グッバイ、友よ
空原海
第1話
これまでの人生のうち、最良の選択は、好きな男を金で買ったこと。
そしてこれまでの人生のうち、最悪の選択は、好きな男を金で買ったことだ。
わたしが買い、たった一晩だけ最高の夜を過ごし。その後は互いの人生から出て行った。
今後も交わることはない。
彼の名前は
幼稚舎から中学まで一緒だった。
いわゆるお受験――まったく記憶にない――というものを経て入学し、いずれこんなタイプの人生を歩んでくれるだろう、と親が過度な夢と期待をかけ続け、毎秒毎秒、成績についてせっつかれる。
そんな人間ばかりが集まった学校で、わたしとヤスヒロは過ごした。
とはいえ、ヤスヒロと同じクラスになったことは長い学校生活のうち、ほんの二年だけ。
ちゃんと顔を合わせて、深いところを探り合ったのは、わたしが大学を中退し、ヤスヒロがスタイリスト見習いになったばかりの頃だった。
探り合った深いところというのは、いろいろだ。
思い切りレールから外れてしまったこれからの人生をどう生きるか。といった、よくある若者の苦悩もそう。
それから、これまで付き合った相手とどんなふうに出会い、何度目のデートで体を重ねたのか。どんなやり方を試したか。
二人で居て最高に幸せだったのは、どこで何をしたときか。
何でつまづき、吐くべきでなかった取り戻せない最低の言葉とは。そのときに受けた傷はまだ疼くのか。手は上げたか。
結局、どんなパターンのありきたりな別れを迎えたのか。
といったような、絶対に盛り上がるに決まっている話も、もちろん。
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「まさか小川さんが中退してるなんてね」
「遠藤くんは予想通りって感じ」
「俺がイケメンだから?」
「イケメンね」
鼻で笑ってから、手でピストルの形を作る。
「まぁ、そういうことかな」
バン! とヤスヒロの鼻先目がけて撃ち抜くふりをして見せると、軽薄なニヤニヤな笑いが、明石家さんまみたいな引き笑いに変わった。
「小川さん、ぜんっぜん、そんなこと思ってないでしょ」
「遠藤くんがイケメンってとこには、ちゃんと本気で同意してる」
「真面目クンしかいない学校で、井の中の蛙がイキがってる。ダサい勘違い野郎だって。小川さん達、中学のとき言ってじゃん」
「知ってたんだ?」
「女子トイレだからって、あんなに大きい声でしゃべってたら聞こえるよ」
「ごめん」
再会してすぐに話した内容は、たしか、こんなこと。
在学中は挨拶以外で言葉を交わしたこともなく、気が合いそうにないという以前に、関わってはいけない、目を合わせたり関心を寄せること自体が、断罪の口実になるんじゃないか、と怯えるような相手だった。
それなのに、学校という檻から出てみれば、そんなバカバカしいことを咎める目はどこにも見当たらず、言葉を交わすことに、いちいち気合いを入れる必要のない相手だと、すぐにわかった。
なぜなら。
「うん。でも、小川さんのスタイリングは、中学のときのイメージのまんま。ベイクルーズ系が好きなんだね」
「わかるの?」
「バカにしないで。これでも一応、スタイリストのタマゴだよ。今日はトップスがベースレンジで、そのタイトマキシスカートはエディット・フォー・ルル。サンダルはマリアム・ナッシアー・ザデー。バッグはザ・ロウ。ピアスはヒロタカで、ペンダントはソフィー・ブハイ。リングは他のアイテムとちょっと雰囲気が違うね。ブシュロン。わぉ、すごい!」
「ヤバい。キモい」
ぜんぶ当たっている。ひとつのミスもなく。
ぞわっとして、思わず二の腕を擦る。ヤスヒロはニッコリと笑った。
「そのクル・ド・パリ、小川さんが買ったんじゃないよね。プレゼントでしょ? 彼女さん、お金持ちなんだね」
「何言ってんの。遠藤くんの彼氏さんもお金持ちじゃん。こんなところに住んでるんだから」
わたしが眉をひそめると、ヤスヒロは隣りに立つ男性に腕を絡め、しなだれかかった。
「うん。頭がよくてかっこよくて優しくて、お金持ちで。最高の彼だよ」
蕩けきった笑顔だった。
わたし達の再会し、言葉を交わした『こんなところ』。
ヤスヒロとわたしが再会したのは、ヤスヒロが彼氏と住むマンション。そのすぐそばにあるナショナル麻布だった。
広尾ガーデンヒルズの方じゃなくて、有栖川記念公園のすぐ目の前にあるスーパーマーケット。そこで彼氏と買い物をしているヤスヒロを見つけた。
わたしもまた、彼女と一緒に、テキトウなワインとツマミを選んでいるところだった。
ワインとツマミを買うのはやめて、四人で近くのワインバーへ行った。
ヤスヒロとその彼氏。わたしと彼女。四人。
その晩は大いに盛り上がり、また四人で遊ぼう、と約束を交わした。
その約束が果たされることはなかった。
ヤスヒロもわたしも、そのあとすぐに恋人とは別れたのだ。
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「ハウンド、たまんない。抱いてほしい」
「ええー。ヤスヒロの趣味ってわかんない。わたしはデナーリス。男だったら、ジョン・スノウ」
ヤスヒロは白。わたしは赤。
一本ずつワインを選んで、ヤスヒロのアパートでアマゾンのプライムビデオを見る。ネットフリックスならわたしのアパート。
そんな風に過ごすのは、お互いの恋人と約束がなくて、自分磨きをしたりジムに行く気分じゃなくて、クラブのイベントやパーティーの予定もなくて、一人では過ごしたくないけど、気の合わない友人とインスタ映えするカフェで愛想笑いして過ごすのはイヤ。
そんな日で、つまりはひと月に一度は必ず会った。
今日はヤスヒロの家で『ゲーム・オブ・スローンズ』鑑賞会。
残酷でどぎつい暴力と性的描写のファンタジードラマ。
わたしは原作『七王国の玉座』も読み始めている。上巻は読み終え、これから下巻。
ヤスヒロは読んでいない。
「デナーリスとジョンね。ユウコっぽい」
「ミーハーだって?」
ムッとして言い返すと、ヤスヒロはグラスのステムをくるくると回した。
『ゲーム・オブ・スローンズ』でしょっちゅう噴き出る血のような、赤黒い液体がたぷたぷと揺れている。
今日の赤は、コート・ド・ローヌのシラー。
スパイシーでギュッと詰まった感じが、『ゲーム・オブ・スローンズ』にピッタリだと思って選んだ。
ヤスヒロの選んだ白、シャブリは既に空けている。
「うん、ミーハー」
肩をぎゅっと縮めこめ、ヤスヒロが裏声になる。
「デナーリスが好き! だって彼女、とってもセクシーなんだもん。ジョンが好き! だって彼ってキュートでしょ!」
ジロリと睨みつける。ヤスヒロは舌を出してへたくそなウィンクをした。
「そういうところ、ユウコの魅力のひとつだと思うよ。素直で可愛い」
「……カール・ドロゴだって好きだよ」
唇を尖らせて、ヤスヒロの好きそうなキャラクターを口にする。
案の定、ヤスヒロはパッと目を輝かせて見開いた。喜びいっぱい。デレデレに相好を崩す。
「カール・ドロゴ! 最高だよね! あの体! あんなにセクシーなのって、ダメじゃない? ドロゴが画面に映ってるだけで18禁でしょ!」
鼻息は荒く、目はらんらんギラギラ。頬は興奮で赤く染まっている。
「意外とすぐに死んじゃって残念だったよね」
「ホントだよぉー。あの体がもう見られないなんて、このドラマ、価値が半分以下になっちゃったんじゃない?」
「それは言い過ぎ」
「じゃあ、ユウコ。デナーリスが死んだら?」
「デナーリスはしばらく死なないもん」
「あっ。待って待って。ネタバレやめて!」
慌てて身を乗り出し、手を振るものだから、ワインがソファーに飛び散った。
せっかくのヴィンテージ・エルメス。それもなんとマルジェラ期。そのスカーフがシラーの赤に染まる。
ヤスヒロは半狂乱になって叫んだ。
「ぎゃぁああああああっ! ユウコっ! どうしようっ! マルジェラ! マルジェラ・エルメスがぁあああああっ!」
「ばかっ! 何やってんの! これ一体いくらしたのっ!」
「値段じゃないっ! 値段じゃないよぉおおおおおおお!」
「てゆーか、ホントにばかなの? なんなの? プライムビデオ観て飲むだけなのに、こんな貴重なスカーフ、なんでソファーに飾っちゃったの!」
「だって! だって! ユウコみたいな素敵な女友達とホームパーティーするんだよ? そんなの、素敵な空間作りたいじゃんかぁあああああっ!」
ヤスヒロはスカーフを手に泣き崩れた。
結局、ワインの染みは超高級クリーニングに出して、ギリギリうっすら見えるくらいまでになった。
新しい恋人とくっついたり、別れたり。
わたしもヤスヒロも、尻軽で恋多き人間だったけれど、この友情は特別に思っていた。
きっとずっと続くだろうと。
おじいちゃん、おばあちゃんになってもずっと。
だけど、そうはならなかった。残念なことに。
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「ユウコ。俺は君のことが女の子の中で一番――ううん。これまで出会った人間の中で、ユウコが一番好きだよ」
「ありがとう。わたしもヤスヒロが一番好き」
「じゃあ、やめない? こんなことバカげてる」
ヤスヒロは追い詰められて逃げ場を失ったキリンみたいに、首を仰け反らせて愛くるしい目に恐怖を浮かべていた。
微笑みながら頬を引き攣らせたその顔。
色っぽさなど欠片もなく、せっかくのイケメンは、すっかり台無しだ。
「やめない。わたしの初めてをヤスヒロに押しつける。そしてヤスヒロの初めてをわたしがもらう」
壁に頭を擦りつけて、これ以上は下がれないヤスヒロ。その首筋に手を当てる。
ヤスヒロは「ヒッ!」と悲鳴を上げた。
両腕を広げ、指を広げてビタンッと壁に張りつく。指と指の間をピンで刺された蝶の標本みたいに。
それから裏返った声で叫んだ。ほとんど泣きそうに。
「バカげてる! こんなの、ホントにバカげてる! 初めてって、初めてじゃないでしょ! 俺たち二人とも、どれだけ尻軽だと思ってんの! 寝た相手なんか、両手じゃ数え切れない!」
「ちょっと! わたしはそんなに大勢とは寝てないからね! 一緒にしないで!」
思わずシャツの襟を掴み上げる。ヤスヒロは慌てて、わたしの手をほどこうと指に触れた。
「やめてやめて! このシャツ、買ったばっかり! サルヴァトーレ・ピッコロのシルク! よれちゃう!」
「へぇ。どうりで素敵だと思った。今度貸してくれる?」
「いいよ。だからもうやめよ?」
わたしの言葉にヤスヒロが被せてくるから、舌打ちが漏れた。
「やめない。ヤスヒロのケチ」
「ケチじゃない!」
ヤスヒロの鼻の頭は赤い。
驚くことに泣いていた。泣きそう、ではなく。本当に泣いていた。
「やめてよ! 俺はユウコとずっと友達でいたいのに! なんでこんなことしなくちゃいけないの? 俺はユウコが好きだよ! セックスなんてしたくない!」
壁に背中を押しつけて、ヤスヒロはズルズルとへたり込んだ。しゃくりあげ、鼻をすすり、「いやだ。いやだよぉ」とごねる。
わたしはしゃがんで、ヤスヒロの頭を胸に抱え込み、ヘアバームでゴワゴワの髪をなでた。
「ごめんね。でも、わたしはこれから、男とセックスしなくちゃいけないの。子供が生まれるまでずっと、長い間。何度も何度も」
ずずっと鼻をすすりあげる音の合間に、ヤスヒロの「ユウコ、かわいそう」というくぐもったボヤき声が混じる。
「でしょ? かわいそうでしょ?」
「うん」
「だからせめて、初めて男とするセックスは、ヤスヒロとがいい」
「……うん」
「でも、ヤスヒロはわたしとセックスしたくない」
「うん」
「セックスしたら、わたし達、もう二度と会えない」
「いやだよぉ……」
わたしの腕の中でヤスヒロがますます小さくなる。
震える背中を何度もなでた。摩擦で発火するくらい繰り返し往復する。
最後に強く叩いた。
「だからその慰謝料を払う。ヤスヒロを買う。わたしのために、男娼になって」
「男娼!」
ヤスヒロが引き笑いをした。明石家さんまみたいに。
「ひぃーっ! ひぃーっ!」と、床を叩きながら。
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ヤスヒロのヤスヒロは、わたしを相手にちゃんと仕事をした。
その晩はめくるめくような、本当に素晴らしい夜だった。
わたしもヤスヒロも、情熱に満ち、貪欲に求め合い、ヘトヘトに疲れ切っているのに、いつまでもいつまでも「もう一回」とおへそにキスをした。ヤスヒロがキスをしたら、今度はわたし、というように順番に。
二人同時に眠りに落ち、ぐーすか眠りこけ、だいたい同じくらいに目が覚めた。
まだ眠そうにまぶたをこするヤスヒロの頭をなでると、ヤスヒロがくすぐったそうに笑う。
「昨晩のユウコは、ハウンドよりセクシーだったよ」
「それって誉め言葉だよね?」
「もちろん」
「嬉しくないけど、ありがとう」
ヤスヒロの肩を抱いたまま、一晩分ヒゲの伸びた頬にキスをする。チクチクする。ヤスヒロは上目遣いでわたしに媚びた。
「俺は? 俺はデナーリスよりセクシーだった?」
「カール・ドロゴよりもセクシーだった」
「それって嬉しいけど、嬉しくない」
「なんで?」
「ユウコにとってドロゴよりデナーリスの方がセクシーでしょ?」
思い切り眉間にシワを寄せて、口をひん曲げたヤスヒロが愛しくて。
頬を両手でぎゅっと挟み込み、鼻の頭にキスをする。
「ううん。ヤスヒロが世界で一番セクシーだって、昨晩、初めて知った」
ヤスヒロは笑った。
再会したとき、当時の金持ち彼氏の腕にぶら下がっていたときに見せた、あの蕩けきった笑顔にそっくりだった。
「俺の『世界で一番セクシー』はユウコと違って、これから先の人生、きっとアップデートされてくけど」
「ずるい~」
「だって、しかたないよぉ。でも」
「でも?」
目が合い、微笑み合う。
ヤスヒロの口からこぼれる台詞は予想がついたから、わたし達は唇を重ねあった。
それでおしまい。
わたしとヤスヒロの友情は終わった。
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ヤスヒロの言った通り、わたしの『世界で一番セクシー』はこれから先、アップデートされることはないだろう。
これまでの人生のうち、最良の選択は、大好きな友達を金で買ったこと。
そしてこれまでの人生のうち、最悪の選択は、大好きな友達を金で買ったことだ。
わたしが買い、たった一晩だけ最高の夜を過ごし。その後は互いの人生から出て行った。
今後も交わることはない。
彼の名前は
二度と会うことのない親友。
あなたの幸せを願っている。
うっすらワインの染みの残るエルメス、マルジェラ期のスカーフを首に巻き、サルヴァトーレ・ピッコロのシルクシャツを羽織りながら。
(了)
グッバイ、友よ 空原海 @violletanuage
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