バックアップ

江ノ電の車窓から見る風景はいつ見てもドラマチックだと思う。


でも、それは晴天の日を狙って電車に乗っているから、そう感じていたのかもしれない。曇天の空からはパラパラと雨が振り始めていた。


窓が雨で濡れ、外は薄暗く、車窓からは沖合に白波がたっているのが見えた。


電車内での通話は問題があるので、ドアの近くに立ち、インカムをつけて外を映し、最小限の会話をする。


「どう、思い出せそう? 」


『ごめん、初めて見る景色にしか見えない……』


電車は江の島駅を出発し、路面を走っている。両サイドに細い道路があり、江ノ電の数少ない路面電車区間だ。


以前、この風景を見た時は雫は感嘆の声を漏らしていた。


『データでは見たことがあったけど、本当に路面を走るんだね。しかも、両サイドの家屋が近い。すっごい面白い』


「うん……」


僕は思わず俯いてしまった。初めて、ここを通った時と同じ感想を話している。本当に何も覚えていないようだ。


電車はレールの上を規則正しく、タタン、タタンと音を鳴らしながら走り続ける。


腰越駅を過ぎて間もなくすると車窓には並走する国道134号線と海が眼前に広がった。


窓についた雨粒が、電車の速度に合わせて流れ、尾を伸ばしながら横に横に伸びていく。


曇天の空は水平線まで続いていて、水平線のあたりはさらに暗い色の雲が蠢いていた。


「ほら、江の島だ」


『わぁ……。この前とは違う意味で圧巻の景色だね』


海に浮かぶ小島に真っ直ぐ長い橋が架かっているのが幻想的に見える。雨で灰色レインコートを纏ったかのように薄暗いのが少しだけ残念だ。


腰越駅を出てから、すぐに見えるこの風景を雫は非常に好んでいたが、やはり何も思い出す様子はない。


『……亮? 』


雫が心配そうにこちらの様子を伺っていることに気がついた。自分がどんな顔をしているのか考えていなかった。


『なんか、ごめん……。きっと、ここも来たことがあるんだよね? 』


「僕の方こそ、ごめん。思いだせないなら、それでいいんだ」


雫は押し黙った。気まずい沈黙が流れる。暫くすると、次の駅に電車が到着した。


『亮、降りるよ』


「えっ、降りるの? 」


『早く! 』


「あっ、うん」


雫の勢いに押されてドアからぴょんと、プラットフォームに飛び出してしまった。


ぼんやりしている間に発車メロディが流れはじめ、電車は走り去って行った。


電車に背を向けていたので、振り返ると人気の無い歩道と濡れた車道を滑走する自動車が目に入る。


さらにその先には広大な海が見えた。


駅は天井が低く、雨音も近くで聞こえる。なんとなく木製のベンチに腰掛けた。


木の柱が絵画のフレームのように感じ、さめざめと降る雨と灰色の空、白波の立つ海に心が震えた。


『私の学習データにもこの風景はあったの。でもね、不思議なんだけど、雨の日の動画や画像ってあまりなかったんだ』


「そんなことあるの? 」


『普通にあるよ。だって、私達の学習データの殆どはネットから収拾したものだからね』


話が見えない。ネットから収拾したなら雨の日のデータもありそうなものだが。


『この駅から見える青い海と空、そのキャンバスに調和する電車のある風景がみんな好きなんだ……と思う』


「ああ、なんか分かる気がする」


『亮が外に連れ出してくれたから、この駅の軒下から見える雨の風景を感じることができた。だから……』


「……だから? 」


『次は忘れない。目茶苦茶バックアップとる。記憶領域以外にもたくさん』


ふわっと優しい風が吹き抜けた気がした。


「……拡張現実モード切り替える? 」


『うん、これでいつでも、ここに来れるもんね』


通話から拡張現実モードに切り替える。雫は駅舎の端から端まで記録したいとはしゃいでいた。


無人改札を抜け、小さなスロープを降りて線路を渡る。


傘をさして、国道を渡ると狭い砂浜が見えた。駅からだと砂浜が見えなかったので、ガードレールの向こうは海なのかと思っていた。


道を引き返すと、駅近くの踏切を電車が通過しているところだった。


線路の向こう側にはきつい傾斜の坂道と、左右の高台に白や茶色の建物が見えた。


『あの線路の向こうから海を見下ろした風景が有名らしいよ』


「そうなの? 」


『なんか、有名なバスケ漫画の聖地だとか』


「折角だから、行ってみようか」


暫く雫と駅の周辺をぶらぶらして駅に戻った。まだ、昼を過ぎたくらいの時間だ。


お腹は減っていたがそんなことよりも、遠出したいスイッチが入っていた。


「……雫とアップデート前に鎌倉に行こうって約束してたのを思い出した。行く? 」


『行く! 』


「うん、分かった」


ショルダーバッグからモバイルバッテリーのケーブルを取り出し、スマホに接続する。


長期戦に備えて大容量バッテリーを二つ持ってきていて良かった。


再び、江ノ電に乗ると七里ヶ浜しちりがはま稲村ヶ崎いなむらがさきと海の見える駅を通り過ぎた。


そこからはまるで住宅街の中を走行しているのではないかと思うくらい狭い線路を走り、そして鎌倉についた。


大きな鳥居をくぐり、鶴岡八幡宮をめぐり、銭洗弁財天ぜにあらいべんざいてんにも行った。


その頃にはすっかり空は晴れていた。


スマホ越しに雫と話す僕に、少し腰の曲がった老婦人が話しかけてきた。


「弁天様はヤキモチ妬きだから、女の子と来ないほうがいいわ」と言われて、「そうなんですか? 」と聞き返す。


「でも、電話越しだから大丈夫かもしれないけど」と言われて雫と苦笑いした。


気がつくと夕方になっていた。帰りの電車で外を眺めると、夕焼け空が海の水面に反射して朱色に染まっていた。


とても穏やかな1日だった。


『晴れたね』


「うん、嘘みたいに晴れてるね」


スマホを見るとバッテリーの残量が5%を切っていた。もう、予備のモバイルバッテリーは持っていない。


「ごめん、雫。そろそろ、スマホのバッテリーが切れそうだから、また後でね」


『うん、分かった。またね』


丁度、そのタイミングで画面が暗転して空を示すバッテリーアイコンが明滅し、「充電してください」という文字が表示された。


画面が暗くなり、事切れたようにスマホは沈黙した。スマホの背面は発熱して熱くなっていた。


雫のアプリを長時間起動していたのは今回が初めてだ。この安価なスマホではアプリの長時間使用に適していないのかもしれない。


その時、ギギギギギギ……と嫌な音を立てて、電車が急に停止した。


ドア横の手すりに掴まっていたが、慣性が働き、体がよろめいた。


暫くすると、車内アナウンスが流れた。


「ただいま、踏切内に車両が立ち往生しているとの連絡が入りました。安全確認を行っていますので、暫くお待ち下さい」


出発まで時間がかかりそうだ。ふと、春頃にあった乗用車事故で盛大に遅刻した日の事を思い出した。


あの時もバスに乗っている最中でどうしようもなかった。


時間を潰そうにもスマホの充電がないので、ぼんやりと考え事をしていた。


何故、雫は記憶が消えたのだろうか? 大型アップデートが関係しているのは間違いないだろう。


疑問なのは全部ではなく、江ノ電の記憶だけきれいになくなっていたことだ。


出会った時の事、大学で三神教授事件に巻き込まれたこと、寛さんや拓人、夏海休み前の出来事は覚えていた。


まるで江ノ電に関わる記憶だけ、虫食いのように消えてしまっているのだ。


車両アナウンスが流れて、電車が走り始めたら不思議と疑問に思っていたことは泡のように消えてしまった。


ふと、スマホを買い替えようと思った。


大分、バイトを休んでしまったのでお金を貯めないと……。


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