「恭子久しぶりい、会いたかったよお」

体育館での始業式を終えて教室に戻ってくると、十分間の休み時間になりました。クラスメイトたちはそれぞれ仲良しグループで固まり、おしゃべりに夢中になって座ることも忘れているようでした。

いつも一緒に行動している里穂ちゃんと、並んで教室の窓に寄りかかりながら話し込んでいた恭子は、向こうのほうから飛んできた声に顔を上げました。身長の低い紗奈ちゃんが、ジャングルの中を進む冒険者のように、クラスメイトたちをかき分けながらこちらに向かってくるのが見えました。

恭子恭子、とやかましく声を上げて周囲の人を振り返らせている姿に、恭子は内心うんざりしました。里穂ちゃんはそれまで忙しなく動かしていた口をつぐみ、恭子と一緒になって紗奈ちゃんを見やっています。

恭子は紗奈ちゃんが好きではありませんでした。

何がきっかけだったのかはわかりませんが、ある時から、紗奈ちゃんは恭子によくつきまとってくるようになりました。紗奈ちゃんは主人に従順な犬のように、恭子の後を追いかけ回しました。トイレ、移動教室、登下校。

突然登場した新たなお友達候補に、恭子ははじめ戸惑いました。これまでは里穂ちゃんと二人で完結していた世界を、再構築する必要が出てきてしまったからです。

海を割るモーセのように、自身の大声でクラスメイトたちを遠ざけつつ登場した紗奈ちゃんは、一寸の迷いもなく恭子と里穂ちゃんの間に割って入りました。吸い付くように恭子の腕に自分の腕を絡め、「元気だった?」と恭子を上目遣いで見上げます。

あーうん元気だったよ、と感情のこもっていない声で返事をする恭子に、紗奈ちゃんは自分の夏休みの思い出について、誰も尋ねていないのに、事細かに報告し始めました。適当に相槌を打ちながら話を聞き流していると、里穂ちゃんが下を向いて退屈そうに爪をいじっているのが、恭子の視界の端に見えました。

紗奈ちゃんは周囲のことにほとんど気を配らない人でした。どこにいたとしても必要以上に声を張り上げ、誰も聞いていないにも関わらず、あらゆることをとめどなく話し続けました。家族のこと、新しく買ってもらった筆箱のこと、ペットの犬だか猫のこと。どれほど煩わしそうに無視されたり、話を遮られたとしても、紗奈ちゃんの態度は変わりませんでした。

迷惑がられていることに気付いていないのか、わざと気付かないふりをしているだけなのかは、はっきりしません。しかし、紗奈ちゃんの存在が、すでに完成されていた恭子と里穂ちゃんの世界にとって余分なものであることは、誰の目にも明らかでした。

もっと恭子の気に入らないのが、紗奈ちゃんが里穂ちゃんのことを下に見ているらしいということでした。どういうわけか、紗奈ちゃんが話しかけるのはいつも恭子だけで、すぐそばにいる里穂ちゃんには見向きもしないのです。紗奈ちゃんは、まるで里穂ちゃんが初めから存在していないかのように振る舞っていました。


いつだったか、里穂ちゃんが風邪で学校をお休みした日がありました。

紗奈ちゃんはいつも以上に恭子にべったりで、少しでも時間があると恭子の元へ飛んできました。ずっと紗奈ちゃんのおしゃべりに付き合わされて、うんざりしてしまった恭子は、学校が終わるのが待ち遠しくて仕方がありませんでした。

待ちに待った放課後、紗奈ちゃんがやってくる前に逃げるように教室を後にした恭子でしたが、昇降口のところで追いつかれ、結局一緒に下校することになってしまいました。

仕方がないので二人で歩き出したものの、紗奈ちゃんの横で、恭子はずっと恥ずかしい思いをしていたのでした。紗奈ちゃんの声は通学路を歩く小学生の誰よりも大きく響き渡り、多くの人々が二人を振り返ったからです。

人差し指で親指の爪先を何度もなぞりながら歩いているうちに、やっと恭子の家に着きました。ようやく紗奈ちゃんから離れられる。そう安堵して紗奈ちゃんに背を向け、玄関のインターホンを鳴らそうとした時、紗奈ちゃんが恭子に声をかけました。

「恭子お」

振り返ると、紗奈ちゃんが目を細めて笑っています。

「今日はふたりっきりで楽しかったね!」

恭子は、自分がどのような言葉を返したのか忘れてしまいました。ただ、太陽の光に顔の脂を光らせて、にたにたと笑みを浮かべている紗奈ちゃんへの憎らしさが、瞬間的に恭子の中で沸騰したことだけ、はっきりと覚えていました。

家の中に入って玄関のドアを閉めた後、お母さんに気付かれないように下を向きながら、恭子は涙を一粒落としました。

一方の里穂ちゃんは、紗奈ちゃんのことについて、特に何も言いませんでした。

紗奈ちゃんに恭子との間に無遠慮に割って入られても、自分には全く話を振られなくても、表情ひとつ変えることなく一歩脇に逸れて、そっと唇を結ぶだけでした。紗奈ちゃんが横に並ぶと、里穂ちゃんの静かさから醸し出される気高い上品さが、一層際立つように恭子には感じられました。

不思議なことに、紗奈ちゃんに邪魔されればされるほど、恭子の里穂ちゃんに対する憧憬と羨望の念は強まるばかりでした。紗奈ちゃんが言葉を発するごとに、紗奈ちゃんの向こう側に佇む里穂ちゃんの気配が濃くなっていくのです。


紗奈ちゃんが語る家族旅行のエピソードが、流しそうめんのように、恭子の脳内を端から端へと一直線に通り抜けていきます。大袈裟なジェスチャーを交えて生き生きと話す紗奈ちゃんの、太く小さな爪が、残像のように恭子の脳裏に残りました。その奥で、里穂ちゃんはまだ下を向いて爪をいじっています。

きっと里穂ちゃんの手元では、美しく整った細長い爪が輝いていることでしょう。恭子はその光景を、うっとりと心に思い描きました。



休み時間終了のチャイムと共に、恭子の担任の先生が、一人の女の子を連れて教室に現れました。先生の身長の半分にも届かないくらいの小柄な女の子は、薄い水色のランドセルを背負って、心許無い様子で目線をあちこちに移していました。

「今日からこのクラスに加わることになった、牧野さんです。ほら、他のクラスの迷惑になるからあんまりうるさくしないの」

思いがけない転校生の登場にすっかり浮立ち、騒がしくなったクラスに、先生が声を張り上げました。先生はそっと牧野さんのランドセルに手を添えて、自己紹介をするよう促しました。

「牧野玲香です。よろしくお願いします」

あっさりと終了した自己紹介に付け足すように、先生が牧野さんにいくつか質問をしました。質問に沿って、引っ越すまでは隣町に住んでいたこと、好きな食べ物はチョコレート、趣味はピアノであることなどを牧野さんが述べている間、クラスメイトたちは一点の曇りのない好奇の目を彼女に注ぎ続けます。めっちゃ可愛くない? と後ろの方でささやき合う声が恭子の耳に届きました。

その後、先生が作成した新しい座席表をもとに、席替えをしました。恭子は廊下側の一番後ろの席でした。里穂ちゃんと紗奈ちゃんはそれぞれ窓側の席になり、恭子の場所からは遠くなりました。

紗奈ちゃんはともかく、里穂ちゃんと席が離れてしまったことは、恭子をいくらか落胆させました。そして恭子の左斜め前の席に、牧野さんが座ることになりました。

空いていた窓から風が入って、クリーム色の埃っぽいカーテンを膨らませます。ひだのようなカーテンが、窓際の席に座っていたクラスメイトたちの頭をすっかり飲み込んでしまいました。勢力を弱めた風が、廊下側にいた恭子たちの髪の毛を優しく揺らし、ドアの細い隙間から、吸い込まれるように廊下の向こうへ流れていきます。前から順番に後ろへ回される学級通信のプリントが、風にあおられて折れ曲がるのが見えました。

プリントが回ってくるのを待ちながら、恭子は何気なく、斜め前の牧野さんの後ろ姿を眺めました。

恭子の席からは、ちょうど牧野さんの手元がよく見えます。机の上にはくまの刺繍が施された小さな筆箱と、プリントをしまうためのクリアファイルがあり、それらの手前に牧野さんの小さな手が置かれていました。

骨にただ皮が張り付いているだけのような、細くて頼りない指。その指の先端には、短く小さい、扇状の爪が米粒みたいにくっついているのが見えました。牧野さんが、前から回されてきたプリントを受け取って、余りを後ろの席の人に渡します。右手でプリントをつまみ、少し上半身を捻った牧野さんの動作が、恭子の目にはスローモーション動画のように映りました。

深爪、不揃い、不格好。

そう牧野さんの爪を評した恭子は、すぐに彼女への興味を失って頬杖をつきました。趣味はピアノを弾くことと言っていたことを考えると、牧野さんの深爪も納得です。指が鍵盤にひっかかってしまい、うまく音が出せなくなるのを防ぐために、爪をできるだけ短くしている必要があるのでしょう。

前の席の人から回されてきたプリントを受け取り、恭子は優越感に浸りながら自分の爪を見つめました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る