ルッカ、レモンを煮る。
ルッカはドルチェの担当を任されてから、せめて一品でも作れるようになろうと、ベネチアのドルチェリーアを回ったり本を読んだりしていた。そして、そこで見つけたフルーツタルトを作ってみることにしたのだ。しかし、ドルチェは専ら食べる専門であった彼は、早々に苦戦した。
「無塩バター…普通のバターじゃないのか?」
ルッカは手元の料理本とバターの箱を見比べ、小首を傾げながらぶつぶつと呟いた。よく分からないけど、とりあえずやってみよう精神で、ルッカは大きなボウルにバターの塊をどんとだした。
「そして、これに卵黄を加えて混ぜる。…卵黄?黄身だけってことか?」
ルッカの知識はそのレベルであった。ルッカは小さな卵を握りつぶさないようにそっと持つと遠慮がちに台の角にぶつけ、お皿に割り入れた。ルッカは引き出しを漁り、両手にスプーンを持った。
「めんどくせえ。」
ルッカは文句を言いながら、震える二本のスプーンで黄身だけを器用に挟み、ゆっくりとボウルに移した。図体のでかいルッカのその姿は、まるで爆弾処理班のようであった。
「はあ。ドルチェ作りってこんなに大変なのか?」
ルッカは腕で額を拭った。そして、ルッカはそのボウルに小麦粉を計り入れ、ゴムベラで混ぜていく。
「で?次はどうするんだ?」
ルッカがレシピ本を読み進めた先には「生地を一時間寝かせる」の文字。
「は?寝かせる?」
ルッカはげんなりした。ドルチェ作り初心者というよりも料理初心者のルッカに、そもそも食べ物を寝かせるという概念はなかった。
「寝かせるってなんだ?」
ルッカは何度となくその文字を読み返し、先ほどまでボウルで混ぜていた生地を、とりあえずラップで包んでみた。そしてその生地を持って三階の自室へと入っていった。程なくしてキッチンへ戻ってきたルッカは、レシピ本に目を通す。
「あと作るものは、フィリング、ジャム、トッピングか。…フィリングってなんだ。」
ルッカはため息をつき、レシピをよくよく見てみる。必要なものを確認すると、一通りの材料を棚から引っ張り出した。
「えーと、ボウルに溶かしたバター、砂糖、卵、牛乳を入れて混ぜる、か。」
ルッカはバターをレンジで温め、目の前にあった粉のついたボウルをさっと洗うと、材料を入れかき混ぜた。そして、レシピを読み進める。
「混ざったら、コーンスターチ…。」
と呟くと、ルッカが持つと怪しくなりがちな白い粉をボウルにざっと入れ、さらに混ぜていく。フィリングを作り始めてからここまででざっと十分ほど。
「次は、フィリングを生地に流し入れて焼く、と。」
ルッカは少し考え、階段をちょっと見やり
「あいつまだ寝てるぞ。」
と呟いた。ルッカは生地を起こすにはまだ早いと考え、フィリングを冷蔵庫にしまうと、トッピングを作ることにした。
「ここからはレシピなしだ。」
ルッカの持っていたレシピはフルーツタルトのもの。店のオリジナルのものとなると自力でなんとかするしかない。そこに、買い物から帰ったヴァレンティノが荷物を持って現れた。
「やってるなあ。」
ヴァレンティノは食材を冷蔵庫にしまいながら投げかけた。
「こいつ、めちゃくちゃ手間がかかる奴だ。」
ルッカは首を振りながらレシピを指した。
「手間のかかる女ほど可愛いだろ。」
ヴァレンティノはレシピを眺めながら、にやっと笑うと、違いねえとルッカも悪い笑みを浮かべた。
「だが、ここからは自力でなんとか仕上げるしかねえ。」
ルッカが肩をすくめると、料理好きのヴァレンティノは少し考えてから、
「レモンカードを塗って、その上に煮詰めたレモンを乗せたらうまそうだな。」
と呟いて、自室へと去って行ってしまった。暫くの沈黙の後、
「何のカードだ?」
ルッカの言葉がしんと静まるキッチンに響いた。
ルッカは自室のベッドでゆっくりと寝かせた生地を持ってキッチンへと現れた。
「で、次は?」
レシピ本には、綿棒での成形後、タルトの型に沿って手で平すとあった。ルッカは引き出しの中を漁り、綿棒を取り出すと生地の上に当て転がした。生地は少しずつ丸く、薄く伸ばされていく。頃合いを見てラップから生地を取り出すと、バターを塗ったタルトの型に生地を押し付けた。
「合ってるのか?これ。」
掌できゅっきゅと押していくと、生地は型にピッタリとおさまった。
「おお。それっぽくなったな。次は?」
ルッカはレシピのその先の文字を読んで長いため息をついた。そこには「フォークで穴を開け、冷蔵庫で一時間寝かせる」との記述。
「おい、寝すぎだろ!」
ルッカは生地に向かって凄み、舌打ちした。そして引き出しの中からフォークを取り出すと、
「くそ。本当に…!」
と毒吐きながらぷすぷすと刺した。ひとしきり生地をめった刺しにすると、生地を冷蔵庫へと押し込む。
「一時間か…」
そう呟くと、時計を睨み、二階へと階段を登り南側の部屋の扉を開けた。
「おい、ヴァレンティノ。さっきの何のカードか教えろ。」
突然のルッカの言葉に、窓辺で葉巻をふかしていたヴァレンティノは呆然としている。
「あ?何の話だ?」
ヴァレンティノは怪訝そうに投げかけた。
「さっき言ってただろ!何とかカードって。」
ヴァレンティノはさっきの会話を思い出すと、真剣に考えているルッカを見て吹き出した。
「…くくっ」
「何だよ。」
ルッカは眉間に皺を寄せ、低い声で吠えた。
「レモンカードのことか。」
ヴァレンティノはくつくつと笑いながら、机にあった紙と万年筆を手に取り、何かをメモしだした。
「これがレモンカードだ。味見ながら分量は自分で調整しろ。」
ルッカはメモを受け取ると、ヴァレンティノを不機嫌そうにちょっと睨み、部屋を出ていった。
ヴァレンティノのレモンカードのレシピはシンプルなものであった。
「砂糖、無塩バター、卵、レモンの皮を湯煎で温め、混ざったら火にかけて混ぜながら煮詰める、か。」
ルッカは棚から二つのボウルを取り出し、砂糖、バター、卵を入れたところであっと声を上げた。
「熱湯がいるのか。」
ルッカはコンロに置かれていたケトルを手に取ると、水を入れ火にかけた。
「なんか効率よくいかねえな。」
ルッカは呟くと、冷蔵庫の中から一個のレモンを取り出しじっと見つめた。
「皮を削ればいいのか。」
ルッカは引き出しの中をがしゃがしゃと漁り、ゼスターを引っぱり出した。そして、レモンを掴むと器用に皮を削り出した。
「おお、チーズみたいに削れるんだな。」
ルッカは感心したように頷き、削れた皮をボウルに入れ混ぜた。その時、ケトルからピー!という音が鳴り響いた。ルッカはよし、と頷くと空のボウルにお湯を張って、材料の入ったボウルをその上に浮かべた。
「これを混ぜて、鍋で火にかけるのか。…最初から鍋でやったらダメなのか?」
ルッカは文句を言い、やれやれと思いつつ、律儀に工程を守るのだった。
ようやく生地が一時間の睡眠から戻ってきた。ルッカは冷えた生地を作業台に乗せると、先ほど同じように冷やしていたフィリングを流し込んだ。
「で、これを焼くのか。あ…。」
ルッカはレシピをちょっと見やると盛大にため息をついた。完全に「余熱」という存在を忘れていたのだ。ルッカはややイラついた様子でオーブンの余熱を始める。その時、皮を削られ白くなったレモンが視界に入った。
「先にこれやるか。」
ルッカはナイフでレモンをスライスし、小鍋に投げ入れると、何となく視界に入った二つの材料も投げ入れた。そして、先ほど用意したレモンカードと二つ鍋を並べて火にかける。予熱が終わったオーブンからはじりじりと熱が発せられている。ルッカはタルト生地にフィリングを流し込んだものをゆっくりと持ち上げ、灼熱のオーブンの中に置いた。
「えーと、35分。」
今のルッカには、35分は最早短く感じた。そこからは小鍋二つを器用にかき混ぜながらふつふつと煮詰めていく。
「こっちはもうは良さそうだ。」
ルッカはレモンカードの小鍋を火から上げると、爪先でちょっと掬い上げて舐めてみた。
「おお。うまいな。」
ルッカは少し嬉しそうに頷くと、輪切りレモンの小鍋をくるくるとかき混ぜた。
オーブンから焼き上がりの音が響いた。ルッカはオーブンの方へ向かうと、ゆっくりと扉を開ける。そこにはこんがりと焼けたフィリングが、何とも香ばしく甘い香りを発していた。
「おお。」
ルッカは感嘆した。その辺にかかっていたヴァレンティノの鍋つかみを装着すると、慎重に生地を取り出し、台の上に置く。
「上出来だ。」
ルッカは熱々の生地を型から外そうとしたが、火傷するほど熱く暫く放っておくことにした。そのうちに、煮詰めていた輪切りレモンがいい感じに煮詰まった。ルッカは小鍋を火から下ろすと、小さな輪切りレモンを爪先で摘み、少し冷やした後口に放った。
「ドルチェってのは、とりあえず無塩バターと砂糖入れときゃ何とかなるんだな。」
ルッカはうんうんと頷きながら満足そうに呟いた。辺りにはレモンの甘酸っぱい香りが充満していた。
「まだ熱いのかよ。」
ルッカはオーブンから取り出して少し置いた生地を触ってぶつぶつと呟いた。ルッカは一度キッチンを出ると、対面しているカウンターに座り、頬杖をつきながら生地が冷えるのを待った。
そこから十分ほど経って生地はようやく落ち着き、型から綺麗に外れた。
「仕上げといこう。」
ルッカは小さなスプーンを手に取り、焦げ目のついたフィリングの上にレモンカードを塗り広げた。そして小鍋からレモンの輪切り摘みだし、綺麗に並べていく。
「…できた。」
ルッカはようやくレモンタルトを完成させた。出来上がったタルトを両手で慎重に持ち上げると、その輝くレモンの艶やかさに見惚れた。
「本当に女みてえだな。食べちまうのがもったいねえ。」
ルッカは片眉を上げ、ふっと笑った。
後日卵黄の取り出し方をヴァレンティノに笑われちょっと喧嘩になったのはまた別のお話。
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