白熊と小麦のお姉さん 後編
ヴァレンティノの提案にキアーラは困惑したが、その後両親とも十分話し合ってその計画を実行してみることとなった。そしてその数日後から、キアーラの店のシャッターが開くことはなかった。
ある日の開店作業中。
「アルロ、例の物はできてるか?」
ヴァレンティノがそう投げかけると、アルロは数枚のポスターらしきものを壁に貼り付けた。そしてレストランリモーネはいつも通り開店した。
「いらっしゃいませ。2名様ですね。こちらへどうぞ。」
一組の夫婦がテーブル席へと通された。
「今日は何を食べようかしらね。」
グレーヘアがおしゃれな婦人は席につくと、メニューを手に取りパラパラと捲り始める。
「おや?」
その時一緒に来ていた黒いハットの紳士が壁に貼られた一枚のポスターに気付いた。そのポスターには『リモーネの小麦の秘密』の文字。紳士はよくよくそのポスターを読んでみた。
「なになに、なるほど。ここの小麦はかなりこだわりがあるんだな。通りで美味しいわけだな。」
紳士はポスターを読みながら納得したように頷いた。
「私はパスタにしよう。」
紳士は即決した。
約一時間後、おしゃれ夫婦は会計をしに席を立った。
「ちょっといいかね。」
黒いハットの紳士は会計に立つビアンカに声をかけた。
「あのポスターを見たのだがね。ここで使っている小麦は香りも良くて特別なものらしいな。私は趣味で料理をやっていて友人に振る舞うことがあるんだが、どこで買えるのか教えてもらえないかね?」
ビアンカの目がキランと光った。
「少々お待ちいただけますか?確認してまいります。」
ビアンカはキッチンへ向かうと、ヴァレンティノに小声で何かを伝える。紳士はその様子を目で追っていたが、一瞬ヴァレンティノの目がギラっと光った気がして急いで視線を逸らした。
「お客様。」
ヴァレンティノはキッチンから出て紳士に話しかけた。
「大変申し訳ありませんが、うちで使っている小麦粉は専売農家から買っておりまして…。」
ビアンカも畳み掛ける。
「本当にいい小麦粉なんですけどね…本当に!売って差し上げられないのが残念です…。」
なんという猿芝居。アルロとルッカはキッチンからその様子を生暖かい目で見守っていた。
「そうなんですか…それは残念だ。」
紳士はそう呟くと、会計を済ませ店を後にした。
「またのお越しを!」
三頭とビアンカは夫婦の背中を見送った。
「これで上手くいくのか?」
アルロは半信半疑だ。
「まあ見てろ。人間の性ってもんを理解していれば簡単なことだ。」
ヴァレンティノは自信満々に鼻を鳴らした。
その後もリモーネでは数組の客から小麦粉についての問い合わせがあったが、その度に三頭とビアンカが変わるがわる大きな声で“残念そうに”しながら断るという流れを繰り返した。
その二週間後、キアーラは店にあった荷物をまとめ荷車に積んでいた。ついに市場の店を完全にたたんで田舎の方へ引っ越すことになったのだ。
「ふう。これで最後かな?」
キアーラがこの市場に店を出して今年で10年目。キアーラは大量の小麦を荷車に積んで、初めてこの市場にやってきた日のことを思い出していた。キアーラは最後の大きな荷物を持ち上げようとしゃがんで、よいしょという掛け声と共に持ち上げた。
「重い物持つなって言わなかったか?」
突然背後から野太い声が降ってきて、キアーラは荷物を勢いよく床に置くことになった。
「わ!びっくりしたー!」
声の主はヴァレンティノ。アルロとルッカも一緒だ。ヴァレンティノが目配せすると、アルロが床の荷物をさっと取り上げ外の荷車に乗せた。
「皆んな!来てくれたんだね!」
キアーラは嬉しそうに三頭の顔を見回した。
「この店が無くなるのはなんだか寂しい気もするなあ。」
ルッカはがらんとなった店内を見回した。
「ああ、今日で引き上げるよ。」
キアーラは笑ってはいるが、なんとも言えない表情でそう告げた。
「…そうか。あとは俺たちに任せろ。」
ヴァレンティノはキアーラの肩に手を置いた。
「最後までお世話になっちゃった。本当に色々とありがとう。」
キアーラは店のシャッターを閉めると三頭に深々と頭を下げた。
「最後?これからが本番だろ。お前は生産と品種改良とやらに集中しろ。」
ルッカはキアーラの額をビシっと弾いた。
「いだ!」
キアーラは額を押さえルッカをじっと睨んだ。
「すぐ物の取り立てに行くからな。準備して待っとけ。」
ヴァレンティノは葉巻をふかしながら飄々としている。キアーラは三頭の顔を見回してニカっと笑った。
「じゃあまた!みんな元気でね!」
キアーラは三頭に向かって大きく手を振って、荷車を引いて出発した。
「おう、元気でな。」
「両親によろしく伝えてくれ。」
「またな。」
三頭は口々に挨拶すると、キアーラの背中を見送った。
暫くの後、
「…あいつ、大丈夫か?」
「大丈夫じゃなさそうだな。」
「ああ。」
キアーラは山のように荷物が積まれた荷車を一生懸命に引っ張るが、緩やかな坂になっているためかなかなか進まないようだ。
「…ぐっ!くっ!…はあ、だめだ。」
キアーラは一度荷車から手を離し、店を仰ぐと呼吸を整え再び荷車を押し始めた。ぎいぎいと音を鳴らしながら荷車はゆっくりゆっくり進む。その時、荷車が急に鉛のように重くなった。
「…わ!?」
キアーラは何事かと、はあはあ言いながら後ろを振り返ると大きな白熊が荷台にドンと座っている。
「え!?」
キアーラは何が起きたのか分からないというような表情をしている。
「日が暮れる。」
荷台に乗っていたのはアルロ。
「荷物はそいつに任せろ。」
「アルロー、後は頼んだぞー!」
ヴァレンティノとルッカがそう呼びかけると、二頭の影は手を振って帰り始めた。
「…行くぞ。」
アルロは荷台から降りキアーラの掴んでいる荷車の取手を奪うと、軽々と坂を上り始めた。
「あ!待ってよ!」
キアーラは真っ直ぐに前を見ながら荷車をひくアルロの横に立ち、その横顔を見上げ、笑った。
その翌週からリモーネのレジ横にある商品が並ぶようになった。ポップには『数量限定 リモーネの小麦粉』の文字。キアーラの作る小麦粉は『リモーネ』そして『専売品を限定で』というブランディングで販売されることになったのだ。その小麦粉は客の間で瞬く間に人気の商品となり、数量限定のため売り切れ状態が続いた。
「買えないと言われると買いたくなる。手に入りづらいと言われたら手に入れたくなる。これが人間の性だ。」
ヴァレンティノは得意げに鼻を鳴らした。
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