第4話
そう。私はあのアパートに行くのが恐かった。不覚にも『北川凍矢でもいいから来てほしい』と思ってしまった。誰かと一緒だからってどうにかなるものでもないのに。
北川凍矢が「どの物件? 俺にも資料見せてよ」と言う。私は敗北感をたっぷりと味わいながら『有』フォルダの例のアパートの間取り、写真、情報をパソコン画面に開く。北川凍矢は画面を見て聞いた。
「ねえ、このフォルダ名ってどうして『有』なの?」
「私的にアリな物件なんです」
私が棒読みで答えると、北川凍矢がにやにやとまた意味深な笑みを浮かべた。
約束の時間より十分ほど遅れて、中年女性が息子を連れて現われた。四月から大学生になる息子にアパートを探しているという。
「もう四月なのにのんびりしまって」と、母親がハンドバッグからハンカチを取り出して汗を拭く。母親に体重で負け身長で勝る息子は、インターネットで物件を見て、今日内見して特に問題がなければ即入居を希望していた。
親子と私は、北川凍矢の運転で例のアパートに向かった。並木道を抜け隣駅付近の現地まで約十分で到着した。母親と息子が車から降りてあたりを見回す。静かだ。アパートと戸建てが入り混じる普通の住宅街。目立ったものは特になく、平日の昼間で人通りもほとんどない。遠くで微かに電車の音が聞こえる。
「電車の通る音、中に入ればあんまり気にならないわね」
キッチンで母親が太く柔らかい声で言い、カーテンのない窓の外を見ていた息子が応じる。
「母さん、それは今電車が通っていないからだろ?」
「あらいやだ、それもそうよね」
ふふふと笑う母親。しょうがないな母さんはと呆れ顔の息子。仲の良さそうな親子だ。瘴気に満ちたこの空間でも見えない人にとっては影響がないらしい。私のように蒼褪めることも、眩暈がすることも、吐き気がすることもない。親子がキッチンの使い勝手を確かめている間、私は立っているのがやっとだった。
「顔色が悪いね」
突然、背後から耳元に囁かれてぞわりと寒気が走った。
振り向くと北川凍矢が鼻で笑った。
「顔面蒼白なんて言葉があるけどさ、人の顔ってそこまで蒼くなるものなんだね。まるで幽霊みたいだ」
北川凍矢は控えめにくつくつと笑う。
そんなこと言われても、今、冗談に付き合っている余裕はない。親子はキッチンを見終わり、次の部屋に案内されるのを待っている。
私はそろそろと進み出て隣の部屋に通じる襖に指を掛けた。
見えない人にとっては関係ないことだ。押入れについては言葉の説明だけで済ませよう。開けなければいい。開けさせなければいい。それですべては解決する。
私は額にじっとりと汗をかきながら襖を開け放ち、愕然とした。
押入れは開いていた。
いない――
うそ…… どこかに移った……?
私はパニックに陥った。いつ、どこから襲われるかわからない。恐怖が一瞬でピークに到達した。血相を変え、あたりを警戒し、急に背後が気になって振り向いたりもした。形振りなんて構っていられなかった。私の奇妙な行動に、親子が初めて不安そうな顔をする。
私の肩に両手が乗った。私は小さく悲鳴を上げる。
「大丈夫」
今までに聞いたことのない優しい声に宥められ、ぽろりと涙が一粒こぼれた。その涙が床を打った瞬間、恐怖がきれいさっぱり消え失せた。
スパン――
すぐ傍で乾いた音がした。見ると、北川凍矢が丸めた紙で床を打ったところだった。
「すみません、ゴキブリかと思ったもので」
立ち上がって親子に向けて爽やかな笑みを見せる。
「ゴキブリ!?」
息子の顔が引きつった。母親はおおらかに「ゴキブリなんてどこにでもいるわよ」と息子の背中を強めに叩く。
「大丈夫です。床の木目がそんなふうに見えただけですから。うちの社員もゴキブリは大の苦手でして、急に取り乱したりしてすみません」
北川凍矢が私の不審な行動をゴキブリのせいにして、その場はまるく収まった。
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