授業終了のチャイムが聞こえて、恭子は慌てて目線を黒板へ戻しました。

「きょーつけ、礼」

やる気のない日直の掛け声に従って、恭子たちはなおざりに頭を下げました。

一斉に教科書やノート、筆記用具などを片付け始めたクラスメイトたちを横目に、恭子は日直が黒板をきれいにしてしまう前に、チョークの文字を急いでノートに書き写します。

いつの間にか、黒板には見慣れぬ図や単語がたくさん書き足されていました。書かれている内容を理解する時間もなく、恭子はろくに手元も見ず必死に鉛筆を動かしました。

最近、恭子は授業に集中できていませんでした。国語の時間も算数の時間も、恭子の頭はどことなくぼんやりしていました。授業終了のチャイムが鳴って初めて、恭子の時間はゼンマイが巻かれたように動き出すのです。先生の声はさざなみのように恭子の鼓膜を渡ってゆきますが、それがはっきりとした痕跡を残すことはありませんでした。

授業中、恭子が見ているのは、斜め前に座る牧野さんの後ろ姿、正確には牧野さんの指先でした。鉛筆を握り、教科書をめくり、時折目にかかる前髪を払う、牧野さんの細い手と小さな爪。

初めのうち、恭子にとって牧野さんの爪は完全に自分のそれよりも劣った存在でした。恭子の美の基準からすれば、恭子の爪と牧野さんの爪が同じ土俵に上がることさえ、不適切なことのように思えました。

それでもなぜか、恭子は牧野さんの爪に完全に無関心でいることはできませんでした。

牧野さんの爪の醜さを軽蔑すればするほど、恭子は彼女の歪な爪から目が離せなくなりました。自分の爪の美しさをあらためて認識し、自己肯定感を高めるための道具として、牧野さんの爪を利用していたところもあったでしょう。

しかし、牧野さんの爪を視界に入れ続けるにつれて、恭子は妙な感覚に陥るようになりました。

私はこの爪を、ずっと前から知っていた気がする。

深爪で不揃いで不格好な、取るに足らないようなそれを、目にするたびに、恭子はどこか落ち着かない気持ちになりました。まるで、自分の心の奥底にいつの間にか入っていたヒビから、少しずつ泥水が浸入してくるような感覚でした。不安で落ち着かない気持ちの発生源も、正体も、その気持ちが恭子を引っ張っていこうとしている場所も、何もかもが不明瞭で捉えられないのでした。

「恭ちゃん、着替えに行こう」

ピンクのプールバッグを持った里穂ちゃんが、まだ机に齧り付いていた恭子のところへやってきました。

次の時間は二時間連続でプールの授業でした。授業開始前の、十分間の休憩時間を使って水着に着替えなくてはなりません。

プール以外の体育の授業では、女子は教室を出て廊下を少し行ったところの空き教室、男子は教室かトイレで着替えるのが普通でしたが、今日は校庭の横にある屋外プールまで移動してから、それぞれ更衣室を利用することになっていました。

和也はとっくに席を離れ、後ろの方で男子たちとふざけ合っています。「なんだよそれ!」と騒ぐ声が聞こえてきます。他の女子たちが、数人で連れ立って廊下を歩いていくのが見えました。

恭子はまだ黒板の文字を全て書き写せていませんでしたが、プールバッグを振り回している半裸の男子たちの中に一人残されるのも嫌だったので、ノートを閉じ、机の横に引っ掛けていた自分のプールバッグを手にしました。

「あとで私のノート見る?」

並んで廊下を歩きながら、里穂ちゃんが恭子に言いました。

「いいの? ありが」

とう、と恭子が言い終わる前に、「恭子ー!」という声が廊下に響き渡りました。恭子と里穂ちゃんが廊下の先に目をやると、トイレから出てきた紗奈ちゃんが、こちらに走ってくるのが見えました。

ベタベタと反響する上履きの音とともに、紗奈ちゃんの黄色のプールバッグが午後の日差しに乱反射して、恭子は目も耳も塞ぎたくなりました。

「先に教室出ちゃってごめんねえ! 一緒にプール行こ! 体育の授業、全部プールだったらいいのになあ!」

紗奈ちゃんの額に、汗で湿った前髪がへばりついているのが見えました。もんわりと空気のこもっている廊下は暑苦しく、自分も汗をかいていることはわかっていましたが、恭子は紗奈ちゃんの汗に嫌悪感を抱いてしまいました。

紗奈ちゃんと目を合わせようとすると、どうしても額の汗が目に映るので、恭子は努めて廊下の先を見つめたまま相槌を打ちました。恭子と里穂ちゃんと紗奈ちゃん、三人分の足音が鈍く響いていました。


お尻に水着が食い込むのを気にしながら、恭子は生ぬるいプールに浸かっていました。

どうにかして水着のズレを直したいと思いましたが、透明な水の中でお尻に手をやる勇気が出ませんでした。他のクラスメイトたちに見られるのが恥ずかしかったからです。

恭子はプールが好きではありませんでした。

一見すると冷たくて気持ちよさそうなのに、いざ入ってみると、中途半端に温かい。そのギャップに、いつまで経っても慣れることができませんでした。それに、水面に漂っている虫の死骸や枯れ葉、水中に潜った時に見える、プールの底の汚れも嫌でした。

それになにより、ぎゅうぎゅうと体を締め付けてくる水着が苦手でした。

みんながさっさと手際良く水着を着脱している中、恭子だけはいつまでももたついていました。伸縮性のある水着に、なんとか手足を通そうとしては失敗し、何度もやり直しているうちに、だんだん自分が情けなくなってくるのでした。着替えを終えて一人また一人と更衣室を出ていくクラスメイトの後ろ姿を見て、このまま自分だけ裸のまま取り残されてしまうのではないか、と怖くなるのです。その恐怖が恭子を焦らせ、ますます水着が恭子の言うことを聞いてくれなくなるのでした。

「よーい、スタート!」

プールに入って仁王立ちしていた先生が笛を吹きました。合図を待っていた生徒たちは、一斉に水中に潜りました。三十個ほどのおもちゃが底に散りばめられており、それを時間内にどれだけ集めることができるかを競うゲームでした。クロールや平泳ぎなどの練習が一通り終わり、授業最後のお楽しみとして設けられた時間に入っていました。

蝉の大合唱をかき消すほどに激しい水の音です。

横にいた紗奈ちゃんが立てる水飛沫が、恭子の耳に入りました。里穂ちゃんはいつの間にか離れた場所にいて、他の女子と騒いでいるのが見えました。恭子も負けじとプールに潜り、必死になっておもちゃに手を伸ばしました。

 業時間が経過するうちに、恭子は自分がプールを好きではないことを忘れていきました。先生が指示する授業内容を次から次へとこなしていくことで精一杯で、好き嫌いにこだわっている余裕が無かったのです。プールの授業の時はいつもこうでした。恭子の気持ちが重くなるのは、授業が始まる前と終わった後でした。

恭子は赤い星形のおもちゃに手を伸ばしたものの、なかなか届かず、息も苦しくなってきたので、水面から顔を出しました。

水色のゴーグル越しの世界はぼんやりとしていて、現実味がありませんでした。恭子は顔に当たる風を感じながらも、まだ水中にいるような気分でした。

紗奈ちゃんはおもちゃ探しに夢中でした。恭子そっちのけで必死に足を動かし、派手に手足を動かしていました。紗奈ちゃんにぶつかられないよう、恭子はそっと離れました。少し向こうで、ゴーグルを外した里穂ちゃんが、眩しそうに目を細めたのが見えました。その奥の方では、和也や亮太たちがおもちゃを投げ合っていました。

誰に言われたわけではありませんが、一つのプールの中で、自然と男子と女子のテリトリーが生まれていました。まるでプールの中央に線が引かれているようでした。男子と女子は互いのテリトリーに侵入しないように気を付けつつ、なにも気にしていないというそぶりではしゃいでいました。

息を大きく吸い込んで、恭子は再び潜りました。水中のくぐもった音を感じながら、潜る直前に目に焼き付けた和也の赤い水泳帽を思い出しました。さっき恭子が取り損ねた、赤い星形のおもちゃは、ちょっと目を離していた間にどこかにいってしまい、見つけることができませんでした。

恭子は残念な気持ちで水中を眺めました。たくさんの足と頭が見えます。水中は光の届き方が違うのでしょうか。すぐ近くにいる人の体はくっきり見えるのに、ほんの少し離れたところにいる人のことは、まるで何十メートルも遠くにいるかのように輪郭線がおぼろげなのでした。

あいにく、恭子の近くには、一つもおもちゃが残っていませんでした。向こうのほうで、誰かが誰かを押しのけておもちゃを掴もうとしていました。きっと紗奈ちゃんだろう、と恭子は思いました。

もうそろそろ、先生が終了の合図をすることでしょう。結局、お目当てのおもちゃを獲得することができず、がっかりして恭子は浮かび上がりました。

恭子の近くにベンチがありました。体調不良などの理由で、授業を見学している生徒が座る場所でした。ベンチには日よけがついていて、太陽がカンカンに照り付けているプールサイドで唯一の日影を生み出しています。

今日は牧野さんがベンチに座っていました。膝丈のチェックのスカートから、ほっそりとした白い足が伸びていて、柔らかな曲線をまとった素足が、プールサイドの水たまりを踏んでいます。そういえば、授業前の更衣室に牧野さんがいなかったことを、恭子は今更ながら思い出しました。

ぼんやりとどこか遠くを眺めている牧野さんを、恭子はプールの中から見上げました。

恭子がつけている薄い水色のゴーグルのせいで、牧野さんは青空の中に佇んでいるようでした。牧野さんだけ見ていると、まるでここが小学校のプールではなく、恭子がまだ足を踏み入れたことのない、おしゃれなカフェであるかのように思えてきます。

水着に締め付けられて、プールでびしょ濡れになっている恭子とは対照的に、牧野さんは涼しげに日陰に佇んでいました。牧野さんの傍には小さなポーチがありました。きっとあの中には生理用ナプキンが入っているのだろうと恭子は想像しました。

教室で同級生と話している時は、だらしなく緩やかに曲線を描いている牧野さんの唇は、今は真っ直ぐに結ばれています。下から見上げると、牧野さんのまつげの長さがよくわかりました。

恭子は牧野さんの視線の先を追いました。紗奈ちゃんも里穂ちゃんも、男女のテリトリーを分けている、目に見えない線も超えた向こうで、和也が笑っていました。

恭子に見られていることに気付いていない牧野さんは、和也を見つめ続けます。

牧野さんはおもむろに、両手を太ももの上で動かし始めました。まるでピアノを弾いているかのようでした。

とんとんとん、とリズミカルに弾む指先を、正確には爪を、恭子は凝視しました。

ゴーグルの水色越しに、爪だけが浮かび上がり、独立した生き物のように輝いていました。

牧野って手だけじゃなくて爪も小せえのな。

数日前の和也の声が聞こえた気がしました。和也と牧野さんの手の距離を思い出しました。

恭子は無意識のうちに、プールの中の自分の爪を指でなぞりました。なぜかとても惨めな気持ちでした。

笛の音が響き渡りました。「はい終了!」と先生が声を張り上げます。少しずつ水飛沫が収まり、蝉の声が戻ってきました。

いーち、にーい、とみんなが声を合わせて、獲得したおもちゃの数をカウントしていきます。その声を聞きながら、恭子はまだ牧野さんの爪を見ていました。

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