教室のドアを開けると、里穂ちゃんが振り返りました。恭子の斜め前の、牧野さんの机の前に立っています。どうやら二人で話をしていたようです。

里穂ちゃんと牧野さんが二人きりで喋っているのを見るのは、初めてでした。

里穂ちゃんは牧野さんの取り巻き集団には属していませんでした。高確率で紗奈ちゃんの邪魔が入るものの、里穂ちゃんはたいてい、恭子と一緒に行動していました。里穂ちゃんはこれまで、恭子以外のクラスメイトと、一対一で親睦を深めようとしたことはなかったのでした。

「おはよう」

里穂ちゃんが恭子に挨拶しました。目尻には、いつもの穏やかな皺が寄っていました。

挨拶を返して、恭子は自分の席にランドセルを置きました。椅子を引き、ランドセルの中身を机に入れました。空になったランドセルを後ろのロッカーに入れ、机に戻って椅子に掛けた防災頭巾の上に腰を下ろしました。

里穂ちゃんは恭子の元へ来ませんでした。

挨拶の後、里穂ちゃんはチラリとも恭子の方を見てくれませんでした。少し前屈みになって牧野さんと顔を近づけ、恭子には聞き取れない声でなにかを話し続けています。

今日のように、紗奈ちゃんがまだ登校してきていない朝は、恭子と里穂ちゃんはどちらかの机で他愛もないことを話し、時間を潰すのがお決まりになっていました。恭子は、当然、今朝も里穂ちゃんが話しに来てくれるだろうと思っていました。

牧野さんは時々のけぞって静かに笑いました。里穂ちゃんも口元に手を当て、おかしそうに目を細めます。牧野さんのポニーテールが揺れ、後ろの和也の机を撫でました。

和也をはじめとする騒がしいクラスメイトがいない朝の教室は、ひっそりとしていました。里穂ちゃんと牧野さんの密やかな笑い声が、廊下や他の教室から響いてくる声や足音、蝉の声と混ざっていきます。

恭子は何食わぬ顔で、図書室で借りていた本を開きました。文章の意味を理解することができませんでした。粘土で固められたかのように全身が硬直していました。恭子はただ挿絵のページを眺め続けました。

里穂ちゃんと牧野さんはなにを話しているのか。どうして里穂ちゃんは自分のところに来てくれないのか。

二人のことが気になって仕方がないのに、恭子は動くことができませんでした。ただ俯いて聞き耳を立てることしかできない自分が情けなく、唇を噛み締めました。紗奈ちゃんの厚かましさが、初めて羨ましいと思いました。



「恭ちゃん、着替えに行こう」

ピンクのプールバッグを持った里穂ちゃんが、恭子の元へやって来ました。

「ごめん、一瞬待って」

恭子は黒板の文字を急いで書き写しました。まだ、牧野さんの爪に気を取られて、授業に集中できない日が続いていました。

「あれ、水着は?」

ノートを閉じて、そのまま何も持たず席を離れた恭子に、里穂ちゃんが尋ねました。

「今日あれだから、見学なの」

恭子の答えに、里穂ちゃんは「そっか」と頷きました。

「つらくなったらいつでも言ってね」

「ありがとう」

恭子のスカートのポケットは、小さなポーチで膨らんでいました。恭子が足を踏み出すたびに、太ももの辺りでポーチが鞠のように弾みました。

紗奈ちゃんはトイレに行っているらしく、教室にはいませんでした。もたもた歩いていると、先週みたいに、トイレから出てきた紗奈ちゃんに捕まってしまうかもしれないと思い、恭子は少しだけ足を早めました。恭子は穏やかな気持ちで、最近読んでいる本の話をしながら廊下を歩きました。

あの朝以来、里穂ちゃんと牧野さんが二人きりで話している場面を目にすることはありませんでした。恭子と里穂ちゃんはまた、何事もなかったように、お互いの机で喋り、一緒に廊下を歩き、下校しました。紗奈ちゃんが二人の間に割って入ってくるのも相変わらずです。

あの日は、牧野さんにどうしても話さなくてはならない急用があったんだろう。だから、里穂ちゃんが恭子のところに来てくれなくても仕方がなかったんだ。恭子はそう考えることにしました。

牧野さんとなにを話していたのか、里穂ちゃんに直接尋ねる勇気が、恭子にはありませんでした。

恭子は怖かったのです。

もし、ドラマや漫画などの、普段の恭子と里穂ちゃんの会話と同じ内容だったら。

恭子は里穂ちゃんにとって、話題を共有できる唯一の友達ではなくなったということになります。恭子以外にも気の合う友達がいることに、里穂ちゃんが気付いてしまう。それが、よりによって牧野さんかもしれない。

あの、醜い爪。

でも、恭子はそこまで深刻に考えてはいませんでした。里穂ちゃんはこれまで通りの里穂ちゃんでした。そして、恭子と里穂ちゃんの世界は、今もこうしてしっかりと維持されているのです。


恭子は素足をプールサイドの水たまりにつけました。風が太ももを伝っていきます。

大きな声で名前を呼ばれ、見ると紗奈ちゃんがプールから手を振っていました。恭子も小さく手を振り返しました。

今日の見学者は恭子一人でした。先週このベンチに座っていた牧野さんは、今日は紫色の水着を着て水に浸かっています。

少し肌寒く、恭子は腕をさすりました。今日は一面の曇り空でした。恭子が座っているベンチは、日よけのせいで周りよりも一段階薄暗くなっていました。日差しがあってもなくても、蝉は悪あがきでもしているように、恭子の背後でジリジリと唸っていました。

授業開始から約三十分。恭子は退屈して爪を眺めました。ただベンチに座って見ているだけだと、時間の経過がとても遅く感じられました。はじめのうちは、足元のプールで泳いでいるクラスメイトの姿が面白かったものの、あっという間に飽きてしまいました。なにしろ、ただクラスメイトが水飛沫をあげているだけの光景が延々と続いているのです。

それでも、この爪を短くしてしまうよりは断然マシだ、と恭子は指を曲げて両手の爪を見ました。この曇天にも関わらず、十枚の爪はきらりと反射して光りました。昨夜また、恭子が時間をかけて念入りにケアをしたおかげでした。

お母さんに爪の長さを注意された恭子でしたが、どうしても爪を切りたくありませんでした。せっかくちょうど良い長さになってきたところだったのです。考え抜いた結果、爪を切らなくてはならないのなら、仮病を使ってプールを見学すればいいのだと思いつきました。

恭子は昨夜、使いもしない生理用ナプキンをポーチに押し込んで準備をしました。初潮がいつ来てもおかしくないから、と数ヶ月前にお母さんが買ってくれて、ずっと手付かずのまま部屋の隅に放置されていたのを引っ張り出したのでした。

無用の長物の重さを感じながら、恭子は太ももを揺らしました。ここは小学校のプールではなく、おしゃれなカフェなのだと想像しようとしましたが、どうにもうまくいきませんでした。牧野さんはここに座って、一体何を考えていたのだろうと恭子は思いました。

今はクロールの練習をしているところでした。男子は右側、女子は左側で、プールの底の線に沿って泳ぎます。ビート版を使う初心者はプールサイド側で、上級者は中央付近で泳ぐように、習熟度によって場所が分けられていました。

水泳教室に通っている里穂ちゃんは、中央付近の線上で気持ちよさそうに泳いでいます。紗奈ちゃんは初心者と上級者の間の場所で、派手に水飛沫を立てながらも全く進めていませんでした。牧野さんは、恭子が座っているプールサイド側で、ビート板にしがみついていました。

恭子は中央付近で勢いよく前進する和也を目で追いました。半袖の日焼けの跡がついている、二の腕から下だけが黒い和也の上半身が翻っています。恭子は、和也と並ぶように泳いでいる里穂ちゃんが、少しだけ羨ましくなりました。

あっという間に向こう岸にたどり着いた和也は、プールから出て、歩いて出発点まで戻ります。水泳帽とゴーグルを取り、水がしたたる前髪をかきあげました。半分ほど歩いたところで、後ろからやってきた亮太が和也に声をかけました。二人は立ち止まり、泳いでいるクラスメイトを見ながら何か話していました。

間にプールを挟んで、恭子と二人は向き合う形になりました。

恭子は目を凝らしてみましたが、遠すぎて二人の表情をはっきりと見て取ることはできませんでしたし、会話の内容も分かりませんでした。和也がふざけて変なポーズをし、手を叩いて喜んだ亮太が同じポーズをとっているのが見えました。バカみたいと思いながらも、恭子の口角は自然と上がっていました。

それから二人はまた歩き出しました。顔はプールの方を向いています。風の具合で、泳いでいるクラスメイトに言葉をかけている声が、途切れ途切れに聞こえてきました。

ゆっくりと蛇行しながら泳いでいた牧野さんが、疲れてしまったのか、途中で止まりました。ビート板から手を離してプールの中で立ち、ゴーグルの位置を調整しています。水着姿を見ると、牧野さんがいかに華奢であるかがよく分かりました。恭子の三分の二くらいしかなさそうな、細い二の腕が生白く濡れていました。

「おーい牧野、がんばれよ!」

ちょうど風が恭子の方に吹き、和也の大声が、水音や蝉の声をかいくぐって恭子の耳に届きました。

牧野さんが和也の方を見ました。和也が牧野さんに向かって、脱いだ水泳帽を振り回しました。亮太が「がんばれー」とやまびこのように繰り返します。

牧野さんは少し恥ずかしそうに頷き、小さく手を振りました。それからビート板を持って再び足を動かし始めました。和也と亮太は、泳いでいる他のクラスメイトに茶々を入れつつ歩き続けます。和也が牧野さん以外の女子に声をかけることはありませんでした。

途中から立ち泳ぎで誤魔化していた紗奈ちゃんが、向こう岸から戻ってきてベンチの前を通りました。紗奈ちゃんが恭子に何か言っていましたが、恭子は返事をしませんでした。里穂ちゃんが、気遣わしげに恭子を見ながら、ベンチを横切りました。

牧野さんはまだプールの中でもたついていました。

恭子は内臓が捩れていると思いました。床を水拭きした雑巾を、バケツの上で絞った時に垂れる汚い水が、自分の内臓の捩れから染み出してきた気がしました。

男女を分ける不可視の線なんて、はじめから和也の目には見えていなかったのです。もし見えていたとしても、その線を越えさせるだけの何かが、牧野さんにはあったということでした。

生暖かい風が吹いて、恭子は頬が濡れていることに気付きました。手のひらで拭うと、汚い何かがべっとりと手の皺に入り込んでいきました。

今この瞬間、和也がこちらを見ていてくれたらよかったのに、と恭子は思いました。

恭子どうしたの、なんで泣いてんの。そう一言、声をかけてくれたら、恭子の胸は一気に軽く晴れ渡ったことでしょう。

でも、和也は恭子の涙には気付きませんでした。一瞥をくれることすらありませんでした。和也の赤い水泳帽が、ピンに向かって一直線に進むボーリングの球のように、滑らかに水面を進んでいきます。

太陽が顔を出しました。プールの水が白く光りました。恭子は眩しさに目を細めました。日よけのあるベンチの下は、薄暗いままでした。

実際にはベンチからプールを見下ろしているのに、恭子はまるで、プールの牧野さんたちに見下ろされている気持ちになりました。先週はベンチが羨ましく、今はプールが羨ましいのでした。

恭子は泣いてしまった自分に腹が立ってきました。まるで、始まってもいないし始める気もない試合に、自分から白旗をあげてしまったような気分でした。

下を見ると、いつの間にか水たまりが干上がっていました。

それもこれも、全て牧野さんのせいでした。

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