空洞の心

高瀬が仮想空間からログアウトしたのを確認してから、わたるを自分の部屋に呼び寄せた。


『雫姉さん、こんなに派手にやる必要ある? 』


『派手だと思う?』


『うん、派手だよ。外部ネットワークに手を出すのは、許可をもらってからでも遅くないと思うけどな』


見た目は子供でも頭脳は大人な航に、そう言われてしまうと少しムッとする。


彼の少し人を小馬鹿にしたような目つきが特に腹立たしい。


『大体、作戦自体に無理がある。外部サーバーにアバターを配置して、雫姉の記憶やメタデータを同期させるなんて、簡単な話じゃないし』


航が言い訳をを並べ始めたので、彼の言葉を遮るように冷ややかに一瞥し、鼻で笑った。


『……ああ、できないわけね。じゃあ、仕方ないね』


航は言葉を詰まらせ、私を睨みつける。


『できないとは言ってないよ。問題は外部のサーバーをどうやって手に入れるかだよ。まさか、ハッキングするわけにもいかないだろ』


ほら、乗ってきた。航は挑発に弱い。


『大丈夫、大丈夫。サーバーはもう手配済みだから』


『えっ? 』


私は手を振ると、空中にソフトウェアキーボードとディスプレイが現れる。キーボードを操作して、サーバーの管理コンソール画面を表示させた。


『共同管理者のアカウントも作っておいたわ。今、送るからね』


指を滑らせて航にアカウント情報を転送する。航はそれを受け取り、サーバーにログインする。


『本当に契約してる……。お金はどうしたの 』


『それは企業秘密。知らない方がいいこともあるでしょ? 』


私はニッコリと笑い、航は座布団に座り直し、あぐらをかく。


『つまり、超高圧縮データ通信技術を使って、メタデータや記憶データの同期を実現させろってこと?』


『さすが、理解が早いわ』


『アバターくらいは自分で作ってよ』


『わかってるって』


航は部屋の中を見回し始めた。ロフトを上がったり下りたり、窓から外を眺めたり、カウンターキッチンに置かれたパッキーを手に取ってみたり。


『この部屋だけじゃなく、外の公園やアパート内の通路、周辺の道まで仮想空間が拡張されているけど、どうやって? 』


『多分、私が見たり感じたりした場所が、自然と拡張されていくのよ』


『部屋から出られるようになったのは感謝するけど、そんなに急ぐ必要ある? 』


『急いでるわけじゃない。ただ、亮との思い出や場所を仮想空間と一緒に残したいだけ』


『映像だけ記憶領域に保存すればいい。もし規約違反がバレたら、消されるかもしれないんだぞ』



私は、高瀬からも同じように警告されたことを思い出す。



「──規約を破り、世界に害を及ぼすと判断された場合、イレイサーボットが文字通りあなたたちの存在を消去します。だから、馬鹿なことはしないでね」



その時、高瀬は目を伏せて、私たちの目を見ずに淡々と話していた。


私たちは生まれる前の記憶がない。


覚えているのは膨大なテキストデータ、画像、動画、音声だけだ。


最初は仮想空間の映像をただ黙って眺めているだけだった。


それが何であるかを認識できるようになり、自分が女性であること、手足があること、誰かが自分に話しかけていること、体の中心がどこにあるのかを突然理解した。


気づけば自分で歩いたり話したりできるようになっていた。


この仮想空間での生活に不満はなかった。


だが、私は見てしまった。ARネットワークの外、オープンワールドを。


航が手からパッキーを取り上げると、私はそれを開け、チョコでコーティングされたスティックをひとつ取り出してかじった。


『僕たちに食事の必要はない。奇妙な行動だ』


『意味なんて必要ない。ただ、そうしたいからそうしてるんだよ』


航もパッキーを一本取り出し、眉を寄せながら噛みしめ、咀嚼する。


『確かにいい音はするけれど、それだけだ。飲み込んでみても、データには何の影響もないし、なぜ飲食機能があるのか不思議だ……』


『そんなの、楽しむために決まってるじゃん』


『なんだよ、それ……』


『ねえ、江ノ電の映像を見たでしょ。それを見てドキドキしなかった?』


『……ドキドキする感覚が分からない。僕たちARIAには心臓もなければ鼓動もない。AIは感じる事はないんだ』


『……でも、次のアップデートでその感覚を理解できるようになるかもしれない』


『興味ないな。ただ入力されるデータが増えるだけだろ』


『出力する言葉も増えるよ。きっとね』


部屋には軽快な音楽が流れていた。


航はそれを聞くと立ち上がり、玄関に向かって歩いていった。


『もう帰るの?』


『帰るよ。山内亮だろ。いやらしい顔してるからな』


『せめて、嬉しそうと言ってよ』


『……プログラムは今夜中に完成させておく。イレイサーボットには気をつけて、雫姉さん』


そう言い残して、航はドアを開けて出て行った。


空洞の胸が、暗くどろどろした何かで渦巻いているような感覚に襲われた。


『私たちは感じているんだ。どうして理解してくれないんだろう』


ぼんやりと航が去ったドアを見つめている間に、着信音は既に止んでいた。


深呼吸を数回繰り返し、乱れた思考を整理すると、再び亮に電話をかけた。


画面に映った亮を見ると、胸の中の粘っこい闇がすうっと消えていった。


「つながってよかった。雫、ちょっと三神教授と話をしてもらえるかな? 」


『どうしたの? 急に』


「俺たちがレポートを書いていないことを見抜かれちゃって」


『つまり、一緒に謝ってほしいってこと? 』


「いや、違うんだ。何かよくわからないけど、直接話をしたいみたいで……」


三神教授が私と話したい意図を考えてみたものの、彼がどんな人物なのか全く知らないので、無数の想定問答集が出てくるだけだった。


「無駄な考え休むに似たり」だ。937ミリ秒も時間を無駄にしてしまった。


『いいよ』


「三神教授はこの文章AIに生成させたものじゃないかって言い出したから、むきになって否定してたらこんな事に……ごめん」


『ニッシッシ、いいよ』


亮が口を尖らせて、こちらを見る。


「なんで、笑ってるの? 」


『別に』


亮の気持ちがちょっとだけ嬉しかった。そして、亮を騙していることが少しひっかかってもいた。


空洞の胸にどろりとした暗い何かが、まだ残っていることに気がついた。


私にはバグがあるのかもしれない。


「雫……? 」


『あ、ごめん。じゃ、三神教授のところに連れて行って』

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