第17話 高校生活のスタート

 心愛女子高校ではスポーツ推薦で入学した生徒も一般入試で入学した生徒も、特に区別されることはなくクラス分けされる。ただ、スポーツ推薦で入学した生徒にはスポーツ科学という教科が必須科目として課せられる。

 スポーツ科学とはスポーツに関する心理学、栄養学、生理学といった医学面と、マネジメントスキルとしてトレーニング学、コーチング学を含む、スポーツ全般を理論的に学ぶ学問だ。アスリートとしての現在の自分自身のことを客観的、科学的に認識するとともに、将来、現役を引退した後も指導者としてスポーツの世界と関わり続けるために必要な知識を学ぶことにもなる。ちなみに陸上部顧問のマコちゃんは生理学を担当している。


 心愛女子高校の一日は、担任のシスターが各教室に来て、朝の聖書朗読とお祈りから始まる。

 心愛女子高校の生徒は中学からの持ち上がりで進学した子が多い。持ち上がりと言ってももちろん進学にあたっては選抜試験はある。仁美のクラスも大半の生徒が心愛中学から進学してきた子たちだから、当初からまとまりは比較的いいようだ。でも仁美も含め、高校から心愛女子高校に入学した生徒との間には何か壁のようなものがある。

 中学から持ち上がりの子達は、聖書とか賛美歌、食前食後や朝夕のお祈り、生誕祭やミサ等の行事を普通のスクールライフとして自然に受け入れているが、そうでない子はまずそこでつまずいてしまう。カトリックの学校に入学した生徒が全員がキリスト教徒ってことはないし、仁美なんか京都の実家は浄土真宗だったりする。中学から心愛女子の子達ってみんな洗礼とか受けているんだろうか。そんな疑問も頭をかすめる。

 まあしかし、中学から持ち上がりの子たちってお嬢様ぽくって、仁美みたいなスポーツ推薦で入学した、どこから見ても門外漢な人間にも優しく声をかけてくれる。人はいいようだ。単なる好奇心という話もあるが。だから結構あっさり友達はできた。


 仁美は陸上部に入ってから毎日、朝1時間はトレーニングすることにしている。内容は色々だけど、基本的にはグラウンドでのストレッチと軽い走り込み。雨だったらトレーニングルームでストレッチと軽い筋トレ。ここまでは真矢といっしょ。それからシャワーを浴び、制服に着替えて当日の授業の準備をし(前日にやっとけばって真矢には言われている)、大急ぎで朝ご飯をかき込み、バタバタと自分の教室に駆け込むのが普通だ。それで朝一番から聖書の話を聞かされると、ついうとうとしてしまう。

 入学して間もない日の朝、聖書の朗読の時間につい眠り込んでしまった。

「この文章の解釈についてですが、篠田さん、どう思いますか?」

「・・・」

「篠田さん?」

 仁美の前の席に座っている古内球美は、反応がない仁美を訝って後ろを見た。うわ、この子寝てるよ!

「篠田さんは欠席ですか?」

 ええい、しょうがない。聖書の時間だけクラスに来る先生だ。まだ、生徒の名前と顔なんて憶えていないはずだ。

「はい。篠田です!」

 球美は返事をして立ち上がった。

「その文章については・・・」

 球美は心愛中学からの持ち上がり組だ。聖書の解釈については慣れている。

「はい、結構です」

 球美は、ほー、なんとかなったか、と胸をなでおろして着席した。

「では続きを古内さん、読んでください」

 げ!自分が当てられちゃった。もしかして代返がバレてたのかな?どうしたらいいか混乱してどぎまぎしていたら、

「はい!」と仁美の後ろの席の新田咲希が立ち上がって聖書を読み始めた。

「はい、そこまで。よろしい。ではこの解釈は明日にして、朝のお祈りをしましょう」

「新しい朝を迎えさせてくださった神よ、きょう一日わたし達を照らし、導いてください。・・・、アーメン」

 シスターが教室から出ていった後で、

「はー、やばかった。新田さんやったっけ。ありがとうな」

「ううん。それより篠田さん、まだ寝てる」

「世話の焼ける子やなあ。おーい、篠田さん」

 球美が仁美のほっぺたをぺたぺたと叩いた。

「うが?……あれ、うち寝てた?」

 その様子を見て、呆れた顔をする二人。

「あー、聖書の朗読の時間、居眠りしたらやばいって言われてたのに!」

 仁美は陸上部の先輩から

『シスターは一般の先生より怖い』『やさしい顔してニコニコしてるシスターほど怒ると怖い』と聞かされていたから、朝の聖書朗読とお祈りの時間には注意していたのに、いきなりやってしまった。

「大丈夫。代返しといたから」

「え?ほんまに?ありがとー。えっと、どなたでしたっけ?」

 その反応を見た二人が可笑しそうに笑う。

「あんた、神経太いなあ。シスター怒らしたらやばいよ。気い付けてな」

「はい」神妙に頷く仁美。

「あはは、面白い子やなあ。篠田さんって運動部の子やろ。推薦で来たの?」

「はい。陸上部の推薦でお世話になります」

「私は古内球美。心愛中出身、よろしく」

「同じく、新田咲希。よろしくね」

「分からんことがあったら何でも聞いてな。私ら中学からの持ち上がり組やから、高校から来た子らよりは色々知ってるから」

「ありがとうございます。お世話になります」

 ひたすら神妙に答える仁美の態度がおかしかったらしく、二人はケラケラ笑った。こうして仁美がクラスで最初にできた友達が球美と咲希だった。

 翌日の聖書朗読の時間に、球美、咲希、仁美の順番に当てられ、三人はあわあわすることになるのだが。

「びっくりしたー。あの先生、顔と名前憶えてたんか!」

 シスターの恐ろしさは、その優秀な能力にある。三人がその一端を垣間見た瞬間だった。

 真矢は真面目で、仁美みたいな失敗はしない子であった。それはもちろん彼女の良い点であるのだが、友達ができにくい原因でもあったりするのは皮肉なことである。


 入学してすぐの4月、クラスの懇親を図るための遠足が開催された。人数の関係で全員いっぺんには無理なので2回に分け、最初はA組、C組、E組と理系進学クラスのH組。理系進学クラスのH組は人数が少ないので1回目に含まれている。2回目はB組、D組、G組。それでも1回あたり総勢100人あまりの生徒が移動するから結構たいへん。

 行き先は、路面電車に乗って移動した先にある近くの教会。さすがカトリックの学校、遠足までカトリックなんだ。その教会は小高い丘の中腹にあって、教会の裏はちょっとした原っぱのような広場になっている。丘の上からは街が見渡せる。その先には港や海があるはずだ。この時期、桜はもう散っていて木々には青葉が茂り初めており、陽の光を遮るものがない広場には、たんぽぽやシロツメグサが咲いている。今日は天気がよくて温かい。上着を脱いでブラウスの袖を捲りあげたいくらいだ。

 教会の牧師さんは目の色が青い外国人の男性だった。髪は白髪かと思ったがおそらく銀色なのだろう。牧師さんは流暢な日本語で聖書のお話をされた。その後、全員に歌詞カードが配られ、

「ではみなさんで賛美歌を歌いましょう」

 歌詞カードを見ると『春の日の花と輝く』という賛美歌であることが分かった。

「みなさんもよく知っている曲ですから、大きな声で元気よく歌ってください」

 そう言いながら牧師さんは祭壇の上で合図をして、自ら英語で歌い始めた。うまい!テノールの美声が教会に響き渡った。それに合わせて周りの子達は歌詞カードどうり日本語で歌い始める。中学から持ち上がりの子達はみんなこの曲を知っているらしい。歌詞カードすら見ないで顔を上げて歌っている子も多い。

 仁美は賛美歌なんて全然知らないと思っていたが、この曲には聞き覚えがあった。聞いたことはあるが題名は今まで知らなかった。これ、賛美歌だったのか。仁美は歌詞カードに目を落とした。賛美歌って言うから神様への讃歌かと思っていたら、これは人間同士、というか愛しあう男女の永遠の思いを歌っているように思われる。私の真矢への思いのようだ。そんなことを考えながら、仁美は歌詞カードを見ながら歌を口ずさんだ。

 その後は自由時間。教会裏の広場でお弁当を広げる。まだクラスの中もまとまっていなくて、小さなグループに分かれている。クラスの懇親のための遠足だと思うけど、特にこれをしなさいっていうことはない。上からの押し付けがなくて生徒の自主性にまかせるこういうやり方を仁美は好きだと思う。こういうところもカトリックの自主独立の精神?と関係あるのかどうか仁美には分からない。まだ入学して数日しか経っていないが、万事において生徒の自主性に任せることが多いように思う。

 好きにしなさいってことなんだったら、クラスは違うけど真矢といっしょにお昼を食べたい。真矢はというと、クラスの友達とお弁当を広げようとしているところだ。仁美達のような寮生にはこういうイベントの際には寮の食堂でお弁当を用意してくれる。仁美は真矢のところまで駆けて言って声を掛けた。

「真矢、お昼いっしょにしてもいいかな」

 真矢は友人たちを見て「いい?」って尋ねる。友人たちの了承を確認してから仁美に頷いた。

 仁美は友人を引き連れて真矢のグループに合流することにした。

「C組の篠田仁美とその仲間達でーす。私は岡部さんの友人なので、お昼いっしょにさせてくださーい」

「岡部さんの友人ってことは、いっしょに陸上部の推薦で来た人ですか?」

 真矢の友人から質問が入る。

「うん、そう。真矢とは小学生の時からのつきあいで、めっちゃ仲良しです」

 全員、ひととおり自己紹介をしながらの昼食となった。まずは食事前のお祈り。

 両手を胸の前で組み、全員で声を合わせて、

「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。・・・、アーメン」

 時々で行われるこのようなお祈りにもだいぶ慣れた二人だった。

「寮のお弁当って、すごいボリュームやなあ」

「運動部の子ばっかりやから、みんなこれくらい食べるねんて」

「それにしては仁美も岡部さんもすらっとしてスタイルええやん。なんか反則」

「うちらがどんだけ運動してると思ってんの。始業前に1時間くらい朝練して、授業終わったら部活やって、晩御飯の後も筋トレしてるんやで」

「まじか。すごいな。そら痩せるわー」

「宿題してる間、ないやん」

「そやねん。咲希、明日の宿題映させてな」

「もう、しょうがないなあ」

「岡部さんもそんな感じなん?」

「うん、おんなじ」

 仁美って友達と下の名前で呼びあってるんだ。私はなかなかそういうのができない。小さい頃は普通に下の名前で呼びあってたけど、いつ頃からかそれがなくなった。現在、家族以外で私を下の名前で呼ぶのは仁美だけだ。私も仁美以外の友人を下の名前で呼んでいない。と言うか呼べない。下の名前で呼べるほど距離が近くないんだろう。どうやって人との距離を縮めたらいいのか分からない。

「真矢は中学のときから数学とか得意やったから、あんまり苦労せえへんのやろうけど、うちは数学苦手やから数学の宿題が出たら泣きそうになるわ」

「仁美、数学やったらうちが見たるさかい、宿題の丸写しはあかんで」

「はいはい。お!咲希のおかず、エビフライ、たこウインナー、おいしそうやん」

「食べていいよ」

「仁美、聞いてる?」

「やった!わーい、いただきまーす」

「もう!」

「仁美、まだ食べんの?よう入る胃袋やな」

「大丈夫でーす。運動で全部消化して、下から出まーす」

「ちょっと、仁美、食べてるときにやめてよー」

 などとおしゃべりしながらの昼食のあとはみんなでゲームをしようと言うことになった。まずは食後のお祈り。

「父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。・・・、アーメン」

「ハンカチ落とし、しよーよ」

「さんせー」ということで、全員輪になって内側を向いて座る。最初に鬼になった子が自分のハンカチを取り出す。ハンカチは白であればよく、特に学校指定のものはない。ただ、柄や模様が入っているものは不可。

「負けた人は罰ゲームな」

 と言いながら最初の鬼が輪の外側、みんなの後ろを駆け抜けて行く。座っている人は自分の後ろにハンカチが落とされていないか手探りで確認し、もしハンカチが落とされていたら、その人が新たに鬼になってハンカチを持って輪の外側を回りながら別の誰かの後ろにハンカチを落とす。前の鬼はハンカチを落とした人が立ち上がって空いた場所に座るのだが、鬼が一周回ってきてもハンカチを落とされた人が気づかずにまだ座っていて、鬼にタッチされたらその人の負けとなる。ルールはいたって単純。屋外で結構大人数でも遊べるし、道具もハンカチだけあればいいのでお手軽。そして知らない人同士でも結構盛り上がるから懇親を深めるには持ってこいだ。

 何回か鬼が入れ替わりながらゲームは続いたところで、仁美の隣に座っていた球美が仁美に話しかけてきた。

「うちのバレー部に来見さんっているやろ」

「え?知らんけど」

「知らんの?バレー部の推薦で今年入学した人で、寮でいっしょやと思うけど」

「ふーん?それがどうかした?」

「めっちゃかっこいいって、女子の間で評判になってるんだ」

 女子の間でって、この学校、女子しかいないじゃん。

「けど、その来見さんって人、もちろん女やろ?」

 つい気を取られて会話にはまってしまった。

「タッチ!」

 しまった!ハンカチが自分の後ろに落とされてた。

「球美、あんた嵌めたやろ」

「えー、何のことかしら?」

「こいつー」

 罰ゲームのコールを受けながら仁美は仕方なく立ち上がって輪の中に入った。輪の真ん中でみんなに囲まれて、何かしなくてはいけない。

 みんな楽しそうに盛り上がるなか、真矢が不安そうに仁美を見つめる。真矢は人前が苦手だ。もし自分が仁美の立場だったらと思うと怖くなる。何もできないで立ち尽くして、みんなを白けさせてしまうところが容易に想像できる。もしそんなことになったらせっかく出来た友達も失ってしまうだろう。

 当の仁美は一見困った風な顔で苦笑いしている。大丈夫かな、真矢は祈るような気持ちで見つめていた。

「篠田仁美、尻文字やります!」

 仁美はそう言うなり「し」と叫んで腰をくねらせてお尻で「し」の字を空中に書いた。次に「の」の字は、くるっとお尻を回すように動かす。「だ」の字の点々のところでお尻を2回連続して突き出した動作がすごく滑稽で、みんな大爆笑。その後も「ひ」「と」「み」と3文字を尻文字で書ききった。シスターみたいな制服でやる尻文字はことさらに滑稽で、みんな大笑い。お嬢様っぽい子が多いから、ちょっと下品な芸の方がウケやすいのかもしれない。さすがに仁美はいいところを突いたようだ。真矢はこんな状況を難なく切り抜けた仁美をすごいと思った。

 さて、仁美が鬼になってゲームが再開された。仁美が輪の周りをゆっくりと回る。と、急にスピードを上げて走り出した。仁美が本気で走ったらあっという間に一周してしまう。真矢は何気なく探った自分の背後にハンカチが落ちていることに気づいた。あわてて立ち上がりかけたが既に遅く、

「タッチ!」

 まさか、自分のところに仁美がハンカチを落とすとは思っていなくて油断した。周りの子達は大喜びだ。

「はい、真矢。罰ゲーム、罰ゲーム」

 仁美が真矢を輪の中へと押し込む。人前で喋るのさえ苦手な真矢は泣きたい気持ちになった。仁美を恨みがましい目で見たが、仁美は素知らぬ顔で笑っている。

「真矢!尻文字、尻文字」

 仁美が叫ぶ。顔から火が出るほど恥ずかしいけど、やることは決まっている。仁美がやったようにやればいい。場を白けさせるようなことはないだろう。そう思うとちょっと勇気が出た。ええい、ヤケクソだ!

「岡部真矢、尻文字やります!」

 大声で宣言したら、わーと拍手が起こった。「お」と叫んで腰を捻ねる。やり始めて気づいたのだが、「お」「か」「べ」ってどの字にも点がついてる。「べ」なんて2つも点がついてる。点を尻文字で表現するところが一番滑稽で恥ずかしい。逆に見ている側には一番ウケる。「べ」のとこでは仁美は制服が汚れるのも気にしないで地面に転げて笑ってる。真矢は顔が赤く火照って汗が出るのを感じながらも最後まで尻文字で自分の名前を書ききった。終わってもみんな大爆笑してる。何かすごくウケた。仁美よりウケたかもしれない。真矢は無事大役を終えた安堵とともにちょっと複雑な気分になった。

 今度は真矢が鬼だ。みんながまだ笑っている隙をついて真矢はハンカチを仁美の後ろに落として全速力で走った。でも仁美は予想していたらしく素早く立ち上がって行ってしまった。そんな二人の様子もおかしかったらしくて、みんなが笑った。気が付くと真矢は自然とグループの仲間に入って楽しんでいたのだった。

 そんな風に楽しく遊んでいたから自由時間はあっと言う間に終わって帰る時間となり、集合の合図がかかった。私達は再びクラス毎に分かれて集合場所に集まった。

 それにしても清楚なカトリック系のお嬢様が腰を振って尻文字を書いている様子は傍目から見ていかがなものだったのだろう。付き添いの先生にはシスターも含まれていたけど、特にお小言もなかった。いまさらだけど仁美はそのことにホッとした。生徒の自主性を重んじ、あまり固いことは言わない校風なんだろうか。仁美が描いていたカトリックの学校のイメージとはずいぶん違うけど、こっちの方が断然いいと思った。

 仁美はその日、寮に戻ってから真矢のご機嫌をとるために大変な苦労をするはめになるのだが、それはそれでまたいい思い出になるに違いない。


 こうして真矢も仁美も、故郷から遠く離れた高校での生活はまずは順調にスタートしたのだった。

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