第二八翔
「……随分と面白い事をしてらっしゃいますね?」
昼食の準備を終え、リュネットがキッチンからリビングルームに戻ると、逆立ちしたランスがいた。
しかも腕を組み、頭部だけでの倒立である。
壁などを支えにもしておらず、素晴らしいバランス感覚と言えたが、傍目には実に滑稽この上なかった。
ここはシャーロット所有の竜車の中である。
エレイン女史の墓はダービー公爵領フェラーズにある。
かつてはランスの領地であったが、今の彼は対外的には素性の知れぬ平民出の竜騎士に過ぎない。
彼がいつもの傍若無人ぶりを発揮すれば、ダービーを前にして一悶着起こしかねない。リュネットはその折衝及びお目付け役だった。
リュネットはじっとランスを見下ろすと、深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「いきなりどうしたい?」
何の脈略もなく謝罪してくるメイドに、当然、ランスは訝しげに顔をしかめる。
「少々、誤解しておりました。ランス様はてっきり天から与えられた才能にかまけて努力などまるでなされぬ方だと」
「おいおい、これでもしっかり努力しているんだぜ。と、見せかけて実はリュネットのスカートの中を覗くためなんだけどなっ!」
「……変態ですね」
「それそれ、一日一回はおまえにそう罵られないと、最近落ち着かなくなってきてよ」
「……ど変態ですね」
「かーっ、たまんねえ!」
上質の蒸留酒でも呑み干したかのように、ランスは目を閉じ余韻に身体を振るわせた。
それでも倒れないのだから本当に大したバランス感覚である。
「さあて、今日もリュネットのお叱りを受けたところで飯にすっかね」
言いつつ床に足を降ろし、ひょいっと軽やかにランスが立ち上がる。
そんな彼に、リュネットは珍しくメイドらしくかしこまって言う。
「その前にお風呂場で汗を流してきたほうがよろしいかと」
「…………ちっ」
ランスが苦虫を噛み潰したような顔になった。
してやったりとリュネットは心の中で拳を握る。
いつも彼には飄々と自分の言葉は受け流されてしまうが、今の一言はしっかりと彼にダメージを与えられたようだった。
彼女の言う通り、ランスの顔にはびっしりと汗の珠が浮かんでいた。
相当長時間、この姿勢でいたことは間違いない。
ランスが得意とする爆旋翔は、減速を一切行わないどころか、さらに加速しながら急旋回するという荒技だ。
竜は一ドランを一〇秒強で翔破する。
そんな高速で鋭角のカーブを曲がれば、身体――特に重たい頭部を支えている頸部にとんでもない重圧がかかるであろうことは素人のリュネットにも容易く想像がつく。
奇抜ではあったが、今のランスの姿勢がその負荷に耐えるための特訓であることは明らかだった。
ランスとの付き合いもはや半年近い。
彼が自身を悪ぶって見せるタチだということにはとっくに気づいている。
先程のやりとりも、努力していると見られたくない彼一流の照れ隠しなのだろう。
しかし自らの汗にも気づかず誤魔化そうとするなど、彼には珍しい失態だった。
長時間の逆立ちで頭に血が溜まり、判断力が鈍っていたのだろう。
ジョークもいつもより下品だった気がする。
「ははっ、ちっと興奮しすぎちまったぜ。んじゃお言葉に甘えてそうさせてもらうわ」
そう言って、ばつの悪そうな顔でそそくさとリビングから立ち去るランス。
「いってらっしゃいませ」
勝利の余韻に浸りつつリュネットは恭しく頭を下げた。
しかし一方で、かすかに心に刺さる違和感があった。
何か、何かがおかしい。
その違和感の正体を突き止めようとするも、どうにも思いつかずもどかしいリュネットだった。
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