第13話 いなくなった雪玲
いつもと変わらない一日だった。雪玲は北極殿に行き古書の解読作業を、巫水と五虹もいつものように仕事をして、睡蓮宮は今日も平和な一日を終えるはずだった。
夕餉も終えた
「ついでの用事もありますので、私が行ってまいります。」
「うん、五虹。いってらっしゃい」
書に没頭していた雪玲だったが、それからしばらく経った頃、外が少し騒がしいことに気づいた。
「は? 紫花宮に菓子を取りに来て欲しい? なんて無礼な! 潘充儀の方が位が上なのですよ。そちらが持ってきなさい」
雪玲は書を置き、声がする方へ向かった。誰かの侍女らしき女人と巫水が言い争いをしていたようで、間に入る。
「あなたは誰の使い? 石婕妤?」
「左様でございます。たくさんの菓子を作ったのですが、配る人数が足りず……。日も暮れましたが、潘充儀は早く欲しいだろうから取りに来てもらおうと仰せで」
「さすが石婕妤! ねえ、巫水~、取りに行ってきて。夜食に食べよう?」
そんなきゅるんとした瞳で見られたら、取りに行くしかない。
「……仕方がないですね。それでは大人しく待っていてくださいね?」
「半刻くらいだよね? 書を読みながら大人しく待ってるわ」
「もし、誰かが食べ物を持ってきても、私が一度確認しますから食べないでください。よろしいですね? 戻ったら夜食の前に湯浴みをしましょう」
「はーい」
雪玲は睡蓮宮でひとり、書を黙々と読む。巫水が雪玲のためにと常に新しい書を運び込んでいるため、暇を持て余すことがない。
夢中になっていると、そのうち甘い花の香りが漂ってきた。甘ったるい中にも、ピリッとする香りが鼻をくすぐる……
はっとして顔を上げた雪玲の手から書が落ちた。
(……? 力が入らない)
立ち上がろうとした足にも力が入らず、膝がカクンと折れる。
(あれ……? なんだか変……)
ガタガタと音がし、どこかから刀を手にした黒衣の者が目の前に立った。
「あれ? まだ意識があるのか。気を失った方が楽だったのに。悪く思うなよ?」
「……だれ?」
「ヒヒッ、頭ん中がふわふわするだろう? 意識がない時にブスリとやってやろうと思ったんだが仕方ねえな」
男は手にしていた刀剣を握りしめると、寝牀に
「うっ……!!」
「心を一突きすりゃあいいものを、お姫様はおまえさんをゆっくりいたぶりたいんだとよ。脇腹じゃあすぐには死ねねえが、たくさん血は出る。さあ、お前は頭のおかしい暗殺者と鉢合わせして死んだことになる予定だ。ほら、逃げろ」
(……っ、逃げなくちゃ……)
ふらふらして足元が覚束ない雪玲を男は面白そうに眺める。必死で逃げようとする雪玲だが、めまいがしていろいろな場所にぶつかる。その拍子に机の上の物が床に散らばり、書棚から巻物や紙の束が落ちてきた。
「う~ん、薬が効きづらい体質なのか? ヒヒッ、三十数えてやるよ。ほら、逃げろよ」
(……どこに……、逃げたら……)
回らない頭で必死で考え、重たい身体を引きずりながら少しでも距離を取ろうと歩みを進める。その間にも、男の大声が聞こえる。
「い~ち……、にぃ……、さ~ん……」
(……痛い……傷口がジンジンして、身体がドクドクする……。ダメだ、寒くなってきた)
力の入らない足を叱咤するが、思うように歩けない。廊下の壁に手をつきながら歩くと、赤い血が流線模様を描く。
(ああ……巫水、五虹、ごめんなさい……、お掃除が……)
「じゅうさ~ん……、じゅうし~……、じゅうごぉ~……」
「くっ……」
(……このままじゃすぐに追いつかれる……隠れても、血の跡で居場所がバレてしまう)
雪玲は上衣を脱ぐと手のひらの血を拭き、裾を破いて窓の外へ投げ捨てた。端切れを傷口にあてながら歯を食いしばり歩く。
(……あそこに入れば、助かるかも……)
『外廷と後宮の下には無数の地下通路が広がっています。ですが潘才人、決してひとりで入ってはなりませんよ? 複雑な上、多くの仕掛けもあります。興味本位で入ったりしたら二度と出れませんからね』
江宦官の忠告を思い出す。でも、頭のおかしい暗殺者に追いかけられるより、生存確率は高いはず。
「にじゅうにぃ~……、にじゅうさ~ん……」
貯蔵室へ入り静かに扉を開ける。雪玲は息を顰めると、音を立てずに潜り込んだ。
「にじゅうは~ち……、にじゅうきゅう~……、はい、さんじゅうっ! 潘充儀~、今から行きますよ~」
暗殺者の男は一つ一つの部屋を開けながら雪玲を探す。
「潘充儀~、……あーあ、こんなに痕跡を残していたらどこを歩いたか丸わかりだよ」
廊下の血の跡を辿り、男がにこにこしながら進む。そのうち、にわかに外が騒がしくなった。
「……宮女の集まりは偽情報でした。何かがおかしい気がします」
「ええ、些細な事だとしてもご連絡いただけてありがたいです。念のため、太監にも連絡を入れてあります」
男は耳を澄まして会話を聞くと、残念そうに刀を鞘に納めた。
「……睡蓮宮を担当する五虹と江とかいう宦官か。う~ん、あのふたり、隠しているけどだいぶ腕が立ちそうなんだよなあ……よし、撤退しよう」
男は最後に懐から瓶を取り出すと、部屋中に血をばらまいた。
「ヒヒッ、潘充儀、殺せなくて残念だよ。生きているならまた会おう。じゃあね~」
黒づくめの男が闇に紛れた刹那、睡蓮宮へ足を踏み入れた五虹と江宦官は青ざめた。
「なっ……潘充儀、潘充儀!! どこです? どこにいらっしゃいますか!?」
「潘充儀! 巫水! いたら返事を! 潘充儀!!」
「どうかされたのですか?」
入口には巫水が首を傾げて立っていた。
「まったく。誰のいたずらなのか、菓子は作ってないし、取りに来いなんて言わないわよなんて石婕妤はおっしゃって。とんだ無駄足でした」
「巫水! 潘充儀は? どこ、どこにいるの!?」
「え? 大人しく書を読んで留守番すると言ってましたけど。まさか、抜け出したんですか?」
巫水がふと室内へ目を向けると見慣れた景色は一変し、血で赤く染まっていた。
「きゃあああああああ!!!!」
「巫水! 落ち着いて! まずは潘充儀を探さなくては!!」
睡蓮宮の中を必死で探す三人。窓の外には脱ぎ捨てられた血に染まる上衣が破けた状態で見つかり、廊下には手をついた時の痕跡が赤い流線となって残されていた。
どこにも、いない。
「……可能性として残されているのは、連れ去りか地下通路へ逃げたか。いずれにせよ、一旦、上に報告をしましょう。すでに私たちの手には負えません」
「ああ……潘充儀、潘充儀……」
泣き崩れる巫水を慰めながら、五虹と江宦官も唇が切れるほど歯を噛み締めていた。
◇ ◇ ◇
その頃、北極殿では天佑がようやく政務に一区切りをつけたところだった。影狼が尋ねる。
「天佑さま、天誠さまの元へ行かれますか?」
「ああ。一日一回は顔を見ないと落ち着かん。今日は遅くなったが、これから少し寄って行こう」
天誠は北極殿の中でも最深部である龍安堂で眠っている。
御書房から小さな池がある庭園を通り抜け、竹林の先にある龍安堂。淀んだ宮廷の中でここだけは清涼な空気が流れている。
「天佑さま」
「変わりないか?」
看病をする侍医や医官たちに、容態の変化がなかったかを聞くのもお馴染みの光景だ。返ってくるのは「お変わりございません」の決まり文句。
(慣れというのは怖いものだな……期待感が奪われてしまう。天誠は必ず意識を取り戻すと強い意思を持たなくてはいけないのに)
横たわる天誠は全く変わらない状態でそこにいる。自分とよく似た顔をした五つ年上の兄は、母親似の自分と比べると亡き父王に似ている部分もある。鼻と口の形は父王にそっくりだ。
ピクリとも動かない天誠。だが、心の蔵も動いているし脈も強いと言う。それなのに、目覚めない。
「天誠、いい加減に起きてもらわないと困るんだが。お前の妃たちの扱いづらいこと……。なあ、徳妃は冷宮に送ったらダメか? あと、母上がまた後宮に妃嬪を増やすと言うから止めておいたぞ。だが、持ってあと少しだ。早く起きてこないとどんどん増えるだろうから覚悟しろよ?」
四半刻ほど天誠に語り掛け、天佑は龍安堂を後にした。
竹林の中を影狼と進む。柔らかい風が頬を撫でサワサワと葉が揺れる中、前方に白い塊が転がっているのが目に入る。
「先ほど通った時はなかったと思うのだが……」
側まで近寄り、影狼が白い塊を掴み上げた。
「小猫……? いや、小狐か? うわっ、ひどい怪我だ」
「どれ、見せてみろ……獣にやられたのか? 随分小さいな。体力もないだろうし、このままでは死んでしまうだろう……影狼、こちらに寄こせ」
天佑の両の手のひらにすっぽり収まる小さな白狐。ぜえぜえと荒い息をし、腹の辺りが赤く染まっている。
「どうされるおつもりで?」
「……願掛けだ。こいつは俺が看病する。治ったら天誠を助けてくれるやもしれんからな」
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