第3話 住代の場合

 都荷みやこに住代すみよは目を丸くした。

 中目黒の不動産屋の店頭に、とんでもない募集が掲示されていたのだから。


 ——恵比寿の一戸建て、家賃五万円。


 思わず二度見した。

 五万!? 五十万の間違いじゃないの?

 そう思った瞬間、私の頭の中にある可能性が浮かび上がる。

 わかった、そうだよ、これは釣りだよ。慌てて店内に駆け込んだものなら「ごめんなさい、桁を一つ誤記しておりました。ところで近くにこういう物件があるのですが」と謝罪がてらにカモにされるに決まってる。

 そう納得して立ち去ろうとした私だったが、家賃の表示の下に気になる文言を見つけてしまう。


 ——ただし、内見にご協力していただける方に限ります。


 ええっ? 内見にご協力?

 それってどういうこと?


 店の中の店員さんに詳細を訊いてみたい。

 でもカモにされるのはイヤだ。

 五分くらい逡巡した結果、その日は諦めて帰ることにした。



 ◇



「恵比寿の五万円、恵比寿の五万円……」


 その日から、あの募集が頭の中から離れてくれない。

 こうしているうちにも誰かがあの募集を見ていると思うと、仕事が手につかない。


「しかし内見に協力って何よ?」


 これってすごいパワーワードだ。

 だって、この一言だけで家賃を九十パーセントオフにしちゃうってことなんだから。あの家賃が正しければの話だけど。

 内見に協力って、言葉通りに解釈すると、いきなり他人がやってきて家の中を見せろと言われるってこと?

 いやいやいやいや、そんなのあり得ないでしょ? 

 私だって嫌だよ。でも恵比寿の一軒家に月五万で住めるのはめちゃくちゃ魅力的なのも事実。


 ——こんな風に迷ってる間に、他の人に契約されちゃうかもよ。


 悪魔が囁く、私の頭の中で。

 嗚呼、何がなんだかわからない。もう私には決められない!

 困り果てた私は、職場の同僚に相談してみることにした。



 ◇



「ねえ、僚くん。他の人には内緒で秘密の相談をしたいんだけど……」


 仕事終わりに同僚の仕後同しごどうりょうを誘うと、困惑しながらも了承してくれた。

 約束のカフェで待っていると、彼は辺りをキョロキョロと警戒しながら店内に入って来る。

 なんか意味深な誘い方して申し訳なかったなぁ……。

 秘密の相談ってそういう意味じゃないんだと、彼の様子を見ながら私は心の中で申し訳なく感じていた。


「この写真を見て欲しいの」


 向かいの席に座った僚くんに、私は単刀直入にスマホの写真を見せる。

 もちろんあの恵比寿月五万の募集だ。

 百聞は一見に如かず。彼の誤解も、この写真で解くことができるだろう。


「えっと、恵比寿で……ええっ、家賃が五万円!? 一軒家なのに??」


 僚くんも同じ反応をしてくれた。

 やっぱ、この家賃ってヤバいよね。


「住代さん、これって何かの間違いじゃないんですか? 印刷ミスとか」

「私もそう思ったのよ。でもお店の人に聞くのも恥ずかしくて……」


 だから僚くんに相談してるんだけどね。


「ほら、ここ見て。ここに『ただし内見にご協力していただける方に限る』って書いてあるの。この条件が、破格の家賃の秘密じゃない?」

「ええっ、そんなこと書いてあるんですか? ホントだ、書いてある……」


 スマホに顔を近づけて確認する僚くん。

 内見に協力の文言を読んで、何やら考え始めた。

 と突然、笑い出したのだ。


「これ、面白いですね。他人に生活をさらけ出す条件さえ飲めば、格安な家賃で恵比寿の一軒家に住むことができる」

「そんなに面白い? 普通、嫌じゃない?」

「もちろん嫌ですよ。でも対価としては面白い。理解はできる」


 へぇ、僚くんがそう言うのなら、一度不動産屋に話を聞いてみてもいいかもしれない。

 すると彼はドキリとすることを言い出した。


「住代さん、この家に住むんですか?」

「えっ?」

「そしたら僕、絶対に内見に行きますから。住代さんが住む家に」

「あはははは……」


 まだ決めてはいないけどね。

 見に来てくれるなんてちょっと嬉しい。

 私は週末、不動産屋に寄ってみることにした。



 ◇



「すいません、表にある恵比寿の家賃五万円の物件についてなんですけど……」


 意を決して勝時期不動産に飛び込んだ私は、恐る恐る店員に訊いてみる。


「ああ、あの物件ですか? 皆さん家賃についてご質問されるのですが、誤植ではありませんよ」

「えっ、やっぱり五万円なんですか?」

「ええ。でも条件があるんです」

「それって?」


 私はとぼけて訊いてみる。

 店員も何回もいろいろな人に訊かれているのだろう。スラスラと原稿を読むように説明を始めた。


「表の募集にも書いてあるんですが、あの家に住まわれる方々には弊社の内見にご協力していただきたいのです」

「内見に協力とは?」

「文字通り、内見にご協力です。弊社が同タイプの住宅をお客様におすすめする際に、内見させていただきたいのです」


 やっぱりそうなのね。

 表示に偽りはなかったわけだ。


「もちろん、通知なしに内見することはありません。でも通知があった時には、中をお見せいただきたいのです」


 この条件をどう捉えるのかが問題で、人によって違うのだろう。

 今の職場はフリーアドレスオフィスで、個人の机はなくノートパソコンを持って好きな席に座る仕事のスタイルだけど、私は何も問題なくやれている。

 住処だってそう。世の中にはホテル暮らしをしている人もいる。それって毎日部屋の中を人に見られているってことじゃないの、清掃スタッフにだけど。

 考え方を変えれば、もしかしたら全然問題ないことなのかもしれない。


「申し訳ないのですが、現在その物件は建築中でして、今ご契約いただいても転居いただけるのは半年後になります」


 半年後!?

 なんだ騙された、と一瞬思ったが、ちょっと考えてみる。

 だって私は、急いで転居しようとは思っていなかったから。

 逆に、この条件のせいでいまだに契約する人が出ていないのかもしれないし。


 それに建築中って、新築ってことじゃないの。

 恵比寿の高級住宅街に月五万で新築に住めるって、ますますに気に入ったわ。

 しかし続く店員の説明は、私にとって衝撃的だった。


「あと、小さい字の記載で大変恐縮なのですが、ここに書いてある通りお子様がいらっしゃるご家族限定となっています」


 えっ、そんなこと書いてある?

 って、書いてあるじゃん……。


「お客様はこの条件に当てはまりますか?」

「え、ええ。こ、これからだ、旦那と相談するところなんで……」


 ヤバっ!

 これから旦那を探さなくちゃ……。

 半年の間に。

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