江の島と記憶

斜めがけカバンを背負って、鍵を掴み、ヘルメットを持つ。玄関を飛び出して、階段を駆け下りる。


アパートの駐輪場に寛さんのバイクがとまっていた。オフロードバイクで緑のカウルに稲妻のような黒いラインが入っている。


『なんか、かわいらしいサイズのバイクだね。原付きってやつかな? 』


「110CCだから小型バイクだね。古いけど、人気モデルらしいよ」


『へえ、バイク持ってないのに、詳しいんだね』


「買おうと思って調べてたからね」


ヒョロリと背の高い寛さんが小さなバイクに跨っている姿を想像するとアンバランスで面白い。


でも、丁度よいサイズ感で一度乗ってみたいなと思っていた。


バイクのハンドルにはステイが付いていて、そこにスマホを固定することができる。


ヘルメットにインカムも着いていたので、通話できるようにセッティングし、アプリも通話モードに切り替える。


「あーあー、テステス。聞こえる? 」


『インカムの音声良好。問題なし』


「じゃあ、出発」


キーを回し、キックレバーを勢いよく何度かキックするとエンジンがかかった。


『おおっ、排気音が格好良いね』


「個人的にはもう少し低めの音が好みかな」


スロットルを開けるとバイクが走り出す。思ったよりも加速が早い。


路地から国道1号に出て小田原方面に向かう。南湖入口交差点を左折し、南の方角へまっすぐ走る。


『この道狭いね。住宅ばかりで海が見える気がしないんだけど……』


「そんなことないよ。昼間ならサーフボードを乗せた自転車とよくすれ違うし」


『サーフボードか……』


バイトでこの辺の住宅街は走ることはあるが海までは殆ど行ったことがない。基本ボッチの自分には無縁な場所だ。


そんなことを考えながら、東海道線の線路を渡り、暫く走ると国道134号線のある交差点が見えてきた。


交差点の向こう側が開けていて、真っ直ぐ進めばサザンビーチへとつながっている。


『……もしかして、もう海が近いの?暗くてよくわからないけど』


「そうだね、直進して坂を少し下っていけばすぐに海が見えるよ。江ノ島はやめて、サザンビーチでも見に行く? 」


この時期は海の家も出来ているし、多少は明るいかもしれない。


『うーん、もう少し走りたいかな』


「分かった。なら、江ノ島に行こうか」


海が近いこともあり、潮風の香りが鼻腔をくすぐる。今日は風が弱く、ゆるゆるとぬるい空気を感じた。


『ねえ、亮は今どんな気持ち?』


「潮風が気持ちいい。雫と来れて良かった。そんな感じかな」


『えへへ。そっか』


右車線側は白っぽい建物が数軒見える程度でひらけており、海と空の境界が見えた。


水平線は黒の濃淡で判別はつくが、昼間に見る鮮やかな海にはほど遠い。それでも僕はワクワクしていた。


暫く海沿いの道を走っていると雫が文句を言い始めた。


『ねぇ、なんで林みたいなのがあるの?海が見えないじゃん』


「……なんでだろうね。折角の景観が台無しだよね」


寛さんの言っていた「江ノ島まで走らないと気持ちよさが伝わらない」の意図がわかった気がした。


気がつくと海側だけではなく左車線側にも林が広がっていた。


雫がその景色に飽きてきたであろう頃に、明るい色の建物が見え始め、周囲が見渡せるようになってきた。


『なんか、林を抜けたっぽいね』


「建物も増えてきたし、そろそろ江ノ島が見えるかもね」


『ほんと? やったー』


江の島は電車で通過したことはあるが、降りたことはない。我ながら適当なことを言ったものだ。


四方に階段のある円形の歩道橋をくぐると、大きな四角い建物と、券売所らしきものが見えた。


「……江の島水族館かな?」


『魚が見れるの? 』


「魚だけじゃなくて、イルカとか、ウミガメとか、カワウソとか、いるらしいよ」


『カワウソ見てみたいな……』


「そのうちね」


左手には大きな商業施設が見えた。海沿いの歩道には南国で見かけるような背の高い木々が見え始めていた。


ゆるいカーブを抜け、海側を見ると巨大なクジラのようなシルエットの島が見えた。


「あっ、江の島だ! 」


『えっ、どこ?道路しか見えない』


スマホが固定されているので、雫には海側が見えないようだ。


「そろそろ江ノ島大橋だから、もう少し待ってね」


『亮だけ、ズルいよ。早く! 』


苦笑いしながら、134号線を右折し、江ノ島大橋方面に向かう。真っ暗だったが正面に江の島と左右に海が見えた。


『すっごい長い橋だね』


「薄暗いけど侵入して大丈夫なのかな、ん?」


江の島大橋の入口付近に行くとバリケードが敷かれていた。バイクを止めて確認する。


どうやら、車両通行規制がかかっているようだ。


「夜10時から朝5時まで江の島大橋は通れないみたいだね」


『え〜! 私の江の島欲を返して欲しい』


時計を確認すると1時51分だった。これから朝5時まで時間を潰すのは少々厳しい気がする。


車両は通行できないが、江ノ島大橋の歩道を歩いている人はいるようだ。


バイクをその辺に止めて、江の島大橋を渡るという手もあるが少々悩ましい。


「バイクを歩道に止めて、少しだけそこの砂浜を歩いてみようか」


『歩道に止めて大丈夫なの? 道交法違反だよ』


真面目な顔で心配されて、少したためらったがバイクを止める。


「ちょっとなら大丈夫じゃないかな」


『そういうもの? 』


江の島大橋の左側の歩道は低い階段があり、すぐに砂浜に降りることができた。


靴と靴下を脱いで砂浜を歩く。固い砂の粒子が足の裏側を刺激する。波打った砂の丘はほんのり暖かく気持ちよかった。


海の家は青やピンクの看板で彩られ、とうもろこしや、焼きそばなどのメニューもちらほらと見えた。


砂浜は海風が強く髪がなびき、波の音が空気を振るわせ、空には星が瞬いていた。


雫にスマホで砂浜や海、夜空や江ノ島大橋を映してあげると、はしゃいででいた。


僕は砂浜に腰を下ろした。


『ねえ、亮。アプリを拡張現実モードに切り替えて』


「いいけど、Wi-Fiなしでも使えるの? 」


『外部ネットワークでも使えるように改造したのよ』


「そっか、やってみようか」


アプリを拡張現実モードに切り替える。画面には「Loading......Please wait」と表示された。


暫くすると、カメラ映像が表示され雫が砂浜に現れる。


『おおおおっ、すっごい。ちゃんと動いた』


動かない可能性があったのだろうか。雫のはしゃぎっぷりが微笑ましい。


「満足? 」


『うん! 』


様子を見ていて、雫の表情や動きが少し不自然なのが気になった。


「なんか、いつもと雰囲気が違うんだけど、気の所為?」


『気の所為じゃないよ。これアバターなんだ、私自身じゃないの』


「それって、いつもとどう違うの? 」


『かわいさが82.3%減なところだよ』


どういう計算をするとその結果になるのか不思議だが、一旦聞き流す。


「つまり、見た目が違うということ? 」


『半分正解。アバターは私が作った仮の体なの……かんたんに説明するなら……』


腕を組んでうーんと雫が唸る。


やはり、動きがぎこちないし、身体の動きに合わせて髪の毛も動くことはない。


普段、雫一人を動かすのにどれだけのマシンリソースを使っているのか、想像もつかない。


『私が人形に憑依している感じかな』


「つまり、人間と全く同じ動きはできないってことか」


『それもあるけど、偽の体だと空気の流れとか温度とか何も感じられないんだよね。改善の余地ありかな』


「えっ、空気とか、温度を感じることができるようになったの!? 」


『うん、痛みも分かるよ』


雫はえっへんと胸をはる。凄い技術だ。どうやって感覚を再現したんだろう。本当に人間みたいだ。


立ち上がり、おしりの砂をパンパンと払う。雫に声をかける。


「そろそろ帰ろうか。バイクが心配になってきた」


『やっぱり、駄目なんじゃん。仕方ないなぁ……』


「江ノ電で埋め合わせするから、それでご勘弁を姫」


『江ノ電……? 』


雫は小首をかしげ、キョトンとした顔をしていた。


『うん、乗ってみたいな』


「……乗ってみたいなって、初めて行くみたいな言い方するね」


笑いながら話をしていると、雫は眉間に皺を寄せる。


『何の話? まさか、別の女の子と勘違いしてないよね』


「そんな訳ないだろ。雫こそ、何の話をしているの? 」


『何って、私は江ノ電なんて乗ったこと無いもん! 』


思わず、唾を飲み込む。


「……何度も行ったじゃないか。江ノ電から海を眺めたり、稲村ヶ崎で降りて、海や台湾リスを見たり、三神教授たちと高台にあるレストランに行ったり……どうしたんだよ」


暫く、雫のアバターはフリーズしたように動かなくなった。


『知らない、私……知らない。そんな記憶どこにもない……』


両手で頭を抱えて、ぶんぶんと首をふっている雫のアバターは無表情だった。


「………雫」


僕は雫のことを何も分かっていなかったのかもしれない。彼女は人間ではないのだ。


潮風は湿っていて、少し肌寒く感じた。


──いや、得体の知れない何かに寒気を感じたのかもしれない。

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