入浴
本当に慌ただしい一日だった。
アカデミーの全授業が終わり、クロは屋敷へと戻ってそんなことを思った。
自堕落な生活からは程遠い、勤勉な一日。
これからの教師生活が、正直今日一日だけで憂鬱になってしまったのは言わずもがな。
とはいえ、もう嘆いてもいまさら遅い話。
クロは就寝前に汗を流しておこうと、防水処理をした書類を片手にだだっ広い湯船に浸かっていた。
(今日も一件、か……)
疲れた体に湯舟は最高だ。
しかし、クロの表情は険しいもので―――
「いかがなさいましたか、兄様?」
「俺の方が聞きてぇよ、アイリス。お前いかがした!?」
背後からのいきなりなアイリスの登場に、クロの表情がさらに険しくなった。
「今日一日頑張った兄様のお背中を流そうと足を運んだ次第です!」
「そんなオプションを身内にお願いした覚えはねぇんだが!?」
バスタオル姿で「ちゃぷ」と湯舟に入り込んでくるアイリス。
きめ細かな白い肌と、しっかりと育った艶めかしい肢体は蠱惑的。義理だからか、妹とはいえどクロは思わず顔を真っ赤にして顔を逸らしてしまう。
しかし、そんな反応はアイリスにとってはご褒美だったわけで。
微笑を浮かべてクロへとそっと体を寄せた。
「兄様の中の定義で言うのであれば「身内なので問題ない」ですよ。兄妹間のスキンシップなど、全人類一度は通る道です」
「分かった、俺が悪かった君は義理だ書類上だけの身内で立派な異性なのだから出ていってくれないかなぁ美少女ちゃん!?」
「嫌です♪」
「ちくしょう、認めてもダメだとか……ッ!」
どう転んでもアイリスは湯船から出ていってくれないようだ。
「それで、兄様。大好きな至福の一時に顔を顰めていかがなされたのですか?」
アイリスがクロの見ていた書類を覗く。
無防備な首筋がクロの目の前に現れ、一瞬だけドキッとしてしまう。
しかし、そんな様子を悟られないようにすぐさま答えた。
「仕事だよ、魔法士団としての」
「なるほど、隠す気はもうないのですね」
「誰かさんのおかげで取り返しのつかないところまできたからな」
そろそろお面を外してもいいのかもしれない。
クロは無駄な足掻きになってしまっているようで、今後のことを考え始めた。
「……アイリスは聞いたことないか、誘拐事件」
「あぁ、巷で『楽園』と呼ばれている案件ですね」
「『楽園』?」
聞いたことのないワードに、クロは首を傾げる。
「王国内で度々発生している誘拐事件……どちらが真実とは言い切れませんが、誘拐だと称しているのは大人達だけなのですよ」
「子供達は違う、と?」
「すべてを聞いたわけではないですが、いなくなった子供は「楽園に誘われた」と、子供達は口々に言っております」
情報通のアイリスだから知っている話なのか。
クロが情報屋からもらった書類にはそのようなことは書かれていなかった……いや、そういえば。聞き込みの中にそのようなワードがあったような気がする。
(よく分からないからスルーしていたが、まさか重要ワードだったとは)
どうして大人達に、子供達に限定されているのかは分からない。
あまりに範囲が大きいため、いなくなった人間の親族を限定に聞いていたからそこまで手が回らなかった。
クロは「まだまだ」だな、と。悔しそうに頭を掻いた。
「その話、詳しく」
「といっても、ここまでですよ。所詮は子供達の話……外野から面白おかしく歪曲しただけなのかもしれません」
伝言ゲームが徐々に肥大化していくように。
昔のちょっとした話が英雄譚になってしまったように。
自分とは関係ない誰かが少しは面白い話になるよう手を加えただけ。
アイリスはどうやらそのように解釈しているみたいだ。
「実際のところ、被害はいかがなものなのですか?」
「数自体は少ないが、頻度が多すぎる。隣の領地で昨日も一件あったみたいだ」
「……手がかりは」
「あったら、魔法士団が動く前に自警団や騎士達が解決しているだろうさ」
つまり、未解決で解決できそうにないから魔法士団にまで話が挙がった。
一件で攫われる人数は一人と少ないものの、頻度がこのまま刻まれていけば被害者も大きくなる。
早いうちに止めなければいけないのは間違いなくて。
クロは少しばかりの焦りを滲ませたまま腰を上げ、湯船から出ると体を洗おうと桶の上に座った。
すると―――
「私は兄様のためなら協力を惜しみませんよ」
桶に座ったクロの頭を、そっとアイリスが触れた。
「……別に背中は流さんでいいのに」
「ふふっ、これぐらいさせてくださいな」
あとを追いかけたアイリスは洗剤を手にして、クロの髪を洗い始める。
「先程も申し上げましたが、私は兄様のためであれば協力は惜しみません。アカデミーの生徒会長のポジションであれば、情報は集めやすいと思います」
「ありがたいが、やめておけ。子供が気にするようなことじゃない」
「子供が攫われているのに?」
「解決するのは大人の役目だっていう話だ」
安易に手を出して、アイリスまで被害に遭ってほしくない。
クロはそう、冷たく突き放すようにアイリスへ言い放った。
しかし、アイリスはクロの背中へと抱き着き―――
「……兄様は相変わらずお優しいですね」
「お、おいっ! アイリス―——」
「兄様がそう仰るのであれば、無理にとは言いません。私とて、兄様を困らせたくはありませんから」
しかし、と。
アイリスはクロの耳元でそっと口にした。
「兄様が疲れた時は、私が寄り添ってさしあげます。それなら、文句などないでしょう?」
気遣った上で、支えてくれる。
先程まで焦りが内心で滲んでいたからか、妹のこの言葉は妙に胸に沁みた。
わざとなのか、それともたまたまなのか。
恐らく前者だろうな、と。クロは苦笑いを浮かべた。
「お前の将来の旦那さんは幸せ者だろうな」
「であれば、兄様はこれからも幸せ者なのでしょうね」
「……ツッコミは入れないからな?」
つれない兄様、と。アイリスはクロの髪を洗い続ける。
妙に心地よい感覚。
クロはアイリスに身を任せるように、なすがまま頭を預けて口元に笑みを浮かべたのであった。
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