「あら、のぞみちゃんとこのお子さん、ずいぶん大きくなったのねえ」

恭子のお母さんが、一枚の年賀状を見て言いました。恭子が覗き込むと、そこには、幼稚園の制服を着た女の子が、三十代前半くらいのお母さんと手を繋いで、桜の木の下に立っている写真が印刷されていました。

「誰?」

「恭子のおばあちゃんの兄妹のお孫さんだから、……呼び方はわからないけど、とにかくあなたの親戚よ。前に会ったことあるんじゃない? ほら、おじいちゃんのお葬式の時とか」

「人が多すぎてどれが誰だか覚えてないよ」

おじいちゃんのお葬式があったのは、ほんの数年前でしたが、恭子にとっては遠い昔の出来事でした。当時、自分が何を考えて生きていたのかさえ、はっきりと思い出すことはできませんでした。ずらりと並んだ細長く整った爪と、りょうくんの冷ややかな眼差しを別にすれば。

「そういえば、親戚にりょうって名前の人いなかったっけ?」

恭子はたった今思い出したふりをして聞きました。

「ああ、りょうくんね。のぞみちゃんの弟さんでしょう。海外留学してるみたいよ。ほら、こっちに写真がある」

お母さんは別の年賀状を恭子に見せました。

水着姿の青年が、金髪碧眼の青年と肩を組み、青い海をバックにして、こちらに満面の笑みを向けていました。二人とも、全身まんべんなく日に焼けています。白い歯一本一本の輝きがはっきりと見てとれるほど鮮明な写真でした。

年賀状に書かれた近況報告を読みながら、「時間が経つのは早いわねえ」とお母さんがため息をつきました。

「のぞみちゃん、シングルマザーでだいぶ苦労してるって聞いたけど、大丈夫かしら……」

お母さんが独り言のように呟きました。恭子は改めて、のぞみちゃんとその娘の写真を見つめました。

カメラが遠かったのか、のぞみちゃんたちの顔はぼやけていました。どうやら二人とも笑っているらしいというのが、かろうじてわかる程度でした。のぞみちゃんの長い茶髪が、地味な紺色のスーツの肩に流れていました。繋いでいる手の爪は、きっと細長く美しいのだろうと恭子は思いました。

お母さんが別の年賀状を手にしました。朝寝坊したお父さんが、寝癖のついた頭で、恭子と入れ違いにリビングにやってきました。恭子は自分の部屋に戻ることにしました。きっとお父さんがお母さんの話し相手になってくれることでしょう。

恭子の机の上には、ピンク色のマニキュアや透明なトップコートの瓶が出しっぱなしになっていました。昨日、恭子は少し夜更かしをして、自分でマニキュアを塗ったのでした。

恭子はベッドに仰向けに寝転がり、天井に手をかざしました。

ピンク色を纏った爪は、普段よりも一層上品に見えました。恭子は指を少し動かして、ピンク色の煌めきを眺めました。この濡れたような輝きを、どこかで見たことがあるような気がして、しばし考え込みました。そして、おじいちゃんのお通夜を思い出しました。

お通夜の後に、大勢の親戚が集っていた畳の部屋。お酒や食べ物が散乱していた長机。りょうくんの目。りょうくんの隣に座っていた、茶髪のお姉さんの爪。

きっとあのお姉さんが、さっきの年賀状の写真に写っていた「のぞみちゃん」だったのだろうと思いました。恭子は、当時の、のぞみちゃんのピンク色のマニキュアが塗られた爪を思い出したのでした。

あののぞみちゃんが、今はシングルマザーで苦労していることは、恭子にとって意外でした。

なぜ、美しい爪を持つのぞみちゃんが、そのような目に遭わなくてはならないのか、全くわかりませんでした。

恭子はりょうくんの笑顔を思い出しました。写真に写っていた明るい笑顔の青年は、恭子の記憶の中のりょうくんとは違う人のように思えてなりませんでした。

恭子にとって、海外は遠い世界でした。そんな未知の世界にいる人は、とても格好良く、充実した生活をしているだろうと思っていました。

しかし恭子には、充実した留学生活を送っているりょうくんの姿を想像することができませんでした。

冷ややかな軽蔑を滲ませた目をしていたりょうくんが、穏やかに笑って過ごしているはずがありませんでした。りょうくんは白鳥の群れの中のカモなのです。記憶の限りでは、一度しか会ったことがないのに、恭子はりょうくんに対して勝手なイメージを持っていました。あんなに輝かしい笑顔で、幸福そうなりょうくんは、本来のりょうくんではないような気がしました。

のぞみちゃんが苦労していて、りょうくんは楽しく過ごしていることが、どうしても恭子の腑に落ちなかったのでした。

醜い爪なのに、りょうくんが幸せな生活を送っているという事実が、恭子には信じられなかったからです。

りょうくんのことを考えながら、恭子は爪を眺め続けました。今日も、恭子の爪は綺麗でした。

でもどういうわけか、恭子は今の自分の爪に満足できませんでした。

爪の先端はしっかりと左右対称に整え、マニキュアも爪の隅々までムラなく塗ることができ、ピンク色も恭子の肌に馴染んでいました。爪について、恭子が不満を抱く要素は何一つ無いはずでした。

釈然としないまま、恭子は十本の爪を見つめました。窓の外ではカラスが鳴いています。

恭子の目の中で、恭子の爪が里穂ちゃんの爪に重なりました。里穂ちゃんの爪は細長く、恭子の爪と似ていました。里穂ちゃんの顔を思い浮かべると、牧野さんの短い爪が脳裏をよぎりました。

牧野さんが転校してきた当初、彼女の周囲を取り巻いていた好奇心旺盛な女子たちは、いつの間にか数が少なくなり、結局、友達の座につくことになったのは、里穂ちゃんでした。

いまだに、恭子はよくわかりませんでした。なぜ里穂ちゃんが牧野さんと仲良くしているのか。なぜ里穂ちゃんや和也が、牧野さんに惹きつけられているのか。

恭子にとって、世界は爪を中心に回っていました。

美しい爪に全ての価値があり、醜い爪は論外でした。

それなのに、醜い爪の牧野さんは、里穂ちゃんや和也のいる世界の中心に立っていました。美しい爪の恭子は、その世界の外側から眺めていることしかできませんでした。

何かがおかしいのです。

何かが、恭子の基準とずれているのです。

牧野さんとりょうくんの爪が似ていることに、恭子は以前から気付いていました。

深爪、不揃い、不格好。

丸くて、小さく、平べったい末広がり。

本来ならば、恭子の美しい爪の隣に並ぶことが不適当とさえ思われるような、醜い爪の二人。恭子から里穂ちゃんを奪い、和也を惹きつけ、海外のビーチで友人と肩を組み、のうのうと幸せそうな笑顔を振り撒いている二人。

もしかすると、本当に価値のある爪は、二人のような爪なのかもしれない。そんな考えが、ふと浮かんできました。

ありえない。恭子はすぐさま振り払おうとしましたが、小さなインクのシミがどんどん広がっていくように、じわじわと恭子の中に染み渡っていきました。

自分は、深爪で不揃いで不格好で丸くて小さくて平べったくて末広がりの爪ではないから、こんな思いをしているのだと思いました。

恭子は力無く腕を下ろしました。顔を横に向けて、机のネイルグッズを見ました。

さっきまで恭子の全てだったものが、急に光を失っていくようでした。そこにあったのは、臭い液体の入った、ただのプラスチック容器でした。

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