第9話 琴棋書画に通ず

 朧月夜の楽しい一刻ひとときですっかり気分転換ができた雪玲は、相変わらずの日々に戻っていた。巫水のいうこともよく聞き、日がな一日大人しく書を読んで過ごしている。


 そんなある日のこと。


 見覚えのある侍女が伝えたのは『香美人からのお誘い』だった。


「あらあらあら。今度は伝え忘れたことはない? 大丈夫?」


 雪玲が怯える侍女の顔を覗き込む。真っ青な顔をした侍女のおでこは、まだうっすらと赤い。にこにこ顔の雪玲が恐ろしいようで、侍女はコクコクと頷くと逃げ帰ってしまった。


「うふふふふ。ねえ、巫水。香美人は私と本当に仲良くしたいのかしら」

「天地がひっくり返ってもそれはないかと」

「だよねえ。今度は何を仕掛けてくれるのか楽しみだわ。ちょうど書も読み終わったところだし、さっそく行きましょう」



 ◇ ◇ ◇



 雪玲が呼ばれたのは同じ二十七世婦である姚婕妤たおしょうよの部屋。


 婕妤に割り当てられた部屋は才人より幾分広いようで、贅を尽くした品々がこれ見よがしに置かれていた。どうやら、姚婕妤はなかなかの金満家の子女の様子。


 今日の雪玲は、香美人を筆頭に、取り巻きである姚婕妤と明美人に詰められるようだ。


 香美人がさっそく雪玲に絡んでくる。


「うふふ。私たち、今日は芸術品を持ち合って鑑賞会をすることにしたの。ここ最近で成り上がった裳州の潘才人は、審美眼が備わっていないのではと心配になってお誘いしたのよ。私たちは小さな頃からたくさんの良い物に囲まれて育ってきたけど、潘才人はなかなかお目にかかる機会がなかったでしょ?」


 クスクスと笑う声。


(へえ、三人ともお金持ちの家で育ったのね。適当に相槌を打ってやり過ごしてもいいけど、いい人揃いの潘家を莫迦にされるのはなんだかなぁ。それにしても、香美人は黙っていれば色っぽい綺麗な人なのに、いじわるな言葉ばかり口をつくからもったいないわね)


 どうやら位の高い順に雪玲を攻めるつもりの様子。まず、姚婕妤が広げたのは水墨画だった。


「潘才人、ご覧になって? これがかの有名な呉道士の山水画よ。荒々しい山とこの構図が素晴らしいでしょう?」

「まあ、素晴らしいわ! さすが姚婕妤ですわね!」


 雪玲も、ほぅと言って絵をじっと見つめる。にやつきを抑えられない香美人。


「ぷっ! そんな真剣にご覧になって。どうせ、山水画が何かもご存じないのではなくて?」


 コロコロと笑う女人たちに、雪玲が衝撃の事実をもたらす。


「いえ、よく出来た贋作だなあと思って見入っていたのです。でも模倣だとしてもなかなかの腕前ですよ。この作者もご自身の画法を確立されれば将来有名になるかもしれません」

「なっ……あなた、書画のことを何も知らないくせに適当なことを言わないでちょうだい!」

「私、書画は好きなんです。ほら、ここの筆遣いを見てください。呉道士だったらもっと抑揚のある強弱をつけた線を描くはず。それに、この山水画には立体感がありません」


 その後も雪玲がいくつか指摘を重ねた結果、贋作であることが疑いようもない事実となる。


 部屋の中は静まり返り、真っ赤になった姚婕妤は今にも高血圧で倒れそうな気配。空気を変えるべく、明美人が割り込んでくる。


「じゃ、じゃあ、この壺をご覧なさいな。これは我が家門の家宝とされる品なのよ? ふんっ! 裳州では見たことがないでしょう。宮廷でも流行っているのよ」


 ご存じなかったでしょう、美しいでしょう、と自慢気な明美人の手元には、淡い紫色の壺がある。


「ああ、双耳壺そうじこですか。ふむふむ……、美しい色合いで良い壺だと思います。ですが、明美人はご実家が作られている白磁をなぜ広めないのです? あんなに美しい乳白色を作れるのは明家が管轄する窯元しかないのに。宮廷どころか、ここは全国から良品が集まる麗容ですよ? 一気に人気が出て青磁と並ぶ一品になるはずです」

「え? そ、そうなの? ……なんだかありがとう」


 知る人ぞ知る、故郷の郷土品を褒められうれしくなり、明美人の頬が桜色に染まる。


「明美人っ!」


 香美人がじろっと睨みつけるが、明美人の頭の中はすでに白磁でいっぱいの様子。流行を作ることができれば、一躍時の人となる機会でもあるのだ。そうなれば、皇帝の耳にも入り、お渡りだってあるかもしれない。


 いらつきが収まらない香美人だったが、雪玲と目が合うと一瞥し、鼻で笑った。


「書画と焼き物に関しては少しだけ知識があるようね。でもこれはどうかしら?」


 香美人は美しい筆跡の写経を取り出すと、丁寧に方卓へ並べた。姚婕妤と明美人も感嘆の声を上げる。


「これはもしかして、書聖と呼ばれる三大書道家のいずれかの方の作では?」

「まあ、惚れ惚れする美しい文字ですわねぇ」


 雪玲もじっと写経を見つめる。


「ええ、これは本当に素晴らしいです」


 雪玲の誉め言葉を聞き、ほっとすると同時にうれしくなった香美人。慌てて左右に首を振ると、雪玲を詰り出した。


「おーほっほっほっ! でしょう、素晴らしいでしょう! 私の祖父が伝手つてを使ってようやく手に入れた物ですの。……この書風は顔氏がんしだと思うのだけど」


 確認するかのようにちらちらと流し目で見るが、雪玲はじっと写経を見つめたまま。


「潘才人、いかがかしら? 素晴らしい写経でしょう」


 勝ったと言わんばかりの香美人にどうしたものかと思ったが、雪玲は素直な想いを伝えることにした。


「はい、この筆跡は恐らく書の大家が真心込めて書かれたものでしょう」

「おーっほっほっほっ! そうでしょう、そうでしょう!」


 雪玲が目利きであることを認めざるを得ない香美人だが、書の筆跡が大家の者であると言われ喜びを隠せない。


「ですが香美人。写経はそもそも功徳を得るために書き写すものです。ご自身で書かれた方が心が落ち着くと思いますよ?」


 おそらくこの写経は、大家が日々の信仰のために書いているもの。


 盗まれた写経が闇取引されていることを知り、大家はわざと一文字だけハネの向きを変えたようだ。


 大家が「これは売り物ではない」と込めた真意を雪玲は汲み取ったが、きっと香美人は気にしないだろう。雪玲の言葉も全く響いていない様子だ。


(書の大家は書き損じすら盗まれるような日々に頭を悩ませているんだろうな。気の毒に)


 貴族の間では書画骨董が空前の流行を見せている。それは国が豊かで平和な証でもある。


 その後、大家の意図が少しずつ広まったそうだ。


 香美人も写経を人前に出すことはなくなったという話を、雪玲はだいぶ後から巫水から聞かされたのだった。



◇ ◇ ◇



 それから数日後。雪玲の元には二十七世婦だけでなく、九嬪からのお誘いが届くようになっていた。


「潘才人は琴棋書画に通じている」という噂が出回ったためだ。


 商人からの買い物に同席させたい妃もいれば、手持ちの金銀財宝の価値を今一度調べたい妃、本当に価値があるのか疑念がある品を持つ妃などから、お茶会と称する招聘が後を立たない。


「一体誰がそんな噂を?」


 首を傾げる雪玲だったが、もちろん、明美人である。


 そんなわけで、困惑している部分もあるにはあるが、雹花と明明の居場所も知りたい雪玲としては願ったり叶ったり。とうとう九嬪それぞれの屋敷へも出入りを始めたわけなのだ。


 そして、この噂は思わぬ所まで波及することになる。




 朝議では皇帝の低くもよく通る静かな声が北極殿に響き、百官はさまざまな思いを秘めながら聴講していた。新皇帝の言葉にはまるで力が宿っているかのごとく、有無を言わさず従わざるを得ないと思う何かがある。


 即位後、額から鼻を覆う銀製の仮面を付け始めた新皇帝。


 黒蛇国の隠密による襲撃で顔に傷を負い、醜悪になったという噂もあれば、あの仮面に治癒の効果があるとも聞く。細工が施された美しい仮面は元々華やかだった新皇帝を引き立て、今や唯一無二の存在感を醸し出している。


 どこかの国では形ばかりの朝議で皇帝不在が当たり前だとも聞く。


 だが、我が国の新皇帝は幼少から神童の名を欲しいままにしてきた正に太陽のような存在。政治にも積極的な意見を述べつつ時には官僚の顔を立て、難しいかじ取りを上手く行っている。


 青龍国の未来が明るいことに、百官たちは誇りを持っていた。



 常朝である朝政を終えた皇帝は、巨大な北極殿の最深部へと進んでいく。寝室がある辺りからは入室できるものが限られるが、さらにその奥ともなると腹心しか足を踏み入れられない。


 秘密を抱える新皇帝は羽林をはじめ隠密部隊を有し、許可のない者の立ち入りを何人たりとも厳しく禁止した。すでに興味本位で覗いた者や皇帝の手つきを狙った女官が手打ちにあったことは有名な話である。



 幾重にも厳重な警備を過ぎた後、ようやく人心地付ける空間につくと新皇帝は銀の仮面を解き、大きく息を吐いた。傷一つない麗しい美貌に疲れが見える。


 ここにいるのは太傅たいふ、太監のほか、腹心である影狼、羽林中郎将、気配を消し護衛をしている隠密部隊のみ。天佑が信頼する者たちであり、天誠が昏睡していることを知る数少ない者たちだ。


 休む間もなく、朝議では話せない重要な話や天誠絡みの話など、込み入った話を議論する。公にできない報告の中には後宮の勢力図に関する内容もあった。


「二妃と新たに入った右丞相の娘、唐昭容の牽制か……」


 その他にも大小さまざまないさかいを太監が報告するが、天佑は干渉するつもりはない。


「後宮とはそのようなものだ。寵を競う相手が不在で申し訳ないが、皇太后が何を言おうが俺は手を出すつもりはない」


 これからもし、女人を傍らに置くことがあるとしたら……


 赤みがかった温かみのある栗色の瞳が思い出される。


(そういえば、雪玲はどうしているかな)


 陰謀や権謀術数渦巻く宮廷は、後宮同様様々な思惑が蠢いている。国の舵取りから本来の務めである羽林軍の統制、天誠の容態の秘匿など、天佑が抱えていることは多く、片時も気を抜けない。


 こんな時に雪玲を思い出すのは、ドロドロとした穢れが払われるような、あの清涼さを欲するからだろう。


(ああ、自分にはもうないあの純真無垢さに我が身まで清められる心地がするのだな。だから俺は彼女に会いたいのだろう)


 おとなしい小動物でも側に置いて癒されようかと上の空で報告を聞いていたが、天佑は太監の言葉に興味を持ち意識を戻す。


「ほう。後宮で鑑定が流行っていて、琴棋書画に通じている才人がいる? 皇太后が選抜しただけあって才媛が揃っているようだな。書が得意な妃で古書を読み解ける者はいないだろうか」


 天誠のためにあらゆる書物を集めたところ、毒に関する記載があると思われる古書が見つかった。だが、暗号のような古語の解読が進まず、博識な者を募るつもりだったのだ。後宮にそんな人材がいるのであれば、秘密も漏れにくく都合が良い。


「……天誠の二妃が古語を読めれば一番都合が良いのだが。まずは後宮で古書を解読できる者を探してみるか」


 天佑は筆をとり、さらさらと文をしたためた。


「太監。この文全員に届け、返事を持ってきてくれ」

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