エスカレーター男登場

 マミちゃんの家に向かう当日の朝、僕は準備に余念が無かった。今日は互いに出勤日で、仕事が終わってから集合する予定である。普段は入らない朝風呂に入り、替えの靴下も持った。そこまでしても僕は夏の一日を職場で過ごした後の足の匂いに自信が持てなかった。仕事中に少しでも動く量を減らし、時たま靴を脱いで換気するしかない。


 退屈な労働時間も後に大きな楽しみがあれば瞬く間に過ぎ去る。ほとんど疲労を感じない最高のコンディションでマミちゃんと店舗の出口で落ち合うことが出来た。


「うち何も無いからスーパー寄っていい?」


マミちゃんが言った。今日は一緒にご飯を作って『プリズンブレイク』を見る予定だ。僕には勿体ない程幸せで温かく平凡なデートだ。僕が頷くと、二人でスーパーに向かって歩き出した。ここからスーパーまでは国道沿いを歩いて二十分、そこからマミちゃんの家までは狭い路地に入って更に十分程歩かなければならない。僕は普段の運動不足と日に十本の煙草が祟って、歩行中に会話をするとすぐに息があがってしまう。沈黙に若干の気まずさを感じつつも、国道を走る車の騒音と体質に阻まれ、自転車を押しながら歩くマミちゃんの横を黙って歩いていた。


「なあ、ちょっと相談あるんやけど。」


沈黙に耐えかねたのか、マミちゃんが話しかけて来た。


「どしたん。話聞こか?」


インターネットで擦り尽された恋愛上級者の台詞が唐突に僕の口から飛び出した。成功者の事例を真似ることは何も悪いことでは無いが、何故か恥ずかしさがこみ上げて来る。


「私、中高大とエスカレーターで上がって来たんやけど、ずっとカッコいいなって思ってる人がおってんな。だけどずっとクラスとか一緒にならんくて、向こうも私も相手おったし、接点無いままやってん。ただこの前同じ会社に入ってたことが分かって、共通の友達に連絡先教えてもらってさ、一緒にご飯食べに行ったんやけど、ほんまにカッコいいし、いい人でさ。むちゃくちゃ好きになっちゃったんよな。でも彼大阪配属なんよね。どうやったら付き合えるかな。」


僕が着ていたシャツには世界地図のような汗ジミが浮かび上がっていた。その汗が、夜になってもじわじわと僕らを苦しめる七月の暑さによるものなのか、早くも前途多難となった僕の恋路に対しての冷や汗だったかは分からない。汗シミがシャツを蝕むように、焦燥と困惑が僕の脳内を侵食していった。今朝まで抱いていたあの甘い気持ちは何だったのであろうか。思いを寄せる女性に、別の男との恋の相談を打ち明けられるとは、なんと無様であろうか。共学出身の奴らは、男女関係は恋愛だけではなく友情という形もあると言うが、そんなものは真に男女愛を考えたことのない者の妄言である。仮に男女の間に友情が成立するとしても、真の友情は恋仲になった後にしか成立しない。ワーニャおじさんもそう言っていたし、男子校出身の僕にでもそんなことは分かる。マミちゃんとの恋愛も真の友情もここで諦めるしかないのであろうか。いや、そんなことは無い。容姿で劣っていようと地の利はこちらにある。それにエスカレーターで大学まで上がって来た男に僕以上のユーモアがある筈が無い。勝算は十二分にあるではないか。誰しも容易過ぎる勝利は望まない。苦難を経た先にこそ真の愛が芽生えるのだ。


 落胆と決起を数秒間の沈黙に押し固め、僕は大きく一つ息をつくと、マミちゃんに向かって話し始めた。


「マミちゃん可愛いし、この会社って社外の人と出会い無いし、ライバル少ないからいけるんちゃうか。向こうも社会人生活寂しくて退屈してるやろうし、彼女欲しいやろ。ただ遠距離なんがネックよな。」


話の最後を負の印象で締めくくるよう工夫されているが、とても自然な分析である。


「そうなんよな。仮に私が向こうに好かれてたとしても、向こうが遠距離いけるかどうか分からんもんな。私は全然いいねんけど。」


僕は全然良くなかった。マミちゃんが遠距離を気にしないのであれば、地の利など無いに等しい。これ以上こんな話をしていたくない。丁度スーパーについたので話題を変えることにした。


「今日なにつくる?肉食いたいんやけど。」


「ピーマンの肉詰めと餃子作ろ。」


手のかかる料理を向こうから提案してきてくれたことが嬉しかった。料理に時間がかかるので、必然的にマミちゃん宅での滞在時間も長くなる。僕はマミちゃんに好きな人が居ることも忘れ、喜びを胸にショッピングカートを押すマミちゃんの横にぴったりとくっついて歩いた。このスーパーには何度も来ていたが、一人で来る時はカップ麺コーナーと2Lのペットボトルのコーナーにしか行かない。ああだこうだと言いながら必要のない通路にも目を通し、無駄なものを沢山ショッピングカートに詰め込みながら二人で歩くスーパーは普段とは違う姿を僕に見せてくれた。

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