第三二翔

 今年も神聖ランカスター帝国で最も熱い日がやってきた。

 大衆たちは熱狂的な歓喜をもってこの日を迎え入れる。


 ドラゴンレーシング最大の祭典ランスロットダービーは、帝都キャメロットから竜車で約一五〇ドラン離れたベイドン峡谷にて行われる。

 峡谷レースはコースが複雑な分、城壁レースよりスリリングでエキサイティングな飛翔が繰り広げられる為、熱狂的なファンは非常に多い。

 にもかかわらず、開催数は年に五日だけと、城壁レースに比べ圧倒的に少なかったりする。


 主な理由は、映像転写の有効距離が一〇ドラン弱しかなく、キャメロットコロッセウムのスクリーンで観戦することが出来ない為だ。

 さすがに毎週末、一五〇ドランを往復する酔狂な客はいないだろう。

 これではとても興業が成り立たない。


 そこで開催されるのはダービーのような集客力の高いレースだけに限られる。

 年に数回の大レースの為なら、観に行こうと言う気になる者も多い。


 加えて、この日に限っては行われるレースは全て峡谷レースだ。

 ドラゴンレーシングファンなら何を置いても観ずにはいられない一日と言えた。


 開催日前日には十数台もの大衆移動用の竜車が帝都を出発する。

 その料金は決して安くはないが、それでも予約が殺到し、当日ではとても間に合わない程人気だ。

 ベイドン連峰の麓に建設されたコロッセウムの周りには、帝国所有の天幕がそれこそ数え切れないほどに立ち並ぶ。

 帝都から、いやさ大陸中から訪れた観客たちは、この天幕で興奮に眠れぬ夜を過ごすのだ。


 今やコロッセウムには遥か彼方まで長蛇の列が入口から続いている。

 日の出とともに開場したはずだが、一時間は経ったと言うのに、なおこれである。毎年、人混みの熱気に当てられ倒れる客も少なくない。


 シャーロットたちも所有の竜車により、コロッセウム前に到着していた。

 ここから先は竜車では進めないので、ウォーミングアップがてらスタート地点まで出翔竜たちは飛んでいく事になる。

 とは言え、ダービーは本日のメインレース――最後のレースであり、出翔まではまだかなりの時間があった。


「おいおい、これから念願のダービーだってのに、みんななんて顔してやがんでえ?」


 肩をすくませつつ、ランスがおどけた調子で言う。

 竜車の後ろに取りつけられた竜房ではシャーロット厩舎の面々が、はや惨敗した後のように暗い顔でうつむいている。

 アロンダイトもしゅんと首を下げうなだれていた。


「ランス様……申し訳ございません。アロンダイトは……」


 悔しげにシャーロット。

 うつむいていてその目元は見えないが、その声からは涙ぐんでいるのがありありとわかった。


 やれやれとランスは首を振る。

 戦場に生きる男として、ランスは士気には敏感だ。

 これでは勝てる戦いも落としてしまう。

 彼としてはこんな辛気臭い雰囲気ではなく、もっと熱気に満ちた感じで送り出して欲しいところだった。


「俺がどうにかするって言ったじゃねえか」

「そんなわけには……」

「ったく、おまえはサラマンダーの事をよくわかってると思ってたんだが、一つだけ、わかってねえことがあるな」

「えっ?」

「いや、母親だから、かな。こういうのはやっぱり父親の役目か」


 シャーロットが顔を上げ不思議そうに見つめてくる中、一人納得したようにうんうんとランスは頷く。

 お世辞抜きで、シャーロットは実に素晴らしい母親だとランスは思う。

 そんな彼女だからこそ、アロンダイトは限界以上の力を発揮して勝利を得ようと頑張れるのだ。それは間違いない。


 だが今、アロンダイトを立ち直らせられるのは、優しく包み込むような母性ではない。

 ランスは経験からそれを知っていた。


「今、こいつに必要なのは、励ましや、同情や、ましてや謝罪の言葉じゃあ……ない」


 ぐるんとランスは右腕を一回転させ、大きく振り被った。


 ぞっとシャーロットの背筋を最大級の悪寒が疾り抜けた。

 その行為から次の彼の行動は容易に想像がついた。

 想像はついたが、いくらランスと言えどそんな無茶無謀は――


 ――する男だった。


「ランス様、待っっっ!」


 シャーロットの制止の声も間に合わず、ランスの鉄拳が思いっきりアロンダイトの頬に叩きこまれた。

 身体の芯に響くような重々しい音とともに竜房が大きく揺れ動く。

 人間の優に三〇〇倍はあろうかというアロンダイトの巨躯が横転したのだ。

 ランスの細身の身体からは想像もつかない膂力である。


 ランスを除く全ての人間は顔面蒼白だった。

 ランスの人間離れした馬鹿力に驚いたのではない。

 地上最強の生物サラマンダーに真っ向から喧嘩を売る行為をしてのけた事に慄いたのだ。


 鞭で叩くと言うのとはわけが違う。

 硬い鱗を持つ竜にとっては鞭打ちなど大して痛くもないに違いない。

 しかし今の強烈な一撃は、敵と認識されるにたる立派な攻撃である。

 しかも気位の高いサラマンダーの顔を叩くなど、軽くでも絶対にしてはならない行為だった。


 アロンダイトが勢いよく跳ね起きる。

 人間ならば即死の一撃も、サラマンダーたる彼には大したダメージにはならない。それでも皆が恐れた通り、その瞳には激しい怒りがほとばしっていた。


「待てアロンダイト! ランス様を襲ってはならん!」


 慌ててシャーロットがアロンダイトに抱きついて抑えようとする。

 ランスがどれだけ優れた戦士であろうと、単身でサラマンダー相手に勝てるわけがない。

 愛竜が想い人を襲う光景など、絶対に見たくなかった。


 が、彼女の予想に反して、アロンダイトは立ち上がったきり、その場から動こうとはしなかった。

 ただランスを恐ろしい形相で睨みつけるのみだ。

 気の弱い者なら心臓が止まりそうなその視線を、ランスは飄々と受け止め、さらに不敵に笑みさえ浮かべて見せる。


「目は覚めたか? 次の戦いで負ければ、おまえも、俺も、おまえの大好きなシャーロットも、ここの連中も、みんな……死ぬぞ」


 凄みを利かせた、低くよく通る声でランスは言い放つ。

 その場にいる全員が、思わず息を呑みこんだ。

 驚きの声を上げるのを必死に、それはもう必死に抑え込んだ。

 ランスの迫力に、ではなく、勿論、彼の放った大法螺に、である。


 彼が嘘をついた理由は明らかだ。

 アロンダイトに発破をかけているのだ。

 それを台無しにするわけにはいかない。


 とんでもなく難しい作業であったが、何とか皆、堪え切った。

 そして、その場にいた誰しもが恐怖に身体を振るわせる。

 この男は化物だ、と。


 サラマンダーに怒りの視線を向けられて、冷や汗一つ流さず、堂々と嘘を吐ける人間など、いったいどこにいるというのか!

 この、皆が何かを堪えるという雰囲気を演出することまで、おそらくこの男の計算に違いない。

 勝つ為に全てを利用する。

 若く見えても、彼は百戦錬磨の戦士なのだ。


「わかったら、さっさと戦える身体になっておけ。出陣までそう時間はないぞ」


 冷たく言い捨てて、ランスはくるりとアロンダイトに背を向け、スタスタと竜房を後にする。

 襲われるなどとまったく思っていないかのごとき悠然とした背中を、厩舎スタッフ一同はただ呆然と見送ることしか出来なかった。

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