第6話 6年生 ファーストキス……セカンドキス?サードキス?

 あの事件は仁美の心にずっと傷となって残っている。昼間であっても河川敷の公園には近ずかない。思い出すのが怖いから。

 もしもあのとき、と考えると今でも体の全神経がブルっと震えるような感覚を覚える。この感覚はたぶん『恐怖』だ。

 それでも仁美は陸上競技のトレーニングをやめないで続けている。こんなことで陸上を取り上げられてたまるか!という強い思いがあった。


 仁美は今、陸上競技の種目の中でもハードル競技に一番はまっている。コーチに教えてもらって自分用に塩ビパイプでハードルを作った。陸上教室のない土曜日や祝日にはサブトラックにやってきて、その自作のハードルを使って自主トレしている。

 ハードルは一台だけだけど、それでも色んな練習ができる。振り上げ足、抜き足の練習。スタートから一台目までの走り方の練習。空中姿勢の練習。そして振り上げ足、抜き足を左右どっちでも同じように飛べるようにする練習。

 最近は真矢と待ち合わせていっしょに自主トレしている。お弁当を持参して、トラックの外の芝生でいっしょに食べる。


 そうして私たちは6年生になった。

 二人が通う陸上教室では、基礎トレ以外には筋力アップや持久力アップを目的としたトレーニングはほとんどしない。今、筋力トレーニングや持久力トレーニングをやり過ぎると体の発育に悪影響が出て、長い目で見るとマイナスになる。だから今はきっちりとした体幹と競技技術を身に着けることだけを考えればいい、らしい。

 中学生から高校生へと体力、筋力、持久力を付けて行き、それらが今ここで養った体幹と競技技術の上に乗っかれば一気に伸びる、らしい。

「6年生は夏合宿の後、市の小学生陸上競技大会に参加するけど、うちの教室で上位の成績を出していたら、かなりのところまで行けるはずや」とコーチが言った。

「中学生になったらいよいよ体力、筋力、持久力もアップするような練習も段々と取り入れる。競技もある程度専門に別れることになる。ハードルは高校の高さにする。その高さがオリンピックで使われるハードルの高さと同じやから、それを飛べてやっと一人前ってわけや」

「ちなみに中学生になったら各学校に陸上部があるやろうから、わざわざこの教室に来る必要はない。中学生になってもここを続けるかどうかは各自で判断したらええ。もしかしたらこの合宿で最後になる子もいるかもしれんから、友情を深めあうことも大事なことや。まあ、みんな楽しんで行きましょう」

 夏合宿の前、コーチは6年生の前でそんな話をしてくれた。


 夏合宿は去年と同じ京都北部の高原の合宿所。また一週間の陸上三昧の日々が始まる。

 基本的にやることは同じだ。午前中は基礎トレ、午後から各種目別のトレーニング。同じことを繰り返しやることが大切なのだ。続けることも才能って言うし。

 ただ、やってる内容は同じでも去年とはレベルが各段に上がった。みんな競い合って記録もすごく伸びた。競い合う仲間がいるってとても大事なことだと実感する。

 初めて合宿に参加した5年生の不慣れな仕草がおかしくて、懐かしい。去年の自分達もああだった。

 真矢とはまた別々の部屋になった。真矢がみんなと馴染めるかちょっと心配だったけど、もう去年みたいなことはないみたい。真矢は陸上以外の部分でもレベルアップしている。

 朝食前の朝トレには6年生全員が自主的に参加している。モチベーションも上がったようだ。

 去年はみんなといっしょにお風呂に入ることが恥ずかしかった。実はまだ恥ずかしいんだけど、そんなそぶりを見せないように平気な顔でさっさと裸になったり、ちょっと背伸びしてるところもある。もしかしたら去年の6年生もちょっと背伸びしてたのかも知れないな。

 お風呂場でさりげなく真矢の裸をチェック。真矢の胸、やっぱ小さい。去年の6年生はずいぶん胸も大きくて大人に見えたけど、私達、あのレベルになってるかな?

 他の子はどうかな。なんかみんなあんまり変わってないような。さすがに5年生の子達よりは出っ張ってるとは思うけど、5年生に見られたら恥ずかしいレベルかも。仁美はこっそり胸を隠した。そんな仁美の仕草を真矢は訝しげに見ていた。

 陸上三昧の日々はやっぱり楽しくて楽しくて、一週間なんてあっという間に過ぎてしまう。晴天続きで、男子も女子も全員日焼けして真っ黒になった。

 ある昼の休憩時間、男子がハイジャンプのマットを使って遊んでいた。ハイジャンプが得意な男子たちが、背面跳びの姿勢から空中でそのまま後ろ向きに回転してマットに着地しようとしている。いわゆるバク宙(後方宙返り)をしようとしているのだ。

 陸上競技の道具を使って遊んでいたら普段の教室だったらコーチに見つかって怒られる。合宿中の昼休みはコーチも休憩していて目が届いていないから怒られないって思っているんだろう。女子はさすがにそんなことはしない。

 ハイジャンプの得意なその男子たちは、何回か練習しただけですぐバク宙ができるようになったようだ。それを見ていた女子から「すごーい」と歓声があがったので、その男子はすごく得意満面な笑顔を振りまいてはしゃいでいた。馬鹿だけど、男子の運動能力ってすごいなって素直に関心した。

 その後、その男の子は芝生の上でもバク宙をしようとして失敗し、尻もちをついて腰を痛めた。怪我はなかったけど、しばらくお尻を痛そうにして変な歩き方をしていた。「馬鹿だねー」と女子だけでなく男子からもからかわれてた。


 最終日は各種目別の計測で、100mでは真矢が女子のなかで断トツで一番だった。自主トレの成果もあってか100mハードルでは仁美が一番になった。

 最終日の夜。去年の経験では9時の消灯までに合宿所に戻れば問題ないはず。そう思って二人で抜け出した。みんなはまだ花火大会で盛り上がっている。

 真矢と二人、グラウンドの真ん中の芝生に寝そべって夜空を見上げる。

 まだ時間は早いのに、もう満天の星空。天の川まではっきり見える。こんなにはっきりと天の川を見たのは初めて。去年だって見えてたのかもしれないけど、天には本当にこんなにたくさんの星があるなんて、京都の市内で暮らしていると分からない。

 教科書に写真入りで載っていても、やっぱり実物を見ないとピンとこないことって、他にもいっぱいあると思う。

 星空が山の端までびっしりと広がっていて、プラネタリウムの中にいるみたい。

「こうやってると、この世界には真矢と私と二人しかいいひんみたいな気持ちになるなあ」

「仁美ってロマンチストやな」

 黙って夜空を見上げる。仁美は右手で真矢の左手を握る。真矢もそれに応えるように指を絡ませる。

「真矢、去年の夏合宿で私が真矢に告ったこと覚えてる?」

「うん。うれしかった。仁美が好きって言うてくれて私、ちょっと自分に自信が持てた」

「まだ真矢の返事聞いてへんやろ。真矢は私のことどう思ってるん?」

 真矢は顔を左に倒して不思議そうに仁美を見る。

「もちろん私も仁美が好きや。分かってるって思ってた」

「ほんま?」

「うん」

「ほな、キスしてええ?」

「うん……」

 仁美は上体を起こして真矢の上からその顔を覗き込むと、軽く唇を重ねた。

「うち、ファーストキスや」

「うちも」

 言いながらもう一回唇を重ねた。

「これセカンドキスって言うのかな?」

「どこまで数えるん?」

 二人で笑いあって、また唇を重ねた。

「これでサードキス」

「もうええって!」


 次の日、合宿所からいつもの陸上競技場前までバスで戻って解散した。

「仁美、寂しなったら電話しいや」

 別れ際、真矢がからかうように言う。去年、合宿から帰宅した私は、急に一人になったことが寂しくて真矢に電話をしてしまった。真矢は何も聞かずに私に会いに来てくれたっけ。


 夏合宿から戻って間もなく、真矢と仁美を含む陸上教室の6年生は、市の小学生陸上競技大会に参加した。

 開催場所はいつも練習しているサブトラックのある西京極陸上競技場のメイントラック。

 そこで真矢は100mで優勝した。私は100mハードルで決勝までは残ったが勝てなかった。

 私達は普通のランニングシューズだったが、出場者の半分くらいの子たちは既にスパイクを履いていた。そのせいだとは言いたくない。だって真矢はそれでも勝ったのだから。

 陸上教室でいつも見ているから知ってるけど、真矢の走りはスピードに乗ってからの伸びがすごい。この大会でも、スタート直後から前半はスパイクを履いた子たちに先行されるけど、後半一気に抜き去ってしまう。ゴボウ抜きって言葉がピッタリで、いつ見てもすごく興奮する。

 コーチの話通り、私達の通う陸上教室で上位の成績を出してたら、一般の大会でもいいとこまで行けることを実感できたことは大きな収穫だった。

 観客席があって、日本選手権クラスの大きな大会も開催されるような公式のトラックを走ることができたことも嬉しかった。

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