第24話 アキラ

 アキラちゃんのおかげで真矢が学校を辞めるという最悪の事態は回避された。精神的にも安定して、陸上部も続けることができそうだ。

 でもその代償は大きかった。仁美は真矢と一緒にいることができなくなってしまった。

 言葉を交わすことすらままならない。もちろん手をつなぐことも、キスすることも。寮でもお互い知らぬふりをするしかない。

 アキラちゃんは『ちょっとの辛抱だ。絶対元通りにしてやる』って言って励ましてくれるけど。

 寮でもしょっちゅう真矢とアキラちゃんが一緒にいるところを見かける。

 真矢の笑顔がアキラちゃんに向けられるのを見ると嫌な気持ちになってしまう。これが嫉妬だとわかっている。

 たとえこの状態のままであったとしてもアキラちゃんにはどれだけ感謝しても足りないと、心では分かっている。

 だけど、真矢が素知らぬ顔で私のことを無視する度、心がえぐられるような痛みを感じて泣きたくなる。

「あーあ。仁美のやつ、ざっくりと分かりやすく傷ついてるなあ」

 アキラはつぶやいて頭をがりがり掻いた。


 仁美は陸上部の練習を一生懸命やっている。今までだって真剣にやっていたつもりだけど、今考えるとこれほどではなかった。

 真矢のことを考えないようにしたら、今自分にできることは陸上しかないと思ったのだ。

 陸上部ではみんなでトレーニングしているから、周囲に紛れて顔を合わすことなく過ごすことができる。部員のみんなも事情は分かってくれているからあまりギクシャクしないでいられる。

 ただ、寮にいるとトレーニングルームやお風呂、食堂、廊下で顔を合わすことがあって、そんなとき自分はどんな顔をしたらいいのか分からない。

 視線を合わせるくらいはいいのではないかと思ったが、真矢から視線を外されてざっくり傷付いて以来、真矢の存在に気が付かないようにずっと俯いたまま歩くようになった。

 トレーニングルームで出会うとさすがに気まずいので、最近は夕食後もグラウンドでの走り込みをしてから自室で筋トレすることにしている。マシントレーニングは昼食後の誰もいない時間帯でやればいい。

 結果的に今まで以上のトレーニング量をこなすことになっているから、まあその点では結果オーライだ。

 練習が休みの日は、特に真矢と一緒にトレーニングした日々が思い出されて辛いから、気分転換も兼ねて陸上から離れた運動をしようと決めた。

 今は市内の温水プールで水泳をして午後を過ごす。まあプールまでの移動はジョギングだ。

 水泳は全身運動だから無理なく普段あまり使わない筋肉を使うことになるから、陸上競技にも良い効果が期待できると、コーチのマコちゃん先生もおすすめだ。


 アキラが真矢と仁美と話をしてから、仁美のそんな行動の変化をアキラは全部知っていた。『セク研』や独自のファンクラブから、仁美の情報がアキラに逐一報告されているのだった。

「やっぱ、そうなっちゃったか」

 報告を聞いてアキラは思案顔でつぶやいた。


 一ヶ月が経過し、状況は表面上は何事もなく流れている。

 そして夏のインターハイに向けた地区予選の種目別の出場者のエントリーの時期がやってきた。

 高校に入ってから本格的に取り組み始めた筋トレの成果か、タイムが随分上がった。

 校内での計測では真矢は100m、仁美も100mハードルでのインターハイ出場レベルのタイムは十分クリアしているから、これからのトレーニングでどこまで伸ばせるかが上位への食い込みの鍵になる、とコーチのマコちゃんは言っている。

 ちなみに4×100mリレーのメンバは、100mのタイムのいい順に4名選ばれるので、真矢は自動的にエントリーされるのは当然として、仁美も選ばれた。だから真矢と仁美は2種目へのエントリーということになる。


 ある練習が休みの日曜日、仁美は例によって自主トレに出かけようと部屋で準備をしているところでドアがノックされた。そんな時は未だに『もしかして真矢?』と考えてしまう。そんなはずないのにどうしても期待してしまう。

「仁美、いるかー?」

 アキラちゃんの声だ。

 仁美はアキラちゃんには複雑な感情を持っている。真矢を助けてくれたことへの感謝の気持と、真矢と親しく接することができることへの嫉妬心だ。嫉妬心については自分でも考えないようにしようと努力してはいるのだが。

 仁美はちょっと気持ちを引き締めるように深呼吸してから「はい」と返事をしてドアを開けた。

 アキラちゃんはトレーニングウエアを着てドアの前に立っていた。彼女も自主トレするのだろう。


「ハードルって左右どっちの足でも飛べるように練習するんだな。でも走ってるの見たら全部おんなじ足で踏み切ってるじゃん。何で別の足での練習もするんだろうって前から不思議だったんだよ」

 体育館に向かって歩きながらアキラちゃんと話をしている。

「ハードルって、どんな競技でもかもしれないけど、体軸のバランスが大事なんや。体幹って言い方もするけど、体の中心がきっちり決まってて、左右のバランスが均等であることが理想的なんよ。そう教えてくれたのは小学生の時通ってた陸上教室の先生なんやけど。だから逆足でも利き足とおんなじくらいのパフォーマンスが出せるように小学生の時から練習してきてん。こういうのって小さい頃に身に付けておいて良かったって思う。今からやるのって大変だろうから。それにこれから持久力つけて400mハードルもやりたいし。400mハードルって100mとはハードルの間隔が違ってて、絶対に全部同じ足で踏み切ることができひんねん。そやから両足どっちでもおんなじように飛べることが必須なんや」

「ふーん、なるほどだな。バスケでも左右どっちでもシュートできるように練習するみたいだしな。俺もバレーでもそういうの必要だと小さい頃から思っててさ、どっちでも打てるように自分で工夫して練習してきたんだ。バレーじゃ未だに一般的じゃないけど、俺がずっとエースアタッカーやって来れたのはそれが出来るからってこともあると思うよ」

 アキラちゃんと二人でこんなに話をしたのって初めてだ。アキラちゃんがみんなに人気があるのが分かる。ちゃんと話を聞いてくれるし、返事も的確だ。やっぱり魅力的でかっこいい。真矢が好きになっても仕方ないか……

 体育館に着いた。誰かいる。練習の準備をしてる。

「おはよう、紗奈ちゃん」

「おま、バカ!人前でその呼び方すんなって!」

「あ、ごめん。けど私は『セク研』でもファンクラブでもないし」

「嫌いなんだよ、その名前。女みてーだし」

「紗奈ちゃん、女じゃん」

「……サナちゃんって……え?」

「これだから一般人って嫌なんだよ。俺のこと全然理解してくれない」

「はあー」とわざとらしく深いため息をつくアキラちゃん。

「紗奈ってのは俺の本名。アキラは俺が考えた通称なんだ。俺、心は男だから紗奈なんて名前で呼ばれんのぜってー嫌だっつってんのに、こいつときたら」

 そう言ってその子の頭を小突く。

 この子、アキラちゃんと仲いいんだな。アキラちゃんも本気で怒ってない。その子も分かっててからかってるんだ。楽しそうだな。何かこの二人いいな。

「こいつバレー部1年の芳津能理子(よしず のりこ)。セッターやってる」

「はじめまして、だね。『ノリ』って呼んでね。私、ここの中等部からバレー部で、一般枠での入部なんだ。だから推薦で入ってくる凄い人たちについて行けなくて。自主トレで時々アキラちゃんに練習つけてもらってるんだ」

 呼び方がアキラちゃんに変わってる。

「お前、『ちゃん』はいらねーって突っ込みも無視だよな。まあいいや。けどこいつ結構すげーんだぜ。いつも俺の欲しいとこにボール上げてくれるんだ。こいつとのコンビネーションすげーやりやすい。早くレギュラー入りさせて一緒にやりてーんだ。だからこいつの自主トレに付き合うのは自分のためでもあるわけ」

 アキラちゃんにそこまで言われるなんて、きっと凄い子なんだな。

 3人で軽く準備運動して体をならす。

「じゃ、始めるか。仁美はコートの真ん中あたりに立って。俺、そこめがけてスパイクするから」

 実はバレーボール部の試合は勿論、練習見るのも初めて。アキラちゃんってどんなプレーするんだろう。

 ネット前の芳津さんがボールをアキラちゃんに投げる。アキラちゃんがレシーブで返したボールを芳津さんが走り込んだアキラちゃんに合わせてトスする。アキラちゃんがジャンプして私に向けてスパイク……私はとっさに飛び退いた!

「こら、逃げんな」

「ちょっ、無理無理無理!めっちゃ早いやん!こんなんが当たったら怪我するって!」

 アキラちゃんと芳津さんはそんなことはお構い無しで次々とスパイクを打ってくる。

「何で私めがけて打ってくるん?」

「正面に打たないとお前ら捕れないだろーが」

 アキラちゃんは場所を右に左に移動しながらアタックしてる。右手、左手と打つ手を変えているのが分かる。それにつれて踏み切る足も変えている。芳津さんのトスとのタイミングもぴったりだ。

 ボールは早いけど正確に私のいる場所に真っ直ぐに飛んでくるから避けること自体はそんなに難しくない。逃げてるうちにボールのスピードにも慣れてきた。思いきってレシーブしてみる。私の手に当たったボールは明後日の方向に飛んでいった。でも繰り返してるうちに割と上手くレシーブできるようになってきた。

 アキラちゃんが最後にバックアタックを打った。打点がめっちゃ高い。スピードもこれまでとぜんぜん違う。「ひえっ!」私はさすがに飛び退いた。

 散らばったボールを拾い集めてもう一回同じ練習をやる。

 私はバレーボールには詳しくないから良くは分からないけど、アキラちゃんと芳津さんはトスとスパイクのバリエーションを色々変えていることは分かる。

 この練習を3セットやって休憩することになった。体育館の開け放った扉の近くのできるだけ涼しいところを選んで3人揃って床に座リ、汗を拭きながら給水する。

「わりーな、練習につきあわせちゃって」

「いいよ。面白かったし。自主トレは陸上とは関係ないことやってリフレッシュするのも大事やし。普段は使わない筋肉を使うことで体の動きが良くなることあるし。それに、なんか話があるんかなーって思ったんやけど」

「ああ……うん」

 ちょっと言い淀むアキラちゃん。

「私、外そーか?」

 芳津さんが気を使って、立ち上がりかける。

「いや、ノリも聞いといてくれたほうがいい。お前にも協力してもらうことになるだろうし」

「ふーん?」

 芳津さんが怪訝そうな顔をして再び床に腰を降ろす。アキラちゃんはどう切り出すかを考えているのか俯き加減で暫し黙りこんでいる。

 真矢が言ってたことなんだけどな、と前置きして、

「『私もアキラちゃんみたいにみんなから将来性を期待されるほどの選手になりたい』って。『陸上選手としての実力で仁美と付き合っても誰にも何も言わせないくらいの選手に』だってさ。真矢はやるぜ、絶対。お前はどうする?」

「真矢がほんまにそんなことを?」

 真矢は私のこと、まだ好いてくれてるのかな?

「あったりめーだろ。そこまで言わせといてお前が日和れるわけないよな。実際、真矢だけじゃダメなんだ。お前と真矢がダブルで優勝しろ。そしたら世間の奴らは全員黙るって」

「アキラちゃん。やるよ、私!真矢がその気なら私も絶対勝つ!」

「『ちゃん』はいらねーって」

「でも、目立っちゃうと余計火に油にならないかなあ」

 ノリちゃんが不安げな顔をする。

「そこは我々がきっちりフォローする。お前らは勝つことだけ考えろ」

「アキラちゃん。何か企んでるんだ」

「お前も協力しろよ、ノリ」

「いいよ。おもしろそう」

「おもしろがらないで!」と思わず突っ込んだ。

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