第三一翔
事が起こったのは、ダービーをわずか三日後に控えた日のことである。
一ドランのタイムが、〇・一秒ではあるが前日を下回った。
すでにアロンダイトはほぼ完璧に仕上がっている。
この時はたった〇・一秒、誤差の範囲と深くは受け止めなかったのだが、翌日、さらに〇・一秒落ちるに至り、シャーロットの顔から血の気が引いた。
「どうしたのだ、アロンダイト……ダービーまでもう日はないというのに」
調教を終え、舞い降りてきた愛竜にシャーロットが呆然の体で問いかけると、アロンダイトは心底悔しそうにぐるるっと唸りを上げた。
彼自身、思い通りに動かぬ身体に苛立っているようだった。
「明らかに身体のキレが落ちてるな」
愛騎の背から降りたランスも難しい顔である。
「いったい何が……あんなに調子が良かったのに……」
「調子が、良すぎたからかもしれません」
困惑するシャーロットにそう述べたのは調教助手のジョンだった。
調教師学校で二年間教育を受け、その後はロックウェル家お抱えの厩舎で三年、みっちり助手として実務を積んできた男だ。
彼の経てきた経験は、シャーロットに最も足りぬものである。
その言には彼女も一目置いていた。
「どういうことだ?」
「おそらく、ピークを過ぎたのです」
「っ! ……そういう、ことか」
ようやく事態を察し、呪詛のごとく忌々しげにシャーロットは吐き捨てた。
調子と言うものは、上げれば上げるほどその維持期間は短くなるものだ。
何と言ってもダービーだ。
これまでで最高の仕上がりを目指した。
当然、それを維持できる期間はこれまでよりさらに短いものとなるのは必然である。
「わたしのせいだ。見た目の調子の良さに安心して、肝心なことを見落としてしまうとは……っ!」
シャーロットはぎりりっと奥歯を噛み締める。
今回、アロンダイトの気合いのノリが良く、調教の効果が普段より出ていた。つまり、いつもよりかなり早く仕上がっていた。
調教師の仕事は、ピークをしっかりレース当日に合わせる事だ。
ならば、いつもと仕上がりのペースが違う事を、もっと懸念しておくべきだったのだ。
具体的には、もっと仕上がりが遅れるよう、取り計らうべきだった。
「いえ、俺のミスです。姫様の経験不足を補うのが俺の役目だってのに。それがダービーに浮かれて、舞い上がって……」
「それはわたしも同じだ」
ドラゴンレーシング関係者にとって、やはりダービーは他の賞とは一線も二線も画す特別な価値がある。
加えてシャーロットにしてもジョンにしても、出翔竜を受け持つのは初めての経験だ。
全く普段通りに冷静でいろというほうが土台、無理な話ではあった。
しかし、それを言い訳に出来るほどシャーロットは器用ではない。
アロンダイトにとっては一生一度の晴れ舞台なのだ。二度目はないのだ。
自分の力のなさが、経験不足が不甲斐なくて悔しくて、いつしか地面を睨みつけるシャーロットの瞳からは涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
ぽんっとそんなシャーロットの頭を、優しくて大きな手が包む。
誰の手かは、すぐにわかった。
彼女が落ち込んでいる時、悔しがっている時、彼はいつもこうして慰めてくれる。
「ランス様、すみません。すみ……ません。わたしは……わたしは……」
それ以上は嗚咽で言葉にならなかった。
みじめだった。
情けなくて仕方なかった。
泣いていたって事態は変わらない。
厩舎の主がこんな女々しくてどうする!?
そう自分を奮い立たせるが、涙は余計に溢れるばかりで止まらない。
「そう自分を責めるな。竜の調子が悪い時なんか、いくらでもあった。俺にとっちゃあそう大したことじゃあない。戦場じゃ調子が良い悪いなんて言ってられねえからな。適当にどうにかするさ」
実にランスらしい言ではある。
竜の調子が悪ければ竜騎士が、竜騎士の調子が悪ければ竜が、お互いがお互いを支え合い、生き延びる。
それが戦時の竜騎士というものだ。
だが、今回に限ってはシャーロットの心はまるで晴れなかった。
確かに戦場ではそうだろう。
だが、自分たちが戦うのは、わずか一秒以下の時間を競い合うドラゴンレーシングだ。
人竜双方がベストの状態で挑む『競技』なのだ。
「なんとか、なんとかアロンダイトの調子を立て直します!」
シャーロットは自分に言い聞かせるように叫ぶ。
しかし、一度落ちた調子はそうそう短期間で持ち直させられるものではない。
そんな神の奇跡にも近い芸当に、心当たりがあるわけもない。
手をこまねいている内にただ時間だけが刻一刻と無常に過ぎてゆき――
結局調子は戻らぬまま、アロンダイト陣営はダービー当日の朝を迎えた。
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