

 ヴァルターは無理やり笑顔を作って見せる。

 対峙した二人の男の頬に、幾数かの筋が走るのが見えた。

「そうか……そうか」

 オースティンはただ呟き、そして空の月を見つめた。


 そういう表情は初めて見た、とカナは思った。

 アル・オースティンというその男は、三百を超える兵士たちの長として、理性的で、高潔で、冷徹な兵士だと、そうしている。

 そんな男が、友人の死を弔い、凛々しくも涙を流すその様子は、隊長としてのオースティンではなく、年相応の青年の姿に映った。

「あんたも泣くことがあるんだ」

 カナがぽつりと呟くと、オースティンは急いで目じりを拭う。

「いいと思うよ。その方が普通だ」

 笑って告げる少女に対し、頼れる隊長は深々とため息をつくのだった。

「ありがとう」と呟かれた気もしたが、聞こえていない。

 そういうことにした。

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