第四一翔
「九ドラン……まあ、けっこうもったほう、か」
淡々と極めて冷静に、ライオネルが呟く。
相手はあの『魔王殺し』だ。
平静を失って勝てる相手ではないと、彼は固く心に戒めていた。
油断などもってのほかである。
眼下ではアロンダイトが息苦しそうに首を上げているところだった。
ダービーでの最大の敵と目していた相手だ。
昇級戦にブルーリーフ賞と、アロンダイトの飛翔は細部まで脳裏に焼きつかせてある。
彼が八ドラン付近に距離の壁を持っている事を、ライオネルは長年の経験によりあっさりと看破していた。
「いや、より体力の消耗激しい峡谷で、しかもこの史上類を見ないハイペースで、一ドランも長くもたせた兄上の技量をこそ褒め讃えるべき、だな。『不可能も覆す竜騎士』の面目躍如と言ったところか」
すでにその魔法の正体にも、一つ前のカーブでおおよその見当はついていた。
ライオネルはドラゴンレーシング歴三〇年のベテラン竜騎士である。
何百何千と、ペースを計ってきた。
今やその身に宿している時計は、魔法時計に負けず劣らず精密無比と言っていい。
それによれば、モルドレッドの八ドラン通過タイムは一分三七秒ジャスト。
おそらくアロンダイトのタイムはそれに〇・五秒ほど足したぐらいだろう。
これは峡谷レースではとんでもない超ハイペースではあるが、城壁レースとして見れば、スローペースと言っていいタイムだ。
そして、アロンダイトは加減速をほとんど行わず一定のペースを維持して飛ぶという城壁レースを峡谷で見事に再現していた。
超々ハイペースから超ハイペースに落としても、さほど距離の壁は伸びはしないだろう。
しかし、さすがにスローペースまで落とせば、かなり伸びる!
「だが、それもここまでっ!」
ライオネルが手綱を引き絞ると、モルドレッドの頭部が沈み一気に加速する。
これまでの超ハイペースに疲労の色は濃かったが、地竜べフィーモスを母に持つ彼だ。
スタミナに関しては、アロンダイトの比ではない。
余力はまだ残っていた。
瞬く間にモルドレッドがアロンダイトを追い抜き返す。
だが、やはり敵もとんでもなかった。
ランスはアロンダイトの首筋に手を伸ばし――
「なぁっ!?」
その頭を力任せに押し込んだのである。
これにはさすがのライオネルも驚きを通り越して、呆れてしまった。
竜の翼の付け根の筋肉は首の付け根のものでもある。
これにより、竜は消耗すると風圧に耐えきれなくなり、首を上げてしまうのだ。
ただでさえ翼の疲労により速度が落ちていると言うのに、上がった首がでっぱりとなり、空気の抵抗まで増してさらに速度が落ちると言う悪循環にはまるわけだ。
よって、竜騎士が頭を押しこめば、その分、竜の負担は減り、また空気の抵抗も和らぐ、まさに一石二鳥の技ではある。
しかし、竜の頭部は鎧甲冑を着込んだ竜騎士の体重すら軽く上回る。
それを高速飛翔による風圧の中、片腕で押し返すなど、とても人間の腕力で為し得る事ではなかった。
「……なるほど、魔王の血、か」
半神半人の英雄『魔槍』クー・ホリンの伝説を思い出し、ライオネルはたちどころに事態を察した。
次いで腹の底から笑いがこみあげてくる。
今がレースの真っ最中でなかったら、高らかに大笑したい気分だった。
神の血を受けた者は、人の身にあらざる力を得ると聞く。
おそらく魔王モルドレッドを倒した際、何らかの拍子にその血を体内に取り込んだのだろう。
「つくづく……つくづくとんでもない人だ、貴方はっ! 魔王を倒した時より、さらに強くなっているとはっ! まったくもって底知れぬ! だがそんな貴方だからこそ、是が非でも倒したいっ!」
ドラゴンレーシング最高峰レースであるダービーの二年連続制覇。
一七あるG1レース、その全てを制覇するグランドスラム。
G1通算一〇〇勝により得た『
今のライオネルにとって、そんなものは炉端の石ころ程の価値もない。
全てドブに投げ捨てたって、一向に構わない。
この男に空で勝利する。
十六翼将の誰一人として届かず、かの魔王ですら為し得ることが出来なかった難事だ。
竜騎士にとってこれ以上の栄誉が、いったいどこにあると言うのか!
乗ってる竜は明らかにこちらが有利、クローダス公が何らかの妨害工作をしていることも知っている。
その妨害がアロンダイトの体力を削っていなければ、あるいは一〇ドラン、失速せずにもたせられたかもしれない。
ドラゴンレーシングの経験の差に至っては、それこそ天と地ほどの隔たりがある。
対等な条件での勝負とは到底言い難い。
それでもいいのだ。
この怪物に勝つためには綺麗事など言っていられない。
手段など選んでいられない。
たった一度、そうたった一度でいい。
この『竜騎士の中の竜騎士(ドラグーンオブドラグーンズ)』に勝ったという事実が欲しい。
その為なら、この命すら惜しくない。
そして自分は今まさに、チェックメイトをかけているのだ!
「所詮は悪あがき! 竜の体力が回復したわけではないっ!」
喝破しライオネルがより一層手綱を引き絞ると、モルドレッドが頭一つ抜きん出る。
さらにじわりじわりと差が広がっていく。
だが、やはり敵も『最強』だった。
そう容易くはいかない。
カーブの度にその差を縮め、しぶとく食らいついてくる。
どうしても引き離せない。
今まで一切の減速なしの飛翔を続けてきた事は想像に難くない。
相当に消耗しているはずだ。
下手すれば意識が半分ほど飛んでいたとしてもおかしくない。
それでもその騎乗の冴えは全く衰えない。
さすがだった。
最後のカーブを抜け、ついに長かった『迷宮』を脱出する。
目の前にはどこまでもどこまでも、ただ真っ直ぐに路が拓けている。
最後の直線、ダービーもいよいよ大詰めだった。
ライオネルの口元が、勝利の確信に我知らず綻ぶ。
アロンダイトはこの直線に入るまでに、モルドレッドに最低でも一〇竜身以上の差をつけていなければならなかったのだ。
だが、アロンダイトには距離の壁がある。
そんなハンデを抱えて、ドラゴンレーシングの名手の乗る最速の風竜相手に、いかなランスと言えど出来るわけがない。
否、一六翼将の面子にかけて、それだけは許すつもりはなかった。そして結果はモルドレッドが一竜身、先行している。
ライオネルは、見事、成し遂げたのだ。
「切り札は先に出すな。それが貴方の持論でしたな。まさしくその通り。貴方が見せていなければ間違いなく、この勝負は貴方の勝ちだった……」
だが、現実には見せてしまった。
サラマンダーでダービーを勝ち上がる為には、使わざるを得なかったのだ。
そしてそれが、彼の敗因となる。
切り札の差が、そのまま勝負を分ける。
ライオネルは勝鬨をあげるがごとく高々と鞭を振り上げ、そして振り降ろす。
「
」
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