第10話 能ある鷹は爪隠す

「え? 皇帝からの文?? な、なんで?」


 胡桃酥糖くるみパイを片手に固まる雪玲しゅうりん


 顔馴染みの宦官が恭しく届けてきたのは顔も見たことのない皇帝からの文。雪玲だけでなく巫水ふすいも困惑している。


「潘才人、とりあえず読んでみましょう」

「そうだね……皇帝の存在をすっかり忘れていたからなんか怖いな」


 恐る恐る文を開けた雪玲。眉間に寄っていたしわがなくなり、薄目がどんどん見開いていく。


「あはは! 皇帝って面白い人なのね!」

「潘才人、何が書かれていたんですか?」


 初めて見た玩具に虜になった時のように、雪玲が興奮しているのが手に取るようにわかる。巫水が気になるのも当然だった。


「巫水、読めるかわからないけど、読んでもいい内容だからどうぞ」


 巫水はドキドキしながら文を受け取る。


 よもや、どこかで見初めたなんて書かれていたりするのだろうか。純粋な雪玲が可愛くて伸ばし伸ばしにしてきたあの教育も、とうとうしなくてはならないのかと気が焦る。


 だが、文に目を通した巫水は拍子抜けした。


「……潘才人。なんですか? この落書きみたいな文字」

「ふふっ。これはかなり古い言葉で書かれているの。こう宦官、お返事を書けばいいのよね? 少し考えたいから座って待ってて。巫水、胡桃酥糖をお出しして」


 文机に向かってうんうん悩む雪玲は楽しそうだ。江宦官と巫水はその姿を眺めながらお茶を啜る。聞けば全員に届けられているとのこと。早く言って欲しかったと、巫水はむっとする。


「潘才人の右手にはいつもお菓子がある印象でしたが。今日は右手に筆があるのがなんだか新鮮です」

「江宦官、失礼ですよ」


 皇帝が紫花宮に来ることはなかったが、宦官が不自由がないかの手配や外とのやり取りなどを担い、女官に指示をしてくれる。江宦官は童顔で線の細い少年のような風体をしている。雪玲や巫水ともすっかり打ち解けていた。



 文机に向かう雪玲は、皇帝からの言葉を真剣に考える。文にはたった一行だけ、古語が書かれていた。


『オシエロ リユウ 二 チニャンダ モノ オイシイ』


(皇帝は食いしん坊なのかな? 暇な妃たちの暇つぶしに、謎掛けも兼ねて古語なのかしら)


「江宦官。お返事は古語で書けばいいの?」

「おや、書けるのですか。はて、どちらとも指示は特別ございませんでしたが……」

「そうなんだ。うーん、古語が得意というわけではなさそうなんだよな」


 じゃあ、と言うと雪玲はすらすらと筆を動かす。墨が乾いたことを確認すると丁寧に折り畳み、江宦官へと手渡した。


「はい。じゃあ、これが私の答えということで。あっ、もし作られるのならお裾分けを欲しいかなーなんて。えへ」


 ◇ ◇ ◇


 太監の元に集められた妃からの回答が、天佑へと届けられた。北極殿の奥の間には、影狼、太傅、太監がいるが、至るところに護衛も潜んでいる。


「位の高い妃嬪の順に重ねてあります」

「ということは、まずは郭貴妃からか……ふむ、潔いな。『読めません』のひと言とは。天誠は彼女のこういう所が気に入ったんだろうか」


 パラっとめくり、次に胡徳妃の文を見つめる。徐々に険しい顔になると蟀谷こめかみに青筋を立てた。


「ちっ、あの女……俺が天誠ではなく天佑だと知っていながら恋文を送ってきやがった。あいつにとっては皇帝が誰であるかより自分が皇后になることが重要なんだろう。無理やり娶らされた天誠がつくづく気の毒だ」


 天佑と天誠は仲の良い兄弟だ。だからこそ、天誠を心配する一文字もない胡徳妃が天佑は嫌いだった。


 自分のことのように怒りながら次々と紙をめくっていく。


 どの妃嬪にも理解ができなかったらしく、お渡りがないことへの寂しさを謳った詩や誘いの言葉で溢れている。


 が、十五枚目の紙を目にした時、天佑の虚ろな目に輝きが戻った。


「すごっ……完璧に古語を理解している者が一人いるのだな。俺でも読めん。太監、これを書いたのは誰だ?」

「潘才人でございます。天佑様、潘才人は二枚提出なさいました。古語の訳が次の紙でございます」

「なんと。そのような気配りまで……」


 それを聞き、妃嬪たちの答えを読んでいた太傅が顔を上げる。


 驚いた天佑も、さっそく次の紙に書かれた訳に目を通す。


「稀にみる達筆ではないか。つくづく素晴らしいな。どれどれ……」



『古い書物を読んだ記憶を辿りますと、龍は「青天」「玉」を愛し、「燕肉」を食したと言われておりますが、今はその時よりも美食が豊富にございます。

 龍にちなんだ食べ物ということですから、龍の字がつく食べ物として竜眼はいかがでしょうか。そのまま食べるのはもちろん、私のおすすめは乾燥させた竜眼肉や果実を糕点に入れることです。

 それから鯉料理も良いと思います。登竜門を上るとされる鯉は縁起がよく、体力の回復や滋養強壮にも役立つ薬用魚です。私のおすすめは唐揚げのあんかけです』



「ぶはっ! 随分食い意地が張っている妃なのだな」

「はい。紫花宮を担当している江宦官によりますと、常に右手に菓子を持っているとか」


 天佑とその側近たちは、丸々としたにこやかな才女を想像した。右手に菓子、左手に書物。きっと後宮の寵を競う争いとは無縁なのだろう。ほのぼのしそうだな、と天佑が独り言ちる。


「太監。内密に潘才人を北極殿に呼んでくれ」

 北極殿への呼び出しに巫水は慌てたが、雪玲は『龍にちなんだ食事』のお裾分けなのではと期待感で胸がいっぱい。


「どの料理にされたんだろう……鯉の唐揚げがいいな」

「てっきり潘才人は糕点がご希望だと思ってました」

「潘才人はまだしも、江宦官まで……」


 そんな内容の呼び出しなら気が楽なのだが。そもそもあの古語の文は何だったのか、深読みをする巫水の不安はつきない。


 江宦官は十分な身支度の時間をとっていいと言ってくれたが、雪玲は今すぐ行けると立ち上がる。


「他の妃嬪ならこれでもかとめかしこむんでしょうが、潘才人だから仕方がないですね。まあ、口を閉じていれば仙女のごとく美貌ですし、それでは行きましょう。人目に触れないように遠回りをしていきます」


 ちょっと待って、と巫水が雪玲の身だしなみをさっと整える。紅だけ少し、と唇に色を載せる間、雪玲を諭す。


「潘才人、付き添えないことは不安しかありませんが、あまりハキハキ物は言わぬよう。しんなりした野菜を思い浮かべてください。あんな感じでいれば大丈夫です。それから、食べ物を出されても夢中になってはいけません。食べ過ぎてもダメです。後で私が下げ渡してもらえるようにお願いしますから。ね?」

「うん。裳州の印象が悪くならないように気をつけて行ってくるね」


 心配そうな顔をする巫水を紫花宮に残し、雪玲は江宦官の後をついていく。紫花宮の中、普段立ち入ることのない祭礼用の備品が置いてある房に入るとおもむろに物をどけ、腰の高さほどの物置の扉を開ける。


「わぁ、階段? ここ、物置じゃなかったんだ」

「足元に気をつけてついて来て下さい」


 物置と思った扉に足を踏み入れると板で作った階段が下に続いていく。そのうち石で囲まれた小さな横穴にたどり着いたが、四方八方に迷路のような通路が広がっているようだ。


「すごい……地下通路があったなんて」

「外廷と後宮の下には無数の地下通路が広がっています。ですが潘才人、決してひとりで入ってはなりませんよ? 複雑な上、多くの仕掛けもあります。興味本位で入ったりしたら二度と出れませんからね」

「うん、わかった」


 高鳴る胸を抑えながら右へ左へ、時には階段をまた降りたり登ったりしながら江宦官についていくことしばらく。ようやく遠くの方に灯りが見えると待ち構えている者がいた。


「太監。潘才人をお連れいたしました」

「ごくろう。潘才人、ついてきなさい」


 江宦官と目が合うと頷かれる。雪玲も小さく頷き、初老と思われるふくよかな太監の後をついていく。

 地下通路からどこかの部屋のやはり物置部屋へ出て廊下へと進む。


(ここはどこだろう? くんくん……食べ物の匂いはよくわからないな。でも、どこかで嗅いだことのある香のにおいがする)


 しんと静まり返る宮殿らしき建物。衣ずれの音や足音が微かに聞こえるが、女性の者ではない様子。どうやら後宮の外、外廷に連れてこられたのだろう。おそらく、ここが北極殿だ。


 太監に続き、人っ子ひとりいない廊下を歩いていく。が、至る所から人の気配がする。


 しばらくすると、ぴたっと足を止めた太監が振り返った。


「潘才人、これから皇帝に謁見します。私の後に続いて挨拶をしたら、顔を上げていいと言われるまで上げてはいけませんよ? 皇帝はとても厳しい方です。勝手にご尊顔を拝むようなことがあれば目を繰り抜かれ、話すなという時に話せば舌を切り落とされます。触れるなという物に触れれば手を切り落とされますからね。わかりましたか?」

「はい」


 雪玲は自分の足元を見ながら張り詰めた空気の室内へと進み、太監の少し後ろに控える。謁見の間や執務の間とは異なり、この御書房は側近のみが入れる皇帝の私室のようだ。


 上座には皇帝以外にも人がいる様子。きっと護衛がついているのだろう、と雪玲は考えた。


 その場で膝をつき、太監の後に続く。


「陛下。潘才人をお連れいたしました」

「参見陛下。万歳、万歳、万々歳」


「顔を上げなさい」

「はい、陛下」


 顔を上げた雪玲は目を合わさないように床の繋ぎ目をじっと見る。顔を上げていいと言われたけど、顔を見てもいいとは言われてない。


 謎掛けみたいだなと思いながら、雪玲は龍にちなんだ料理に思いを馳せ、しんなりした野菜のようにしおらしくする。



 ◇ ◇ ◇



 太監がさっそく才人を案内してくると隠密が伝えてきた。


「……早くないか? あと一刻はかかるだろうと思っていたんだが……」

「江宦官が既に太監へ手引きしましたから、あと四半刻で到着するかと」


 すっかり楽な体勢で政務の山を片付けていたが、とりあえずいつもの銀の仮面をつけ、才人に解いて欲しい古書の類を引っ張り出す。


「潘才人とやらが古書を読み解いて天誠の解毒法を見つけてくれるといいんだが……」

「古語が読めるのなら期待できますね。その古書、ちんぷんかんぷんです」


 影狼が横から古書を覗き込む。


 強面と顔の傷のせいで山賊のような風体だが、こう見えてこいつは学もある。そうでなければ第八皇子の腹心になどなれるはずもない。


つまるところ、いいとこのお坊ちゃんだ。刑部尚書の三男で本名を万博文わんぶおうぇんといい、文武両道のちょっとだけ『武』寄りなだけで、『文』の方もそれなりの知識がある。


「まだ若いだろうに潘才人はよほどの才媛なのだろう。母上も裳州なんて遠くからよく見つけてきたな。今のところ最下位の妃とはいえ、天誠も気に入りそうだ」


 兄は賢い女性を好むはず。先に顔合わせをすることになって申し訳ないが、兎に角目を覚ましてもらうことが先決だ。


 それからしばらく経ち、ぴったり四半刻後に太監と潘才人が到着した。


「陛下。潘才人をお連れいたしました」

「参見陛下。万歳、万歳、万々歳」


 太監に続く、凛とした声が心地よい。


(ほう、木槿むくげ色の落ち着いた衣に、高髻こうけいには透かし彫りの金櫛を挿しただけか。これでもかと着飾ってくるかと思いきや、好感が持てるな)


 孔雀のような妃嬪を想像していた天祐は、品がありそうな潘才人に早くも良い印象を持つ。才媛という先入観があったのは確かだが、期待を裏切らない清廉な姿に好感を持った。


「顔を上げなさい」

「はい、陛下」



「!」



(……雪玲?)


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