無銭旅行のインド人

最高血圧

無銭旅行のインド人

「ピンポーン――ピンポーン」

 弟と二人で夕飯を済ませた時分に、玄関のチャイムが鳴った。


 私が高2の頃、太古の昔だ。とっくに葬り去ったはずの話だが、まあ聞いていただきたい。


 インターホンなど普及していない当時、モニターなし呼び鈴のみの訪問者への対応の選択肢は三つのみ。居留守か、玄関ドア越しに声を張り上げるか、解錠して対面か。

 その夜、仕事先から母(あるいは父)が帰宅したものと思い込んでいた私は迷わずドアを開けた。


 浅黒い肌のひょろりと痩せたあまり若くない外国人の男が入り口に立っていた。深々とお辞儀をしてみせる頭に巻いた白いターバン――インド人か? 

 ぼんやりとそう思った。


 廊下伝いにリビングで弟の観ているTV番組の音がわずかに聞こえてくる。

 家に一人でいるのではない、という事実が警戒心をゆるめていた。加えて生理中だった私の頭は靄がかかったようにぼーっとしている。

 珍客にいささか好奇心もあったかもしれない。うっかりドアノブから手を放し、後ずさりしてしまった。


 すかさず、玄関内にするりと踏み込み後ろ手にドアをしめ「アヤシイモノジャアリマセン」と言いながら、インド人男は首に下げていた手垢まみれの札のようなものを掲げて見せる。

 そこには次のような趣旨のメッセージがなぜかひどく達筆な和文字で記されていた。

『私は無銭旅行をしている者です。あなた方の寄付を募っております。協力していただけると非常に助かります。いくらでもけっこうですのでカンパを是非ともお願いします』

 併せて自分で書いたという聖書についての解説書とやらのペーパーバックをポケットから取り出して見せ、「二千八百円、イカガデスカ?」と迫ってくる。


 高い! 反射的に口に出していた。

 

 アナタコレ買ウ。ワタシ英語ノレッスンスル。

 アナタ英会話レンシュウデキル、トモダチ、OK?

 ソコニ、イングリッシュスクールアル。英語話シタイ? 先生、トモダチ。


 片言でどうも解せないが、確かになじみの英語学校が近所にある。

 このインド人もしかしてそこの校長の知り合いだったりする――のだろうか?

 このあたり、もはや私のポンコツ脳が繰り出す妄想の悪あがきというよりほかはないのだが。


 ちょっと弟呼んでくる、と無意識にヘルプ要員を発動しようとする私に向かって男は言い放った。


 オトウト、イラナイ。

 テレホンナンバーオシエテ。


 ブロークンな日本語をねっとりとした口調にのせながら玄関内にどんどん入り込んで来る相手を前に、さすがにこれはヤバいと焦りはじめる自分。 

 あろうことか言われた通り、なけなしの大枚をはたいてしまう。おまけにテレホンナンバー(家電)までも明かしてしまうというていたらく。

 とにかく早く消えてほしい一心だった。


 Shake hands !


 商談成立、というところだろうか。手を差し出され謎の握手を交わした時である。

 薄暗いポーチ照明の下、インド人男の目がぎょろりと光った。

 直後、腰をかがめたその長身が覆いかぶさってきて私は抱きすくめられていたのだ。


 アナタトワタシトモダチ。

 トモダチノハグ、OK?


 なんじゃ、こりゃあ――

 状況を把握できずに固まる私(処女、生理2日目)の耳元で生臭い息とともに囁かれることば。


 コレハトモダチノシルシ。トモダチノキス…


 うへええええっつ?!?!


 頬にタコのように吸いつかれるや否や歯を立てられた感触があり、痛っと叫んでとっさに突き飛ばす。

 この期に及んでようやく私は正気に返った。

 おのれの不甲斐なさに、頭がカーッと熱くなる。


 ゴーアウト!


 やっとの思いで睨み付け声を振り絞ると、インド人男は両の手のひらを前に出して見せ、Oh, sorry. ゴメンナサイ……と後ずさりながらそそくさと玄関から外に出て行った。


 後日談がある。


 その翌日の日曜日、案の定我が家にインド人からの黒電話が鳴り響いた。

 事の顛末を知った中国フリークの父がすかさず取った受話器に向かい、「アーユーインディアン?」と中華なまりきつめに鋭く問いかける。

「チガーウ」

「アーユーイラニアン?」

「チガーウ」

「リアリィー? ホワットアーユー?」

 という会話を交わした後電話はぶつりと切れた。

 それ以来音沙汰はない。


 以来、チャイムが鳴ればドアスコープの確認を怠ることはめっきりなくなった。モニター付きインターホンが蔓延る以前のスリリングな時代、振り返れば当時はさまざまなパンチの効いた訪問者と玄関先で対峙したように思う。

 とりわけいまだにこの「初キスの思ひ出」がうっかり脳内再生されるたび、チィーッッと舌打ちしシャドーボクシングせずにはいられないといういたたまれなさに身悶えるのだ。

 合掌。







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