給食の時間に食べたカレーライスの匂いがもんわりとこもっている教室は、温室のように生ぬるい空気で満たされていました。向かい合って座っている和也の頭越しに、クリーム色のカーテンが太陽の光を滲ませているのが見えます。ほどよい満腹感と午後の柔らかい日差しで、教室全体にどことなくのんびりとした雰囲気が漂っていました。

四時間目の国語の授業で、席の近い者同士で四人グループを作り、机を合わせてグループワークという名のおしゃべりに興じている恭子たちの声が、まろやかに混ざり合っていました。

「『かぷかぷ』笑うってどんな感じなのかな?」

恭子の横で、配布された授業プリントの空欄を鉛筆の文字で埋めながら、亮太がつぶやきました。

「さあ……『かぷかぷ』って言ってんじゃね」

「それはないでしょ」

和也の適当すぎる返事に、恭子は突っ込みを入れました。

「てかさ、クラムボンって誰? おれ頭悪すぎて全然わかんないんだけど」

「おれだってわかんねえよ。牧野わかる?」

和也が話を振ると、牧野さんは顔をほころばせて首を傾げました。

「ほら、牧野にもわかんないんだからおれらがわかるわかけないんだよ。きっと先生も分かってないって」

なぜか誇らしげに和也が声を張ります。

いやいやそんなことないって、と牧野さんが謙遜しました。恭子はその様子を黙って見つめています。

高い位置で一つにまとめられた艶やかな黒髪が、牧野さんの肩を滑り、彼女がプリントに顔を近づけて鉛筆を動かすたびに、生き物のようにゆらゆら揺れました。和也も亮太も同じようにプリントを埋めたり、背もたれに重心を移して足をぶらぶら揺らしたりしていましたが、その何気ない一つ一つの動作から、彼らが牧野さんを意識していることが十分すぎるほど伝わってきました。

牧野さんがやってきてから約二週間が経っていました。

いまだに、クラスメイトたちは彼女への興味を絶やすことはありませんでした。朝の会が始まる前や休み時間、放課後など、少しでも時間があれば、女子たちが何人も連れ立って牧野さんの席の周りを取り囲み、賑やかに声を交わします。その女子たちの輪を、男子たちが遠巻きに眺めています。時折、声が大きくて恐れを知らない和也のような男子が、聞こえてきた会話に茶々をいれることもありました。

玲香ちゃん、髪の毛ツヤツヤしてるしまつ毛長くて超羨ましい! なんでそんなに細いの? スタイルキープの秘訣は? ピアノ二歳からやってるのすごいね、今度聞かせてよ! 週末、近くのららぽ行かない?

みんな、牧野さんを自分のテリトリーに引っ張り込もうと必死でした。

恭子はそんな女子たちの声を、斜め後ろの席から冷めた気持ちで聞いていました。相変わらずまとわりついてくる紗奈ちゃんを適当にあしらいながら、恭子は窓側の席で読書をしている里穂ちゃんの後ろ姿と、女子たちの隙間から覗く、牧野さんの指先を交互に盗み見ました。

いくら髪がツヤツヤしていてまつ毛が長くて細くてスタイルが良くてピアノを二歳から続けていたところで、それが何だっていうんだろう? 一番大切な爪があれでは、どうしようもない。

恭子はそう思っていました。

牧野さんの爪を馬鹿にする気持ちの下に、嫉妬や羨望が隠れていることに、恭子は自分でもうっすら気が付いていましたが、だからといってどうすることもできませんでした。

「牧野の手ってちっちぇよな。ピアノ弾くの大変じゃないの?」

暇そうに足を揺らしていた和也が、牧野さんの手元を見て言いました。牧野さんは鉛筆を持っていた手を広げ、「そうかな?」と答えます。風鈴の音のように透き通っていて、どこか甘ったれた声でした。

「そうだよ、……ほら」

和也が自分のてのひらを牧野さんの手にぐいっと無造作に近づけ、重ね合わせました。牧野さんは突然触れ合った温もりに驚いたように、少し顔をのけぞらせます。

恭子はそれを見て、スッと小さく息を吸い込みました。恭子の左胸で、生々しい塊が意志を持っているように不規則に震え出しました。

「ほんとだ。和也と牧野、手の大きさが全然違うわ。やっぱ身長とか関係してんのかな。牧野身長いくつ?」

能天気な亮太の声を聞きながら、恭子はそっと離れた二つの手にぼんやり目を向けました。すぐに鉛筆を握るでも、太ももの下に潜らせるでもなく、和也と牧野さんの手は微妙な距離を保って、机の上に残っていました。どちらかがほんの少しでもずらせば、触れ合ってしまうくらいの近さで。

「おーい、寝てんの?」

気付くと、和也が恭子の目の前で手を左右に振っていました。牧野さんに近い方の手はそのままで、もう片方の手を恭子の方へ突き出し、やや身を乗り出しています。

「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

「急に異世界に飛ぶなよ。で、恭子は身長いくつ?」

「百四十五だけど」

「ふうん、じゃあ牧野よりはでかいのか。ほい、手え出して」

は? という表情の恭子に、和也は無言でずいっと手のひらを向けました。

夏休みの間に真っ黒に日焼けした顔や腕とは対照的に、血管が透けて見えるほど白い和也の手のひらを突きつけられて、恭子の心臓が先ほどとは違う意味で動き出したのがわかりました。血が全身を駆け巡る音が聞こえるようでした。

恐る恐る、恭子が手のひらを向けると、和也はさらに自分の手を近づけて、躊躇なく恭子の手と重ね合わせました。薄く汗をまとってひんやりとした和也の皮膚が、恭子の温かな手のひらでじんわり溶けていきます。

「あ、恭子の方が牧野より手がでかいや。てかお前手えあったかいな」

和也の手の冷たさが残る手をそっとおろして、恭子は笑いました。

そうだ、和也は誰に対してもフランクでぶしつけでガサツな人だった、と恭子は思い出しました。

自分と他者の間に張り巡らされた壁をうまく乗り越えて、いつの間にか、みんなの心の中に居座っているような人。摩擦も軋轢も引き起こさず、いつも滑らかにみんなと交わっていく人。和也にとって、誰かの手に触れることは、カレーをスプーンですくったり、鉛筆で文字を書いたりすることの延長線上にある、なんてことない普通の動作の一つなのでしょう。

そんな和也の性格に、恭子は好ましさと同時に虚しさも感じていました。

どれほど言葉を交わしても、どれほど長く一緒にいたとしても、和也が誰かを本当に心の中に受け入れることは無いだろうという、直感のようなものがあったからです。和也はみんなの心の壁を簡単に乗り越えてきますが、和也自身の心の壁は恐ろしく頑丈で、誰も乗り越えることができないのだと、恭子は勝手に思っていました。

その頑丈な心の壁に、恭子は安心感を抱いてもいました。

和也が誰にも、本当に心を許していないということは、和也がまだ誰のものでもないということでもありました。いつか和也は誰かのものになってしまうかもしれません。しかし、その未来はあまりにも漠然としていました。

今、和也が誰のものでもないこと、いつか和也にとって特別な存在になる可能性が、自分を含めた全員にあること。恭子は、現状への安心と、未来の可能性への根拠のない期待に寄りかかっていたのでした。

うっかり別のものに触れて、和也の手の感覚を更新してしまわないよう、恭子は机の上の手を握りこみました。

「そういや、恭子の爪ってよく女子から褒められてるよな。そういう細長い形が綺麗ってこと?」

「たしかに俺らの爪とは形が違うな。全然気付かなかった」

亮太が恭子の爪を覗き込みました。それから自分の手を広げて、窓からの光に押されて申し訳程度に光を放っているだけの蛍光灯にかざしました。顔を上に向けた亮太の口が半開きになり、白い歯と朱の口蓋が見えました。

「時々褒められるけど自分じゃよくわかんないな」

次第に落ち着きを取り戻した心臓に安堵しつつ、恭子も自分の手を広げました。

「まあ爪なんて普通そんな気にするもんでもないよなあ」

あくび混じりの和也の言葉に、恭子は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けました。視界がぐらぐらと波打ち、焦点がぶれて、一瞬手のひらが二重に見えました。

「でも私は恭子ちゃんの爪が羨ましいな。男子は爪とか気にしないかもしれないけど」

恭子の内心の動揺に気付いていない牧野さんが、のんびりとした口調で言いました。

「へえ、そんなもん? まあたしかに綺麗か、恭子の爪は。あ、牧野って手だけじゃなくて爪も小せえのな」

和也が牧野さんの手元を覗き込みました。

他の誰かが言えば悪口と取られかねない言葉も、和也の口から出ると角が取れます。受け手に、言葉の意味を必要以上に深読みさせる気を起こさせないような、透明な純粋さのようなものが、土砂に混ざった砂金のように、和也の言葉には散りばめられていました。

「それってピアノ弾くからわざと短くしてるの?」

亮太が聞くと、牧野さんは「うん」と頷きました。

「ずっと深爪だから、恭子ちゃんみたいな爪すっごく憧れる。私もそういう爪になりたい」

「『そういうものにわたしはなりたい』みたいだったね今の」

前回の国語の授業で少しだけ触れた『雨ニモマケズ』を引き合いに出して、亮太が冗談を言いました。なんだよそれ? と和也が首を傾げるので、「和也、前の授業でずっと舟こいてたもんね」と恭子が言うと、和也が「ちょ、余計なこと言うなって」と慌てました。「お前後ろの席だからって寝てんなよ」と亮太が指先で机の上の消しカスを和也の方へはじきます。

「でもさ、爪の形なんて人それぞれだろ。このクラスの全員がおんなじ形の爪だったらちょっとキモくね」

恭子の机の上にも飛んできた消しカスを手で払い落としてくれながら、和也はなんでもないことのように言いました。

恭子は教室を見回しました。四十人弱の児童たちが、四つの机をつなぎ合わせた小さな島を作って、笑ったりあくびをしたり頬杖をついたり机に落書きをしたりしています。先生は後ろに手を組んで、島から島へと難破船のようにふらふらと移動し、児童らと言葉を交わしていました。

先生は、指先よりも二ミリほど短く、その二ミリの隙間にいつもチョークの粉が溜まっている爪。里穂ちゃんは、恭子よりもやや長方形気味で、まだ甘皮の残る細長い爪。里穂ちゃんの隣の席の優斗くんは、いつも真っ直ぐにしか切らないせいで、爪先の両端にハンペンのような白い三角形が残っている爪。紗奈ちゃんは、運動会の徒競走などで使用するために校庭に石灰で引かれている、横に長い楕円のような形をした、縦に短い爪。紗奈ちゃんの後ろの席の誠くんは、錐のように先端が尖っていて、甘皮がささくれ立っている爪。亮太は、根本と先端が線対称な曲線を描いていて、根本の白い部分が目立つ爪。和也は、大きくて長く、ピンク色の部分が指の先端までをたっぷりと覆っている爪。牧野さんは、深爪のせいで指の先端が爪先からはみ出している、扇状の、丸くて平べったい小さな爪。

恭子は、クラスメイト一人一人の爪の形をよく覚えていました。クラスメイトの顔を思い浮かべるとき、彼らの爪の形も一緒に脳裏に浮かび上がります。

意識的に爪の形を覚えようとしていたわけではありませんでしたが、幼い頃から自らの爪を見ることを日常の動作として行なってきた恭子には、無意識に、他人の爪も積極的に視界に収めるという癖がついていたのでした。

恭子の記憶が正しければ、クラスメイトらはそれぞれ違う形の爪を持っていました。そしてそれは至極当然のことで、和也の言葉の通り、クラスの全員がおんなじ形の爪だったらちょっとキモいのです。

でもそのちょっとキモい状況の中に、かつて恭子は放り込まれたのでした。

恭子は改めて、同じ形の爪を持つ人間ばかりが集まっていたあのお通夜は、異様なものだったのだという思いを強めました。

いつもはなんでも気兼ねなく和也に軽口をたたく恭子でしたが、四年前のお通夜でのことは、なんとなく言えないままでした。一度言ってしまえば、和也はきっと面白がって、「なんだよそれ!」と笑い飛ばしてくれたことでしょう。

それでも、恭子は悪い方向へ想像を膨らませることをやめられませんでした。恭子がつまらない嘘をついていると勘違いされてしまうのではないか。いやそれよりももっと悪いのは、仮に和也が恭子の言葉を信じてくれたとしても、それを気味悪がられてしまうことでした。

「みんな同じ爪の形してんの、キモい」と冷たい目で和也に言われてしまったら、恭子はもう一生立ち直れないような気がしていました。

だから、恭子は「そういえばさあ」と和也に昔の出来事などを面白おかしく語るとき、用心深くあの日のことを避け続けていたのです。

「クラス全員がおんなじ形の爪だったとしても、俺一生気付かない気がするな。自分の爪でさえ、ちゃんと見たの今が初めてだし」

「ちょっと、声大きすぎるって」

恭子が亮太に注意しました。亮太の声に気付いた先生が、恭子たちの島へ向かってくるのが見えました。

「どう、順調?」と声をかけてきた先生に、和也が顔を上げて「超順調!」と答え、亮太が「先生、『かぷかぷ』笑うってどういうこと?」と尋ねます。

男子二人の目が先生に向けられている中で、牧野さんの黒目は和也の横顔だけを映していました。牧野さんの湿った瞳と、和也の寝癖のついた前髪を、恭子はじっと見つめました。

この光景をこれから先ずっと憶えているだろうな、と恭子は思いました。

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