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風はすっかり秋の香りを含んでいました。
久しぶりの学校に、恭子は少し緊張していました。インフルエンザにかかってしまい、一週間ほど家で過ごしている間に、季節は容赦なく進んでいったようでした。
どこか懐かしささえ感じながら、教室のドアを開けました。恭子は窓側の席に向かいました。カーテンの開いた窓から、朝の光が差し込んで、机の表面の細かな傷を浮かび上がらせていました。
恭子が欠席している間に、席替えがあったことを、担任の先生が電話で教えてくれました。担任の先生は、二日に一度、律儀に学校から電話をかけてきて、恭子の体調を尋ねたり、その日学校であったことを教えてくれたりしていたのでした。
席替えの話を聞いた時、恭子は電話口で、一瞬歯を強く噛みあわせました。もしかしたら、歯がぶつかり合うガチリという音が、担任の先生にも聞こえていたかもしれません。自分が家にいる間に、和也の隣の席ではなくなってしまったという事実は、それだけの衝撃を与えたのでした。
あの席は、大好きな里穂ちゃんの席とは遠く、斜め前の席には牧野さんがいましたが、恭子は概ね気に入っていました。隣に和也がいたからです。
新しい席では、恭子は小関くんの隣でした。小関くんは小柄で大人しく、頻繁に学校を休んでいる子で、恭子はあまり話したことがありませんでした。小関くんの爪の形も覚えていません。和也は教室の真ん中あたりの席で、牧野さんと隣でした。里穂ちゃんは牧野さんの後ろの席でした。紗奈ちゃんは恭子の斜め前の席です。
沈んだ気持ちで荷物を整理していると、紗奈ちゃんが登校してきました。
「ああ、恭子だ! もう大丈夫なの? 会いたかったよおお」
教室の入り口から、恭子目がけて突進してくる紗奈ちゃんの背中で、ランドセルが別の生き物のように揺れています。
「恭子がいなくて、紗奈寂しかった! でも近い席になれて嬉しい!」
ランドセルを背負ったまま、紗奈ちゃんは勢いよく恭子の机に手をつきました。
「やっぱり先生も、仲良い人と近い席になるように配慮してくれるんだね!」
うーんどうなんだろうね、と曖昧な返事をする恭子にお構いなく、紗奈ちゃんは恭子が休んでいた間の出来事を話し始めました。恭子の机に、湿った紗奈ちゃんの手の跡がペタペタとついていきました。
紗奈ちゃんの頭越しに、教室のドアが開いて、里穂ちゃんと牧野さんが入ってくるのが見えました。里穂ちゃんは、騒がしい紗奈ちゃんの方に目をやり、その奥にいる恭子に気付きました。恭子と里穂ちゃんは離れたところから微笑みを交わしました。それから里穂ちゃんは、自然に恭子から目を逸らすと、牧野さんと談笑しながら席に向かいました。恭子のところには来てくれませんでした。
紗奈ちゃんがいなければ、きっと来てくれたはずなのに。恭子は悔しく思いながら、里穂ちゃんの笑顔を目で追いました。里穂ちゃんが牧野さんと話している内容が気になって仕方がありませんでした。
給食の時間になりました。恭子の小学校では、席の近い四人ごとに机をつけ、向かい合って食べることになっていました。恭子は一番窓側の席なので、机を動かすと、教室全体を見渡すことができました。案の定、小関くんは欠席でした。
和也と里穂ちゃんと牧野さんは同じグループで、互いに机をくっつけています。恭子の位置からは、和也の背中と、並んで座っている里穂ちゃんと牧野さんの顔が見えました。
今日のメインは、鶏の照り焼きでした。恭子は鶏の照り焼きが好きではありませんでした。
味付けではなく、分厚い鶏皮の食感が苦手だったのです。鶏皮だけ残すという手もありましたが、恭子は、給食を残すことがなんとなく恥ずかしいと思っていました。なので、いつも鶏の照り焼きが給食に出るたびに、なるべく噛まずに丸呑みをして乗り切っていたのでした。
恭子は、鶏の照り焼きを避けるように、けんちん汁、青菜の煮浸し、白米を食べ進めました。斜向かいの席の紗奈ちゃんは、鶏の照り焼きが大好物らしく、真っ先にかぶりつきました。紗奈ちゃんの油でてかった唇が動いている様子が気持ち悪く、恭子は話しかけられても、紗奈ちゃんの方には目を向けないようにしていました。
必然的に、恭子は前の里穂ちゃんと牧野さんを眺めることになりました。
二人はとても楽しそうでした。教室全体が騒がしかったため、二人の声は聞こえませんでした。時折、和也や里穂ちゃんの向かいの太田くんとも言葉を交わしつつ、基本的には二人でおしゃべりをしていました。二人とも話に熱中しすぎて、全然箸が進んでいませんでした。
自分のいない間に、里穂ちゃんと牧野さんの距離が縮まっていたことに、恭子は少なからぬショックを受けていました。まだ暑かった時に、里穂ちゃんと牧野さんが親しげに話をしていた、いつかの朝の情景がよぎりました。
恭子は担任の先生を恨みました。
先生は何もわかっていないのです。里穂ちゃんと本当に仲良しなのは恭子で、恭子が隣になりたかったのは小関くんではなく和也で、恭子と紗奈ちゃんは友達なんかではないのです。本当ならば、恭子が牧野さんの場所に座っているべきでした。
牧野さんと話している里穂ちゃんは、恭子の知っている里穂ちゃんではありませんでした。
里穂ちゃんは、後ろに大きくのけぞって笑っていました。手を叩き、顔を赤くして、涙を拭うほど大笑いをしている里穂ちゃんを、恭子はこれまで見たことがありませんでした。里穂ちゃんはいつも静かで穏やかで、上品な女の子のはずだったのです。
「ねえ恭子聞いてる?」
紗奈ちゃんが恭子の机を軽く叩きました。
恭子は驚いて視線を動かし、紗奈ちゃんの方を向きました。避けていたのに、間違えて、芋虫のようにうごめいている紗奈ちゃんの唇を見てしまいました。すぐに目を逸らしたものの、テカテカとした光沢が恭子の目にこびりつきました。
「鶏の照り焼き嫌いなの?」
紗奈ちゃんが恭子に尋ねました。
「いや別に。なんか残っちゃっただけ」
「そっかー、美味しいものは最後に取っとく派なんだね」
白い丸皿の上で、鶏の照り焼きが恭子を見返していました。光っている鶏皮と、紗奈ちゃんの唇が重なりました。
恭子は鶏の照り焼きを箸でつかみました。タレが服に落ちないように気をつけながら、かぶりつきました。案の定、鶏皮は柔らかなスライムのような食感で、噛み切ることができませんでした。恭子は鶏皮を丸ごと口に含みました。冷や汗が出てきました。先に肉の部分を飲み込み、息を止めて口の中に残った鶏皮を噛みました。
鶏皮から意識を逸らすために、恭子は和也の背中と、里穂ちゃんと牧野さんを見つめました。息を止めたまま、ゆっくりと鶏皮を飲み下しました。生温かい塊が、食道を下っていくのがわかりました。
少しだけ滲んだ恭子の視界の中で、里穂ちゃんと牧野さんは笑い合っています。
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