リモーネ、新しい風。前編
「お、おはようございます。」
時刻は午前8時半頃、ビアンカは恐る恐るリモーネの入り口に手をかけた。
「おお、早いな。」
ヴァレンティノはキッチンで今日の開店準備をしながらビアンカに投げかけた。
「いいところに。ビアンカ、ちょっとこれ冷蔵庫に入れといてくれ。」
ルッカはソーダ瓶が何本も入った籠を冷蔵庫の前にどかっと置いた。
「は、はい!」
ビアンカは急いで冷蔵庫へ向かい巨大な戸を開けた。冷蔵庫の中には下処理した食品や冷やされたドルチェなどが並べられていた。ビアンカはソーダの瓶を手に取ると、冷蔵庫の空いているスペースに瓶を並べていった。
「怪我の具合はどうだ?」
ヴァレンティノは調理をしながらビアンカに投げかけた。ビアンカの顔や背中、腕にはまだ痛々しい程のあざや傷が残っていた。
「大丈夫です。手だけは死守したので。あの、ありがとうございました。」
ビアンカは作業をやめて深々と頭を下げた。
「何がだ?」
ヴァレンンティノは飄々と答える。ビアンカは手に持った瓶を見つめながら、この店にメニューを盗みに来た日のこと、昨日アドリアーノのオーナーと言い争った時のこと、そして三頭の白熊が助けに来てくれた時のことを思い出していた。
「皆さんが助けてくれました。」
ビアンカは少し複雑そうに、微笑んだ。
「助けた?店潰されたのにか?」
ヴァレンティノはわざと驚いたように返した。
「そうだぞ。うちのオーナーはこき使う気満々だ。」
ソーダ瓶が入った籠を持って再びキッチンに現れたルッカは、にやにやしながらビアンカに近づいてきた。
「出勤早々こき使ったやつが言うな。」
テーブルのセッティング中だったアルロが台拭きを持ってキッチンへと入ってきた。
「…!」
ビアンカは三頭の顔を見渡した。
「今日から、よろしくお願いいたします!」
ビアンカは深々と頭を下げた。
「オープンの11時まで少し時間がある。一通りの流れを教えるが、まあお前ならある程度は分かるな?」
ヴァレンティノは一枚のメモをビアンカに示した。ビアンカはメモを受け取り、ざっと目を通し始めた。
「オーダーの取り方や配膳、会計なんかは分かると思います。調理に関しても一度食べればできると思います。」
ビアンカはメモを読みながらそう口にした。
「一回食べればって…どういうことだ?」
ヴァレンティノは問いかけた。
「私、一度食べればどんな料理でも、材料や調理法まで分かってしまうんです。それで今回のオーナーの件も…。」
ビアンカが尻窄みにそう伝えると、
「すげえ。」
「なんだその能力。」
「羨ましいな。」
三頭は口々に彼女の能力を賞賛した。
「なので、もちろん調理工程を教えていただければ理解できますし、工程を説明するのが面倒なときは味見させてもらえれば調理もできます。」
ビアンカの頼もしい言葉に、三頭の頭には一様に『休める!』というワードが浮かんでいた。
「じゃあメニューを覚えるまでは基本的にホールで、追々調理も頼む。」
ヴァレンティノはビアンカに指示した。
「はい!」
ビアンカは元気に返事をした。
時刻は11時。
「そろそろ時間だ。開けるぞ。」
ヴァレンティノの言葉を合図に、ドアにかかるロールカーテンが上げられた。
「ビアンカ。俺たちが客を入れるから水とおしぼり頼めるか?あとオーダーも。」
ヴァレンティノがオーダー用紙を渡しながらそう指示すると、
「はい。」
ビアンカはやや緊張気味に返事をした。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ。」
「二名様ですね。」
三頭は次々に客を店内に案内する。
「ご注文お決まりの時にお声がけください。」
ビアンカは水とおしぼりを配って回り、客に丁寧に声をかけた。
「すみません。注文を。」
入り口に近いテーブル席に通された老夫婦から声がかかった。
「はい!」
ビアンカは元気に返事をし、老夫婦の元に向かった。
「レモンリゾット二つちょうだい。」
老夫婦はビアンカに申しつけた。
「リゾットお二つですね。少々お待ちください。」
ビアンカはオーダーを取るとキッチンへと向かった。
「リゾット二つ!一番卓です。オーダー表ここに貼っておきます。」
ビアンカは手慣れた様子でヴァレンティノに伝えた。
「…はいよ。」
ヴァレンティノがなんだかげんなりしている理由まではビアンカには分からなかった。そこから次々に注文が入ったが、経験者のビアンカは難なく捌いていった。
「レモンピザと食後にレモンソーダ。カウンターの三番さんです。」
「レモンパスタセットと食後にレモンジェラート。テラス席一番さんです。」
「ビアンカ、手が空いた時にこれ持って行ってくれ。4、7、8番卓な。」
ルッカはビアンカに三席分のドルチェの乗った銀のトレーを渡した。
「はい!」
ビアンカは渡されたトレーを担いでホールへと向かい配膳を済ますと、さらには別の席のオーダーも取りに向かった。
開店から二時間ほど経った頃、ランチタイムのピークはやや過ぎた。
「アルロ、先に休憩しろ。ビアンカ、アルロのカバーできるか?」
ヴァレンティノは賄いをアルロに手渡しながらビアンカに投げかけた。実際、ビアンカという強力な助っ人が加わったおかげで余裕ができ、三頭は休憩を取る時間ができたのだ。
「ドリンクだったらカプチーノとレモンソーダなら出せます。」
ビアンカの答えに、アルロは上等だ、と鼻を鳴らし休憩に入った。
「ビアンカ。早速カプチーノ二つ、六番卓な。」
ルッカが注文票をひらひらとさせながらビアンカに伝えた。
「はい!」
ビアンカはチャキチャキとコーヒーカップを準備し始めた。実際、ビアンカのカプチーノを入れる手つきは非常に手慣れていた。その後もレモンソーダの注文が何件か入り、フロアでの配膳や食器の片付け、客の見送りと共にてきぱきとこなすのであった。
そこからさらに30分ほどした後、ビアンカに休憩の番が回ってきた。
「ほらよ。休憩入りな。」
ヴァレンティノはビアンカにトレーを渡した。
「わあ。ありがとうございます。」
本日の賄いはレモンフォカッチャのピザ風と野菜スープ。
「今は落ち着いてるから好きなとこ座っていいぞ。」
ビアンカはバレンティノの言葉に甘えることにした。ビアンカはトレーを抱えてキッチンを出て、今はガラ空きのカウンター席へと向かった。
「よいしょ。」
ビアンカはトレーをテーブルに置き、少し高めのカウンターチェアに腰掛けた。
「いただきます。」
ビアンカはトマトやブロッコリーの乗った丸いフォカッチャを手に取り齧り付いた。
「美味しい。」
ビアンカは無意識のうちにそう溢していた。実際、何度かリモーネに来ていたが、レシピを覚えるのと、罪悪感とで料理を楽しむ余裕なんて彼女にはなかったのだ。ビアンカは野菜スープを啜りながら周りで食事を楽しむ客をゆっくりと見回した。皆一様に笑顔だ。
「…。」
ビアンカは腕にできたどす黒い痣を黙って見つめた。ビアンカの胸には、アドリアーノにまだ前オーナーがいた時のことが思い出されていた。前オーナーは人思いで、しっかりと『料理』と向き合うシェフだった。ビアンカはヴァレンティノの作った賄いを一口、また一口と噛み締めながら、アドリアーノでの思い出と共に飲み込んだ。
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