ヴァレンティノ、レモンを絞る。

 ヴァレンティノは早朝、一人市場へと向かった。朝の市場は活気があり、野菜や果物、魚に肉などを乗せた荷車が所狭しと並べられている。ヴァレンティノは悠然とした足取りで人々が買い物をする間を抜けていき、ある店の前で足を止めた。

「いらっしゃい。」

若い女店主は強面の大きな白い熊に向かって挨拶する。ヴァレンティノは黙ったまま、荷車の商品を品定めし、樽に山のように盛られた小麦粉を指差した。

「これ、30kg頼む。」

若い女店主ははいはいと返事をすると、バケツのようなもので小麦粉を掬い、布袋に入れていった。辺りには小さな小麦の粒子が飛び、いい香りが漂った。

「はい、40ユーロだよ。」

若い女店主は金を受け取ると、30kgの袋を持ち上げようとした。しかし、その袋はなかなか上がらず、ちょっと待ってくださいね、などと言い苦戦している。ヴァレンティノは若い女店主の様子をじっと見ていたかと思うと、いつの間にか荷車の裏手にまわり、布袋を掴んでしゃがみ込む彼女の背後にぬっと立っていた。

「わっ!」

若い女店主は自身を覆う影に振り返りその顔を見上げると声を上げた。不機嫌そうな顔がゆっくりと近づいてくる。

「…!」

若い女店主は目を瞑り身構えた。ヴァレンティノは若い女店主の背後にしゃがむと、その布袋を片腕で簡単に引っ張り上げ、肩に担いだ。若い女店主は目を開き呆気に取られている。

「ありがとな。また来る。」

ヴァレンティノは後ろでに片手を上げ、そのまま店から出て行ったのであった。


 その日の午後、買い出しを一通り終えたヴァレンティノはキッチンで作業を始めた。大きめのボウルに小麦粉とドライイースト、塩を入れ軽く振り混ぜる。ヴァレンティノは後ろの棚の中から二つの瓶を取り出した。一つは白ワイン。栓を開け一口煽るとはあと息を吐き、瓶を傾け少量ボウルに溢した。もう一つの瓶はエクストラ・ヴァージン・オリーブオイル。蓋を開けて香りを嗅ぐ。オリーブの爽やかな緑が鼻をくすぐった。ヴァレンティノは白ワインの半量ほどのオイルをボウルに垂らすと、ゴムベラで混ぜ合わせる。そこで、引き出しからあるものを取り出した。それは透明のビニール手袋。どこの会社が作っているのかは知らないが、そのビニール手袋は彼の手のサイズ、形にぴったりであった。ヴァレンティノは両手に手袋をきゅっとはめると、ぼそぼその生地をボウルの中でこね始めた。生地はだんだんと粉っぽさがなくなり一つの塊になっていく。ヴァレンティノは頃合いを見て捏ね台に生地を移し、生地をぐっと伸ばしては畳みを繰り返してゆく。その手つきはまるで職人のようであった。しばらく生地を捏ねたのち、ヴァレンティノはその生地をぽふぽふと丸めると、ボウルに入れラップをして陽の当たる窓辺に置いた。ヴァレンティノは両手の手袋をぽいと外すと、店の奥のソファ席にどかっと座った。ソファ席には暖かな陽射しが差し込んでいる。ヴァレンティノは街ゆく人々に視線を投げながら、暫し葉巻の煙を楽しんだ。

 暫くした後、ヴァレンティノは生地の様子を確認し、くつくつと小さく怖い笑みをこぼすと、オーブンの余熱を開始した。ブーンという小さい音がキッチンに伝わった。次にヴァレンティノは冷蔵庫の中を漁る。その掌にはぴかぴかと光り輝くレモンが一個握られている。ヴァレンティノは慣れた手つきでレモンの皮をゼスターでおろし、小皿に取り分けた。一通り皮をおろし終えると、半分に切って、ガラスボウルの中でそのレモンを絞った。レモンは瞬く間にその形を失い、果肉と果汁がボウルの中にぼたぼたと溜まっていく。次にヴァレンティノは、窓際で待機している生地の入ったボウルを手に取り、台の上に置いた。ヴァレンティノは引き出しを漁り、例の手袋を装着すると、オリーブオイルを手にこぼす。そして、あたりをちらっと警戒した後、大きく膨らんだ生地のふにふにとした感触を楽しんだ。心なしか、ヴァレンティノの表情はいつもより明るい、気がする。暫くの後ヴァレンティノは生地を数等分に器用に分けていく。むちっと音がしそうなほどに伸ばされた生地は千切れ、小さな塊になっていった。

「よし、あと少しだ。」

ヴァレンティノは呟き、生地の成形へと移る。小さな塊となった生地を一つ手に取ると、手のひらの上で円盤のように伸ばし、クッキングシートを曳いた角皿に一つ一つ並べていく。生地を全て並べ終わると、ヴァレンティノはにやりとした表情で、指を一本目の前に立てた。そして、先ほど並べた生地に視線を落とし、

「蜂の巣にしてやるぜ。」

と小さく呟くとぷすとその指を突き立てた。生地は一度ぎゅむっと彼の指を飲み込み、ゆっくりと跳ね返す。ヴァレンティノが愉快そうにその動作を繰り返すと、並べられた生地にはいくつかの凹みができた。

「…ふん。」

ヴァレンティノは得意げに鼻を鳴らすと、その凹みにオリーブオイル、岩塩、ローズマリー、そして先ほど絞ったレモンの果肉をたっぷりとかけていく。ヴァレンティノの背後では、予熱の終わったオーブンが熱気を発している。ヴァレンティノは角皿を手に取り、オーブンを開けると、オレンジ色に灯る庫内に生地たちを押し込んだ。

「あばよ。」

ヴァレンティノは低く響く声でそう告げると、オーブンの扉を閉め、ダイヤルを回し、ご機嫌な様子でキッチンを後にするのだった。

 十数分ののち、そのオーブンの扉はゆっくりと開けられた。そこから小麦の香ばしさとレモンの爽やかな香りがキッチンに広がった。

「上出来だ。」

ヴァレンティノは何やら可愛らしい鍋つかみをした手で角皿を取り出し、台の上に置いた。そこでヴァレンティノは何かを思い出したかのようにあっと声を上げた。

「こいつを忘れちゃいけねえ。」

ヴァレンティノは小皿に取り分けられたレモンの皮をぱらぱらと器用にふりかけ、満足げに鼻を鳴らした。


 こうしてレストラン リモーネの看板メニュー「仕立て屋のフォカッチャ」もとい、ヴァレンティノのレモンフォカッチャが完成したのであった。

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