第5話 小さな?事件
仁美は夏合宿でさらに陸上競技へのモチベーションが上がった。
夏休みの今は毎日早朝、ちょっと離れた河川敷の公園までランニングすることを日課に取り入れた。そこで基礎トレーニングをひととうりやって、また走って帰ってくる。
河川敷の公園には、公園に沿った土手の上に、一車線の狭いが舗装された道路があって、その両側には桜の木がずらりと植えられている。桜の季節になるとそれらの木々が一斉に花を咲かせる。その様子は見事で、まるで桜のトンネルのようだ。その時期には公園に露店もたくさんでる。
京都の隠れた観光名所にもなっているらしく、満開のタイミングで晴天に恵まれると大勢の人で賑わう。
ここには仁美も毎年お花見に来ているし、小さい頃から友達と頻繁に遊びに来ているから、自分の庭のようによく知っている。
夏の季節、京都の市内は早朝であっても高原のような爽やかさはないが、それでも日中の暑さを考えるとずっと過ごしやす。
その日も仁美は朝早くから河川敷の公園で一人、基礎トレをしていた。早朝の6時頃、公園にはまだ人影は見られない。
公園の中には川から引かれた小川が流れていたり、池があって季節には水草が花を咲かせていることもある。芝生や草が生えた広場がいくつもあって、そこにも桜やその他よく分からない木が植えられていて、子どもにとって恰好の木登りの遊び場になっている。広場の間を縫うように砂利道の遊歩道が通っていて、遊歩道に沿って大人の腰くらいの高さの生け垣が巡らされている。
また公園の端っこには広いグラウンドもあって、少年野球の子供達が野球の練習や試合をやっているのをよく見かける。
仁美はその端っこのグラウンドまで走ってきて、そこでトレーニングするのを日課にしていたから、その日もグラウンドでいつものメニューをこなしているところだった。
公園の土手の上にある道路に、大きな音で音楽を鳴らしながら車が走ってきた。朝っぱらからうるさいなあと思ったが、通り過ぎるのを待つしかない。仁美は特に注意を払うこともなくストレッチを続けていた。
その車が止まったのに気づいて、仁美はふとそちらを見た。中から3、4人の男が出てきた。大人ではなさそう、たぶん中学生くらいの、自分より年かさの男の子のように見えた。でも車を運転してるんだからもう少し上か。高校生くらいかもしれない。仁美はそんなことを咄嗟に考えた。
その少年たちはこっちを見ている。何か大声で話しながら土手を降りて来ようとしている。仁美は本能的に全身の神経が泡立つような感覚を覚え、瞬間的に起き上がると、自分がさっき来た方向に向かって走り出した。その時、その少年達が自分を追いかけて走り出したのを目の端で確認した。仁美は生まれて初めて『恐怖』を感じた。捕まったらだめだ!と本能が訴える。頭の中に赤信号が点滅している。必死に走った。
仁美は小学生の女子としては早いけれど、中学生や高校生の、しかも男子相手に逃げ切れるかどうかは分からなかった。ただ、自分は走りやすい恰好をしているから全力で走ることはできる。
後ろと左右から追われていることが足音で分かる。その足音がどんどん近づいてくる。右には川があるからそっちには逃げられない。左の土手を上がって道路を横切り、向こう側の民家の建ち並ぶ所まで逃げ切らなければならない。道はそれしかない。
やはり相手の方が速い。このままだと追いつかれる。仁美は公園の遊歩道沿いに巡らされた生け垣を飛び越えた。普通なら隙間を探して通り抜けるところだが、そんなことはしていられない。相手もジャンプして飛び越える。でもそのタイミングでちょっとずつ差が広がるのが分かった。何回か生け垣を飛び越えながら徐々に左の土手の方に近づき、思い切って一気に土手を駆け上がった。上の道路で待ち伏せされていたらアウトだ。でももう賭けるしかなかった。もう生け垣がなくなる。そうなったら追いつかれる。
幸い道路には待ち伏せはなく、仁美は土手の向こう側の民家に向かって道を駆け下りた!
民家の建ち並ぶ一角から後ろを振り返ると、土手の上の道路から少年達がこちらを見ているのが分かった。もう追ってはこないようだ。このあたりの道は知っている。仁美は住宅街の中の道を通り抜け、バス通りに出た。あの少年たちの乗った車が来ないか周囲を確認しながら、そのままバス通りを走って自分の家まで無事に戻った。
仁美はこのことを母親に話そうかどうか迷ったが、結局話さなかった。相手が誰か分からないし、とりあえずは無事だった。なにより母親を心配させたくなかった。このことを話したらきっと過度に心配して、仁美がちょっとそこらへんに外出することさえ気にかけるようになるかもしれない。
ただ、真矢には話した。真矢がもし同じような目にあったら大変だから。真矢は眉間に皺を寄せて聞いていたが、「無事でよかった」と一言だけ言って私を抱きしめてくれた。その真矢の手は、震えていた。
小学生の仁美にとって『性』のことはまだ小説や漫画の中だけのことと思っていたし、深く考えたことはなかった。この事件で『性』ということを無理やり目の前に突きつけられたように感じた。それをどう処理していいか分からないのだった。
ただ、仁美は世の中の男がひどく傲慢な存在で、女にとってひどく理不尽な世界だと思った。
私たちは女だというだけで制約を受けなければならない。男と女は平等なんかじゃない。私は女であるがゆえに早朝誰もいない公園でトレーニングすることすら危険なのだ。男だったら何も問題はないだろうに。
この国の女の人はみんな、女であるがゆえのそんな制約を当たり前のように受け入れて生活しているんだ。
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