第17話 戻ってきた雪玲
竹林を駆け抜けた雪玲は、小さな白狐のまま後宮の中を堂々と走っていた。
月は出ているが辺りは暗く、人気はほとんどない。小狐が走っていようが歩いていようが、誰かに見つかる心配はなさそうだ。
(地下通路は迷子になる可能性が高いけど、地上ならもうわかるもんね)
巫水にも早く会いたい。きっと待っているはずだから睡蓮宮に一刻も早く行きたいけど、その前に紫花宮で着替えを調達する必要がある。
(人間に戻ったら裸になっちゃうもの。あそこになら空き房に衣の予備があるはず)
こっちが近道かな、と呟きながら走っていると目の前に見慣れない宮が現れた。
(ここって……蝴蝶宮かぁ。確か雹華がいる宮だったかな。……あっ! そうだ、小狐のうちに天衣がどこにあるか見てから帰ろう)
すっかり暗くなった蝴蝶宮は灯りがぽつぽつと灯り、人気がほとんどない。侍女や下女たちの多くもすでに自分の部屋へ戻っているようだ。
宮の中に足を踏み入れると、至る所に書画や壺が飾られている。どれも逸品の品々で、崔家がいかに強大な力を有しているのかを感じさせた。
(こっちが衣装部屋かな? ……うわぁ、雹華って衣装持ちね。もしかして一回着たら捨ててるのかしら。一年間毎日違う衣を着ても大丈夫そう)
そんなことより天衣だ。
(ああいうものはきっと、こんな宝玉があしらわれた箱の中に大切に入っているんじゃないかしら)
小狐は力が弱くほんの少ししか蓋を持ち上げられなかったが、そこに天衣があることは確認できた。
(ふふふん、当たり! う~ん、ここで人の姿になって天衣を取り戻す? 衣を拝借して出て行く? ……いやいやいや、さすがに見つかるよな)
今日のところは諦めよう。
その時、奥の部屋から誰かを叱責する声が聞こえてきた。
(雹華の声だ。侍女を叱っているのかな)
見つかることがないように灯りが漏れる部屋の近くまで行き、息を潜める。
「明明、今度の奉花祭では舞を披露しなさいな」
「ひょ、雹華さま、私は舞はあまり得意では……」
「だからいいんじゃない。あなたの後に私が舞えばより引き立つでしょう? どうせ何もできないんだから少しは役に立ちなさいよ」
(……結局、仲良しにはなれなかったのね)
小狐にできることはない。それに、一生明明を
(九嬪に選ばれるくらいだし、本当は明明にも何か光るものがあるはずなのに)
いつか話せる時がきたら励ましてあげたいけど。
とりあえず、天衣は機を見て取り返そうと心に誓い、雪玲は紫花宮へと向かうことにした。
◇ ◇ ◇
「……巫水、巫水」
「ムニャ……はい、潘充儀……お腹が空きましたか?」
「ふふっ! 巫水ったら寝言言ってる」
紫花宮で衣服を纏い、すぐさま向かった睡蓮宮。目に飛び込んできたのは机に突っ伏し、見るからに
きっといつ雪玲が帰ってくるか気が気でなく、思うように眠れない日々を過ごしていたのだろう。
(……心配かけてごめんね。起こして寝牀で寝かせよう)
「巫水、そんなところで寝ると身体が痛くなるよ?」
「ん……、あ、……は、潘充儀? ……うそ、これは夢? え?」
「巫水、心配かけてごめんね。戻ってきたよ」
椅子に座ったままの巫水を優しく抱き締める。
混乱していた巫水だったが、現実であることをようやく理解できたようだ。
「あ……、あぁ……、ご無事で……潘充儀、潘充儀!」
号泣する巫水を抱きながら、雪玲は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。どれだけ心配をかけてしまったのだろう。
「ひっく、お怪我は、ひっ、んぐっ、お怪我は、ございませんか」
「大丈夫、もう傷も治ったよ」
その後、しばらく泣いていた巫水だったが、ひとしきり泣くとこうしてはいられないと立ち上がり、自分の手で自らの両頬を叩いた。
パンッ!!!
「ふ、巫水、ちょっと強過ぎるんじゃないかな? ほっぺが真っ赤で痛そうだよ……」
「潘充儀、まずはお着替えをして寝牀へ。医官を呼びます」
テキパキと動く巫水は雪玲の知っている彼女そのものだ。何だか懐かしく思いながら眺めていると、伝書鳩でどこかと連絡を取る様子。
巫水は巫水で、キラキラとした目線が背中に向けられているのを感じていた。
「巫水……! その鳩、」
「はいはい。まずは元気になられてからお教えいたしますね」
そのうち、ぞろぞろとやってきた医官にあちこちを調べられている間に
「潘充儀! 今まで一体どちらに……!?」
「心配かけてごめんね。実は……覚えていないの。気づいたら睡蓮宮の前に立っていて」
「えぇ……?」
記憶喪失か神隠しかと医官たちが真剣な顔で話し合っている。が、雪玲の顔をじっと見つめる江宦官と五虹の目線が心地悪い。
(嘘ついてごめんなさい。でも本当の事は言えないし、小狐になってたって言っても信じられないと思うから……)
確実に目が泳いでいる雪玲の様子を、江宦官と五虹は見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
大騒ぎだった睡蓮宮の様子は急ぎ北極殿にも伝えられる。
今すぐ向かうと立ち上がった天佑を影狼や一角が必死で止めおき、すぐさま報告させるという約束でこの場で待つよう説得したのだ。報告には江宦官、五虹が並ぶ。
銀の仮面も外し、いらつきが最高潮に達している天佑の前、ニ人が順に報告を行う。
「して、潘充儀の様子は?」
「医官によりますと脇腹に大きな刃物による傷があるものの、すでに傷は塞がっているそうです。内蔵への損傷は心配なさそうだと」
天佑がほっとしたのと同時に、部屋の中の空気が幾分軽くなる。
「顔色もよくお元気な様子でした。お腹が空いたとおっしゃっていましたので重湯をお出ししたところ不服そうにしていらっしゃいました」
「ふっ、菓子が食べたかったのだろう」
雪玲が言いそうだと想像した天佑の口元がわずかに上がる。
「それから……失踪した間のことは覚えていないとのことです。念のため隅々まで身体を調べましたが、刺し傷以外問題ありません。傷も丁寧に手当てをされていました」
「そうか……」
天佑の顔色を見ながら太監が進言する。
「とにかく今は休息を取らせましょう。天佑さまもひとまずお休みくださいませ」
「……あぁ、そうだな」
太監が影狼へ目配せをすると承知したと軽く頷く。
寝殿へ向かう背中に皆が一様に息をつく。
「ふう……これでようやく天佑さまもお休みになれますね……」
「ところで五虹。その、覚えていないと言うことだが、潘充儀は……」
「太監、ご安心ください。清らかな身体のままとのことでございました」
怖い思いはしただろうが、最悪の事態のいくつかは免れたようだと皆が安堵した。
「ならばこの件は何人たりとも漏れぬよう、江宦官と五虹に厳命する。事実はどうあれ、潘充儀の名誉が傷つくことがないよう心せよ」
こうして、一か月にわたり不調で寝込んでいた潘充儀は、ようやく完治して回復したことになり。
雪玲の明るい笑顔が、以前のように後宮で見られるようになったのだ。
一方で、天佑は悩んでいた。
(古書の解読のために北極殿に出入りさせ、結果的に酷い目に遭わせてしまった……。雪玲をまた呼ぶのはやめた方がいいのではないだろうか……)
天誠の身代わりをやっている以上、銀の皇帝と雪玲が接触することで、今後も後宮の諍いに巻き込んでしまうかもしれない。
だが、大っぴらに寵妃として溺愛して守ろうとすれば、天誠が目覚めた後にややこしくなる。
(……天佑として距離を詰めておくか? いや、そうしたら雪玲がふしだらな女になってしまう)
「……八方塞がりじゃないか」
「天佑さま、お考えが声で漏れてますよ」
影狼は文に目を通しながら、天佑を見ることなく諌める。
「……影狼、俺はどうしたらいいと思う?」
ぎゅっとした顔で影狼は聞く。
「それは……友として聞いているのか?」
「ああ」
そうだな、と腕を組む影狼を天佑が見つめる。
「そもそもはっきりさせたいことがあるのだが。天佑は雪玲を好いているのか? それともあの子の知識を活用したくて側に置こうとしているのか?」
「いや、俺はただ……」
「ただ何だ? 天誠さまの解毒法が見つかったらあの子を用済みにできるか?」
それは、寂しい気がする。
「天誠さまが目覚めて、俺が褒美に雪玲を下賜してほしいと言ったら祝福できるか?」
ぶわっと部屋の中の空気が重くなる。壁の向こうからカタッと物音がした。隠密が殺気の不意打ちをもらってよろけたようだ。
「……なあ、これで自覚しただろう? 羽林大将軍、龍天佑よ。おまえが両手を伸ばせば守れる者は多いと思うぞ? 後は自覚と覚悟だけなんじゃないか?」
心地よい春の陽だまりのような雪玲。一生懸命で食いしん坊で、少し常識が足りていないことは否めないが、あの純真さはどんな宝玉にも変え難いのではないだろうか。
皇族に関わることで諍いや事件に巻き込まれることもあるかもしれない。いや、そんなものからも俺が守ればいいじゃないか。
雪玲を守る覚悟。
天誠が目覚めるその日まで、大切にこの気持ちを育みながら、あいつを慈しみたい。
(……今度こそ、あいつには指一本触れさせない)
「影狼、ありがとう。太監はいるか? 明日、潘充儀を呼んで欲しいのだが」
入室してきた太監は小さな紙切れを差し出した。
「息がぴったりでございますね。返信を書かれるとお喜びになるかもしれませんよ」
『明日から古書の解読行きます。菓子楽しみです。』
指一本ほどの紙に書かれた、見覚えのある達筆な文字をじっと見つめる。
「潘充儀は伝書鳩を気に入られた様子でして……」
「そうか。連絡用に睡蓮宮へ置いたのだったな。……あいつ……、その、潘充儀は他の場所にも伝書鳩を送っているのか?」
「いえ、陛下だけでございますよ」
仮面で見えずとも、耳の先がほのかに色づく。
「そうか……。返信を書くから四半刻後に取りに来てくれ」
「おおせのままに」
部屋を辞した太監の後ろ、お付きの宦官が尋ねる。
「太監、陛下より先に潘充儀から伝書鳩の文を受け取ってましたよね?」
確かに受け取っている。内容は老体を心配した、ただのご機嫌伺いだった。おそらく、鳩が本当に文を運べるのか試しに飛ばしたものなのだろう。
だが、背負う物が多い天佑の喜びに少しでもなれるのなら。こんな優しい嘘くらい、いくらでもついてやると太監は口角を上げる。
「くくくっ、
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