第8話 天佑の気持ち

 全身にまとわりつくような視線を送ることもなく、媚びることもない少女。女性が遠巻きにする強面の影狼にも動じず、まるで昔からの友人のように接している。


 爽やかな春風のような彼女からなぜか目を離せない。小気味よい彼女は女性であることを感じさせないから、心地よいのだろうか。それとも、自分が男として認識されていないからだろうか。


 なんにせよ、身なりはどう見ても良家のお嬢さんだ。こんな時間に夜の麗容にいていい女人ではないはず。


 麺を一緒に食べに来たのは、ひとりでうろついてかどわかしや下衆な男に絡まれないかが心配だったから……。


 そう考えたところで、ふと思った。


(……心配? 俺が、この目の前の少女を? ……いや、保護者気分になっただけだな)



 皇宮に戻れば妃候補が十数名と集まっている。生母である皇太后は天誠の病状を伏せるためにも『後宮に妃を入れるべき』とし、地方からも美姫を召喚した。まだまだ探しているようだが、これ以上増えることがないようなんとか押さえているところだ。天誠だって目覚めた途端、二人しかいなかった妻が百人を超えていたら驚くはず。


 大臣や有力貴族たちに気づかれないようにするため、彼らの娘や縁戚たちも受け入れている。もちろん、天誠の治世を足固めするためでもあるのだが。


 まさか、黒蛇の暗殺者があんなに奥深くまで入り込んでいるとは思わなかったのだ。


 あの日は周到に計画されていた足止め要員たちに羽林や隠密が手間取り、兄である天誠は劣勢の中で敵襲を迎え撃ったのだ。俺が踏み込んだ時には辺り一面血まみれで、天誠は既に敵襲を全滅させていたものの、本人も昏睡状態に陥っていた。


 怪我と言えば上腕を切り付けられたかすり傷のみ。意識が戻らないのは毒としか考えられない。


 父王が亡くなり、即位してわずか三か月で起こった事件。民から愛される兄の治世を諦めるわけにはいかない。だから天誠が回復するまで皇帝の地位を守り、この国を守り抜くのは俺の使命でもある。


 そういう点では皇太后の方が冷徹だが、長年魑魅魍魎ちみもうりょう蔓延はびこる後宮で揉まれた賜物たまものなのかもしれない。


 天誠にもしものことがあったとしても、俺がそのまま皇帝になればいいと考えているようだ。後宮に集めている美女たちは俺のためでもあると悪びれずに言う。


「天佑、気に入った娘がいれば積極的に床入りなさいね。あなたにも後継ぎが必要なのよ? 天誠が目覚めたら下賜させればいいのだから、二妃以外には大いにお渡りをしてちょうだい。そろそろ新しい孫の顔が見たいわ」


 まったく、冗談じゃない。



 そんな頭の痛い問題を思い返しながら、少女を見つめる。いや、少女ではないな。


 子どもだと思って深く考えずに短弓を教えてしまったが、面紗を外した彼女の面立ちは思ったよりも大人びていて、虚を突かれた。麺を食べたら帰ると言っていた彼女との時間がいつまでも続けばいいと思った時、自分が案外この娘を気に入っていることに気づいた。


 身代わりの皇帝でもなく大将軍の龍天佑でもなく、個として存在できる、非現実的なこのひと時に癒されているからだろうか。


 帰ると言った彼女との別れが惜しく、ここで別れたら後悔するような気さえする。送り届けると口にしたのは、もう少し彼女のことを知りたいと思ったからなのかもしれない。


 再び面紗を装着した彼女は覚束おぼつかないやり取りで勘定をしていた。口を出さずにいたが……どうにも支払いに慣れていないようで、店主の顔色を見ながら正解を探している様子。


(銅銭を切らしてしまったんだな。次に大きい貨幣がどれかわからないのか……。あっ、今手にしているそれで合っているのに)


 横にいる影狼もぎゅっとした顔で物言いたそうにしている。


 ようやく彼女が無事に支払えた時の安堵感ときたら。こうやって世の中のことを学んでいるんだな、と温かい気持ちで見守った。


 ……いやいやいや、どうしたんだ、俺。


 はぁ、巷では冷酷無情な大将軍と言われているのだが。全く、調子を崩される。



 その後は、夜の街並みを楽しそうに見物する後ろ姿を見守った。彼女はキョロキョロと周囲を見渡しながら人気のない方へと向かって行く。


「じゃあこの辺で。岫玉の君、今日は弓を教えてくれてありがとう」


 ああ、ここでお別れか。岫玉の君と呼ばれることに急に壁を感じ、寂しさすら覚える。本名を名乗ったら畏れてしまうだろうか。とりあえず……


「……ユウだ。俺のことはユウと」

「ユウ。ユウね! わかったわ。じゃあまた会えたら会いましょう。ユウ、影狼、おやすみなさーい」


 くっ、天佑と呼ばれないことが残念だなんて思いながら、そのまま去ろうとする彼女の腕を慌てて掴む。焦って驚きの声を上げてしまった。


「待て待て待て。こういう時は普通、お前も名乗るだろう?」

「へ?」


 見上げる彼女の栗色の瞳が、月夜に照らされ金色がかる。赤みがかっていると思っていたが、こうして見ると長い睫毛に縁取られた宝玉のようだ。


「あれ? 名前言ってなかった? 私は雪玲よ」

「雪玲……。お前はまた抜け出してくるのか?」


 う~ん、と悩んだ雪玲が答える。


「しばらくはしないかも。巫水にバレたら言いつけを破ったことを悲しむだろうし、少し大人しくしていようと思う。耐えられなくなったらまたこっそり抜け出すつもり。串焼きを食べ損ねたことが心残りだし」


 微塵も俺に会いたいとは思っていないのだな。


 ……慕われたい者には見向きもされずでは、母譲りのこの美貌も肝心な時に役立たない。いっそ大将軍であることを明かしたいが、それも雪玲には魅力がなさそうだ。それなら。


「ふ、お前は本当に食い意地が張っているな。じゃあ、次に会えたら麗容で一番うまい串焼きの店に連れて行ってやろう」

「やったあ! 約束ね」

「ああ、……指切りでもするか?」


 驚いた顔で見上げる雪玲に、我ながら子どもじみたことを言ってしまったと後悔する。


 が。


 ぎゅっと拳を握りオロオロする雪玲を見て、察した。


「……指切りというのは小指同士を絡ませて誓いの言葉を述べる簡素な儀式だ。……本当には小指を切らない」

「わ、わあ、びっくりしたぁ。お互いの小指を交換するのかと思った」


 くそっ……なんなんだ、こいつ。


 ……純粋過ぎやしないか?


 どうしたらいいの?と両手広げて差し出してくる雪玲の右手をとり、四本の指をそっと包む。俺は自分の小指を曲げて見せ、真似るように促すと小指同士を絡ませた。


 うれしそうな雪玲が頭一つ半高い俺を見上げて言った。


「うふふ。麗容で一番おいしい串焼き、連れて行ってね」


「ああ。それなら……街に来たら、あの麺屋の親父に声をかけてくれ。すぐに連絡がもらえるように手配しておくよ」


 好奇心旺盛な雪玲のことだ。きっとまた抜け出してくるに違いない。麺屋には部下を忍ばせておこう。麗容での情報収集を兼ねればいい。これは雪玲のためじゃない。国のためでもあるんだ。

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