第4話 はじめての合宿

 真矢と仁美が通う陸上教室は、5年生が男子13名、女子8名。6年生も合わせると男子27名、女子17名の総勢44名という構成である。

 これが多いのか少ないのか仁美に分からないが、仁美の通う小学校の1クラスの人数とだいたい同じくらいだから、コーチが各学年1名づつの2名であることを考えると教えやすい人数なんじゃないかと思う。

 4月もまだ初めのこの時期、練習のある日曜日にはみんなお揃いのジャージ姿でやって来る。

 練習開始前には必ず怪我を予防するために十分なストレッチを行う。6年生の掛け声に合わせて、その動きを真似して同じように5年生もストレッチを行う。

 ストレッチが終わったら軽いラントレ。正しい姿勢で早く走るための基礎トレーニングだ。

 これも決まったメニューがあるので、ストレッチが終わった者から各自行う。

 その場で高くジャンプする『その場ジャンプ』10回。

 スクワット姿勢からジャンプして前進する『スクワットジャンプ』10回。それを片足づつ交互にやる『片足スクワットジャンプ』10回。

 大股で歩きながら深く腰を落として踏み込む『ディープランジ』10回3セット。

 『ディープランジ』にジャンプの要素を加えた『ジャンプランジ』10回3セット。

 腰を高く保ったままうつ伏せで行う『四つん這い歩き』10歩、同様に仰向けでの『背面四つん這い歩き』10歩。

 これくらいの運動をするともう暑くて、みんなジャージを脱ぎたくなる。

 今くらいの季節だと、ジャージの下に着ているのは、上半身は陸上教室のマーク入り白の半袖シャツ。その下に半袖のラッシュガードまたはタンクトップを着ているものもいる。下半身は陸上教室の青のランパン。女子はその下にショートスパッツといった姿の者が多い。踝まであるロングスパッツを着用している少し寒がり屋さんもいる。

 次に二人一組で行うトレーニングに移る。

 うつ伏せで四つん這いになった人の足をもう一人が持ち上げて移動する『手押し車』10歩。これには横歩きや後退などのバリエーションがある。さらに『手押し車』を仰向けの姿勢でも行う。

 交互に相手の背中に手をついて飛び越える『馬跳び』10回。

 こういった基礎トレーニングについては、最初はコーチが正しいやり方を指導するが、みんなすぐに覚えて各自が自主的にできるようになる。

 陸上教室は週一回だけだが、基礎トレーニングはその気になればいつでも自分一人でもできるものがたくさんある。

 個人または二人で行う基礎トレーニングをひととうり済ませた後は、全員で行うトレーニングへと移っていく。次第に運動量も大きくなる。

 順番に一定の高さに張ったゴムを両足揃えて飛び越えて行くリズムジャンプ。

 トラックを使っての5mダッシュから片足ケンケンジャンプを10歩など。

 そして各種目を意識したトレーニングへと進む。

 一定間隔で置いたミニハードルを使ったステップドリル。

 低めのハードルを使ったハードルドリル。

 踏切板までの助走路に一定間隔でミニハードルを置いて行うリズム幅跳び。

 走り高跳びの空中姿勢では、まずは基本のはさみ飛びから入って、バーを越える感覚と、マットに倒れ込む感覚を掴む。その後空中姿勢をベリーロール、背面跳びへと進めていく。

 陸上競技を本格的に始めたばかりの5年生が、実際のハードル飛び超えたり、走り高跳びを背面で飛んだり、走り幅跳びの飛距離を伸ばすような練習をするのはまだいくらか先のことになる。

 陸上教室に通い始めてから仁美は、休日はもちろん平日でも学校から帰った後、近くの公園で毎日(雨が降らなければ)基礎トレーニングをすることを日課にするようになった。(真矢もやってるって言ってた)


 7月。入会して3か月ちょっと。一週間に一回だけの陸上教室だけど、私たちはずいぶん上達した、と思う。

 走り高跳びでは、背面飛びができるようになった。走り幅跳びでも助走からの空中姿勢と着地の練習を積んで、飛距離が随分伸びた。100mハードルでもそれなりに10台すべて飛べるようになった。

 いままで本格的に教えてもらったことがないことばっかりだから上達して当たり前かもしれないが、いいコーチがいるのといないのとでは上達の速度に各段の違いがある、と思う。

 やる度に記録が上がるからモチベーションがあがって、ますます面白くなる。どこかで壁に突き当たるんだろうけど、今は楽しくてたまらない。

 週一回しかないのが物足りない。基礎トレーニングは自分でもできるけど、道具を使ったトレーニングは難しい。毎日って言うのは学校があるから無理だけど、春夏冬の長い休みには毎日陸上の練習をやりたい。そんなことをコーチに話してみた。

「春や冬は無理やけど、夏には一週間の合宿があるぞ。そのあたりからぐっと記録が伸びてくるんだ」

 へえ、一週間も陸上三昧なんて楽しそう。真矢ともずっといっしょにいられるんだ。

 真矢と私はお互いに下の名前で呼び合うくらいには仲良くなった。週一回しか会えないからかもしれないが、なにかそれ以上に進展がない。(女同士で何を期待してるんだ!)

 真矢は陸上教室では一番の友達だ。でもあと一歩踏み込めない壁があるような感じがぬぐえない。


 夏休みに入って間もなく、私たちは夏合宿に出発した。

 いつもの陸上競技場前に集合。

 5、6年生全員バスに乗って京都北部の高原にある陸上競技場とその付属の合宿所へ向かう。

 合宿所は学年別、男女別の部屋割りで、左右の壁にそれぞれ作り付けの2段ベットのある4人部屋。

 朝8時から練習開始で午前中は柔軟、基礎トレーニング。午後からの各種目の練習の準備。道具を倉庫から運び出してセッテイング。

 お昼休憩のあと、午後は日が傾くまで走り高跳び、走り幅跳び、100mハードル、100m走の各種目の練習で走り回る。

 最後に道具を倉庫に片づけて終了。

 夕食前に入浴。全員入れる大きな湯舟のお風呂がある。

 夕食後は自由時間。

 共有スペースでテレビや雑誌を見るもよし、それぞれの部屋でゲームしたり、もちろん勉強するもよし。

 9時消灯。強制的に電気が消される。

 私達は友達同士でお風呂に入った経験がなくて、どうするって感じでお互いに顔を見合わせていた。

 同じ脱衣所に入って来た6年生の女子が慣れた様子でさっさと裸になってお風呂場に入って行く。それを見て私達も覚悟を決めた。

 えいやっと服を脱いで急いでお風呂場に入る。一旦裸になってしまえばお風呂場ではみんな裸。すぐ平気になるもんだ。

 私はそっと真矢の裸を観察。小さい胸。私と同じくらい。まだ5年生だからあたりまえだよね。さりげなく周りの女の子も観察してみる。やっぱり6年生になると胸の大きな人が多い。

 胸が大きくなるのは陸上競技には不利かもしれないけど、その女の子らしい体はやっぱりきれいだと思う。私達も来年合宿に来てお風呂に入るときはあれくらい成長しているのかな。

 お風呂で汗を流してさっぱりしたら、くつろぎ着で食堂に集合。

 夕食は長く並べられたテーブルに出席番号順に座る。仲良し同士で固まらないようにとの配慮だろう。女の子の仲良しグループってめんどくさいもんね。私も女だけど、めんどくさって思ったことあるから分かる。

 でも真矢と並んでご飯食べたかったな。部屋割りも出席番号順だから私と真矢は別々の部屋になってしまったし。

 友達と同じ部屋で寝る経験も私達には初めて。楽しくて消灯ぎりぎりまではしゃいでいたが、昼間の強い太陽の下で目いっぱい走り回ったからか電気が消えたらあっと言う間に眠りに落ちた。

 普段は9時に寝ることなんてないんだけど、きちんと睡眠を取って疲れを残さないようにしないと一週間もたない。

 ここでは夜になると涼しくて、窓を開けて網戸にしておくだけでクーラーも扇風機もいらない。市内だと、そよとも動かなくて湿って重くて昼間の熱気をそのまま含んだ空気に包まれて、冷房機器がないと絶対寝られない。同じ京都なのにこんなに違うことに驚いた。

 ぐっすり眠って、朝は自然に目が覚めた。まだ朝食までには時間がある。

 私は運動着に着替えてそっと部屋を出た。廊下にでる。どの部屋からも物音は聞こえない。まだみんな寝ているらしい。

 玄関で靴の紐を結んで外に出る。玄関の鍵は空いている。誰かが空けたのかな。外で軽くストレッチしてグラウンドに向けて走り出す。

 グラウンドに向かう未舗装の道の両側は雑木林になっていて、早朝の湿り気を含んでひんやりした空気がその木々の中に留まっている。さすがに高原だ。京都の市内だったらこんなに爽やかな朝は絶対に望めない。

 仁美はそこに見知った木を見つけて足を止めた。クヌギの木。どんぐりができるやつだ。仁美がひと目で分かる木なんてほんの少し。クヌギの他には、桜の木。これはさすがに分かる。木にトゲがあるのは梅で枝の断面が赤いのが特徴。それから学校や公園によくある木で、まっすぐ空に向かって伸びているのはイチョウの木、大木になるのはクスノキ。それくらい。

 クヌギの木を見つけると、この時期には落ちていることはないのは分かっているんだけど、ついその実を探してしまう。

 たぶん去年落ちたと思われる乾いて割れたどんぐりを見つけた仁美は、やっぱりこれがクヌギであったことに満足し、再び走り出した。

 グラウンドに着いてみると、トラックを軽く流している人、柔軟やストレッチをしている人が結構いた。見たところみんな6年生らしい。さすがにモチベーションが違う。

 トラックの中の芝生は朝露のせいか濡れている。

 その中でポニーに括った長い髪を揺らしてジョギングしている子を見つけた。真矢だ。5年生は真矢と私だけらしい。

 私は真矢の後ろからそっと近づいていきなり抱きついた。

「おわ!?」

「おはよう。早いね」

「なんや仁美かー、びっくりさせんといて」

「よく眠れた?」

 私は軽い挨拶のつもりで聞いてみたんだけど、

「うん。眠れたけど……」

 なんか歯切れが悪い。

「どうしたん? なんかあった?」

 真矢は黙ったまましばらく並んで走っていた。

「私って顔怖いやろ。この顔で冗談言ってもそんな風にとってもらえないで、相手を傷つけたり、怒らせたりすること多くて。言葉選びもへたくそで、ついまっすぐな言い方してしまうし。そやから友達作れなくて」

 たしかにきりっとした顔だと思うけど、それは怖いのとは全然違う。

「陸上やってるときはなんとかうまく付き合えるんだけど、それ以外のときはどうしていいかわからへんねん。夕べも晩ご飯の後、部屋にいるのが気づまりで共有スペースでずっとテレビ見てた。今朝も朝起きて顔合わすのが怖くて、早起きしてここに来てん」

 まさか、真矢がそんなことで悩んでるなんて。マイペースで自信満々な子だと思っていた。

 こんなとき何を言えばいいのかな。私は少し考えて、

「真矢は私と初めて会ったとき、私の分もお昼買ってきてくれたやろ。あれすごくうれしかった。いい子やなあって思った。まあ色んな子がおるから……けど少なくとも私は真矢が好きやで」

「仁美、ほんまに私のことが好き?」

「うん。真矢のこと大好き、ってなんか私告白しちゃってる?」

 二人でふふっと笑いあった。

 その日から私は真矢といっしょにいるようにした。お風呂はもちろん、夕食後もいっしょに共有スペースでテレビを見たり雑誌を読んだりお喋りしたりして過ごした。

 連日晴天が続いて、私たちは真っ黒に日焼けした。

 毎日計ったように夕方になると雷雲が現れて「ゴロゴロ」と言う音をさせながら一時空を覆う。そしてたまにざっと夕立を降らせる。あわててハイジャンプのマットにビニールを掛ける。落雷を警戒して屋根の下に避難するが、雨が上がった後の爽快な空気を感じる瞬間が私は大好きだ。

 そうしてあっと言う間に一週間が過ぎて合宿最終日は、各種目の記録の計測会になる。

 どの種目もさすがに6年生にはかなわない。その中で100m走では真矢が6年生の記録に迫るタイムを出してみんなを驚かせた。

 夕食後は合宿打ち上げの花火大会が開かれる。毎年恒例であるらしい。

 私は真矢と並んで花火をしながら、真矢との心の距離が少し縮んだように感じていた。真矢が悩みを話してくれて、私が素直な気持ちを伝えることができたからかな。


 みんなを乗せたバスは、いつもの陸上競技場前に到着。そこで解散。

 真矢は家からお母さんのお迎えが来ているらしい。私は真矢と分かれて電車で帰宅した。

 今日、私たちは夏休みだけど平日なので、うちの両親は働きに出ていて留守。それは分かっているからチャイムを鳴らすこともなく自分で玄関の鍵を開ける。

 一週間も家を空けたことは今までになかった。たった一週間なのに、もっと時間が流れたような気がする。

「ただいま」

 一応、声に出してみる。誰もいないので当然返事はなく、家のなかは静まりかえっている。

 階段をあがって2階の自分の部屋に荷物をおろす。空気が淀んでむっとしている。私は窓を開けた。

 部屋の中とは対象的に外は日差しが強く、蒸し暑い。セミがせわしなく鳴いてにぎやかだ。

 ふと涼しかった高原の合宿所のこと、友達とにぎやかに過ごした陸上三昧の日々が頭をよぎった。ちょっと前までそんな所にいたのに、と思うと急に胸がつまって苦しくなり、涙が溢れてきた。

 自分でもびっくりした。

 なに、これ? やだ、なんでこんなに寂しいの? ホームシック? 家に帰って来たんだから違うか。

 今まで一人で留守番するなんて当たり前で、寂しいと感じたことなんてなかった。

 私はたまらず部屋から飛び出すと階段を駆け下りた。真矢と交換した電話番号を書いた手帳をめくって、階下にある電話で真矢のスマホの番号を押した。電話はすぐに繋がった。

「もしもし?」

 真矢の声。さっき別れたばかりなのにもう懐かしい。

 私はスマホを持っていないから、真矢は私がメモ書きした電話番号を登録していないかもしれない。念のため名前を名乗る。

「あの、篠田ですけど」

「うん、仁美やろ」

 登録してくれていたらしい。真矢はあっさりと答えた。

 電話はしたけど何を話していいか分からなくて口ごもってしまって間が開いてしまう。真矢も訝しく思っているかもしれない。

「今、何してるん?」

 真矢から話しかけてくれたのでほっとした。

「今日は平日やから家に誰もいなくて、なんか一人やと気持ちがしーんとしちゃって。さっきまでみんなと一緒だったからかな、なんかよけいに……」

 寂しいって言うのが恥ずかしくて、咄嗟に言葉を濁す。

「それで、なんか急に真矢の声が聞きたくなって……」

 電話でしゃべりながらまた涙があふれてきて声が詰まる。泣きそうなの気づかれたかな。

「じゃ、会おうか」

「ええの?」

「うん。仁美ん家の最寄り駅まで迎えに来て」

「分かった。あの……ありがとう」

「ばーか」

 そう言うなり電話は切れた。

「ばーか、か」

 涙を拭って真矢の真似をしてつぶやいてみたらふっと笑いが漏れた。

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