三神教授
「ダメだ」
『授業にこっそり参加するだけだよ』
「絶対にダメ」
「山うっちー、何やってんの?」
振り返ると、ティーシャツに薄い緑のパンツ、ツーブロックの髪型に、細い目をした男が立っていた。
「おはよう。……拓人もサボり?」
「人聞きが悪いな。俺は寝坊しただけだ」
「サボりと同じじゃないか」
「それより、その娘は誰? ああ、噂の彼女か?」
しまった、アプリを切るのを忘れていた。
『はじめまして、西園寺雫です』
「雫ちゃんか。はじめまして、五十嵐拓人です。噂は山うっちーから聞いているよ。ショートカットで笑顔がかわいくて……」
慌てて、手を振り、拓人の発言を遮る。
「や、や、や、やめろよ。本人の前でそういうこと言うな」
「慌てすぎだろ。別に彼女なんだし、いいだろ、そのくらい」
『亮がなんて言ってたんですか?』
雫の笑顔を見た拓人は、口を開けてしばらく見惚れていた。
「……なんか、羨ましくて腹立ってきた。教えてやらない」
『えー、超ケチ』
アプリを切ろうとするが、例の細工が効いているのか、切れない。
「で、何の話をしてたの?」
「雫がオンライン通話でこっそり授業を受けたいって、しつこくって」
「別にいいんじゃないの?」
「良くないよ。部外者が授業を聞くのは色々問題がある」
『色々って何が?』
改めて問われると、答えに窮する。
授業料を支払っていないし、在学もしていないのは事実だが、教授に損があるわけではない……気がする。
「……そりゃ、色々だよ」
『なに、それ?』
"色々"をインプットした結果、アウトプットされた言葉が"色々"しか出てこない自分に呆れる。
「バレなきゃいいんだろ? 参考書の裏にスマホを立てかけて隠せば、分からないだろ」
『おっ、話が分かる。五十嵐くん、優しい』
チッ……何となく、面白くない。
小さくため息を吐く。
「……分かったよ。授業中は絶対に声を出すなよ」
『うん、ありがと。亮』
スマホのボリュームボタンを押して音量を下げようと試みたが、これもコントロールが効かなくなっている。
雫の技術の無駄遣いに辟易する。
階段を降りて、教壇横のICカードリーダーに学生証をタッチすると、小気味よい効果音が鳴る。
授業開始前と終了後の2回タッチをしないと出席したことにならないので、忘れると悲惨だ。
部屋は階段教室で僅かに扇状に広がっている。定員は120名程度と聞いた。
「拓人、後ろの席に行こう。教授にバレたら困る」
『それじゃ黒板が見えないじゃん、もっと前がいい』
きっと僕は気難しい学者のような顔をしていたのだろう。拓人が苦笑いしながら手を差し伸べる。
「そしたら間をとって、中央の席でいいんじゃない?」
『いいわね。採用!』
ノートパソコンを開き、適当に参考書を山積みにして、その後ろにスマホを立てかけた。
この授業はAIプログラミング基礎理論Ⅰという名前通り、小難しい内容だ。
必須科目なので、仕方なく受けている。
工学部情報工学科はハードウェア、ソフトウェアの仕組みや構造を総合的に学べるのが特長だ。
雫がどういう理屈で動いているのか興味がないといえば嘘になる。だから真面目に受けようと努力はしている。
講師は三神教授というAIの分野では権威のある先生らしい。
三神教授は背が高く、ロマンスグレーの髪にオールバック、Vネックのニットにワイシャツ、スラックスという出で立ちだ。
顔に刻まれた皺が「私は頑固者です」と主張しているように見えなくもない。
「──ニューラルネットワークとは人間の脳細胞活動を模した仕組みで……」
ただ、話を聞いていると難しくて意識が遠くなる。……口から脱走しようとする欠伸たちを必死に噛み殺す。
『話が古いわ。これって歴史の授業なの?』
雫の声は予想よりも大きかったのか、部屋が静まり返る。三神教授がこちらをギロリと睨みつける。
「そこの二人組、何をやっている?」
「すみません。手が滑ってスマホの動画配信サイトが起動してしまいました」
「君たち名前は?」
「山内です」
「五十嵐です」
「ミスター山内、五十嵐。私の授業が何だって?」
どう考えても、僕や拓人の声ではないと分かっている筈なのに、回答に窮する質問をしてくる。
面倒なことになった。
『歴史の授業かって言ったのよ。そもそも、いつになったら基礎理論に到達するの?』
ヒギャー……とは口に出さなかったが、頭が真っ白になる。僕の渾身の謝罪を遮るように雫が声を被せてくる。
『大体、AIプログラミング基礎理論Ⅰっていうネーミングセンスも気に入らないわね。料理に例えるなら、プログラミングはレシピで、AIはシェフよ。関係はあるけど、根本的に役割が違うわ』
教室を出ないと目をつけられる。拓人に目で合図を送る。拓人も察して立ち上がる。
「待ちなさい、ミスター山内、五十嵐。授業の後、私のゼミまで来なさい。それと退室は認めない」
片眉をピクピクさせながら、笑顔を無理やり作る三神教授と同級生の「あいつら余計なことをしやがって」という無言の殺意が痛い。
僕はできる限り優しい顔を心がけ、小さな声で雫に囁く。
「──雫、電源切るからね」
『ちょっ……』
スマホの電源ボタンを長押しして、強制シャットダウンを実行した。
***
授業後、三神教授のゼミに訪問し、1時間ほど説教を受け、挙げ句に本日の講義についてのレポート提出を言い渡された。
一限目は事故で間に合わず、二限目は雫大暴れ、三限目は説教で出席できずと散々な事になっている。
「拓人、雫のせいでごめん」
「はっはっはっ。俺も共犯だからな、痛み分けってことで」
拓人はカラッとした性格なのが救いだ。
「ただ、レポートどうすっかな。あの騒ぎで全然頭に内容が入らなかった」
雫が指摘したことが三神教授の琴線に触れたらしく、今回に限り教科書に書いてない内容で講義が行われたのだ。
自身の体験談や、基礎理論の問題点や改善策など、活きた内容の講義はいつもより面白かった。
「ノートは取ったから一緒にレポート書くか」
「仕方ない、やりますか」
「まあ、責任を持って雫にも手伝ってもらうから」
「雫ちゃんは……かわいいけど、性格に難ありだな」
「巻き込んで、ごめん」
授業内容と三神教授から出された課題をテキストファイルで雫にも送りつける。
「お前のせいでこうなったんだから、手伝え、アホ……送信と」
三分もすると雫からメールが返ってきた。メールに文章が一言だけ書いてあった。
『ごめんなさい。調子に乗りました』
意外としおらしく調子が狂う。メールをよく見ると、ファイルが2つ添付されていた。
2つとも中身は本日の講義に関するレポートだった。着眼点が異なり、まるで別物のようだ。恐らく、僕と拓人の二人分を用意してくれたのだろう。
反省はしているようだ。
アプリを起動し、雫に電話をかける。画面には正座して頭を下げる雫の姿が映し出された。
『……ごめんなさい』
「反省しているならいいけど、もうこんなことはしないでね」
『…………』
「コホン、イチャイチャはレポートが完成してからにしてくれる?」
『五十嵐くんにも迷惑をかけてごめんなさい』
拓人はニカッと笑い、ニッシッシと声を上げる。
「いいってことよ」
「全然良くないよ。山内も……その彼女も反省した方がいい。拓人くんは山内に甘すぎる」
声をかけてきたのは同じ学科の
花柄のチュニックにジーンズ、トートバッグを肩にかけていた。
木崎はアジアンテイストを好むようで、よくこのような格好をしている。整った顔立ちで、地味ながらも人気がある。
そして、拓人には甘く、僕にはなぜか厳しい。
木崎はノートを取り出し、拓人に手渡す。
「これ、三限目の授業のノート……使っていいよ」
「本当に? ありがとう! 」
「助かるよ、木崎さん」
「山内に貸したわけじゃないからね」
木崎は心の扉をピシャリと閉める。一体、何なんだろう?
「で、そのスマホに映ってるのが、山内の彼女?」
『はい、西園寺雫です。さっきは失礼しました』
「気をつけた方がいいわ。何様のつもり?」
「あ、はい、すみません」
雫に対する木崎の態度は冷たい。二人揃って嫌われたようだ。
「まあ、弥生ちゃん。二人も反省しているし、俺の顔に免じて許してやってよ」
「ん、まあ、拓人くんがそう言うなら」
木崎は指先で髪をくるくると巻きつけ、もじもじする。
「ところで拓人くん、三神教授の件はどうなったの?」
「見ての通り、反省レポートを書いているところだよ」
拓人は悲壮感を漂わせて答える。
「それが、雫が二人分のレポートを書いてくれたんだ」
「えっ、本当?見せてよ」
***
「──雫ちゃん、天才かもしれないね!」
「そうだね、天災みたいだね」
『ありがとう。これくらいしかお詫びできないけど。あと、亮の「天才」の発音が少し引っかかるんだけど』
「気のせいだよ」
ペロリと舌を出す。
「かわいくて頭もいいなんて、反則だよ」
拓人の言葉に雫は嬉しそうにする。素直に思ったことを言える拓人が羨ましい。
だが、木崎の反応は冷たい。
「でも、それ以上のトラブルも起こしてるわよ。マッチポンプもいいところ」
『……ごめんなさい』
雫はしゅんとする。厳しいことを言った木崎も少し気まずそうだ。
「レポートを出して、今日は解散しよう」
「そうだね、拓人を巻き込んでごめん」
『ごめんなさい』
拓人は木崎の肩を軽く叩く。
「弥生ちゃん、軽音部に顔を出すんだろ? 一緒に行こう」
「うん、行く……」
「じゃあ、山うっちー、また明日」
拓人は手を振りながら、木崎と一緒に部室棟へと消えていった。
「今日はもう授業がないから、帰ろうか」
『うん、今日は本当にごめんね』
「……まだ明るいし、江ノ電に乗りに行こうか」
「えっ、海辺を走るあの電車? 」
「そう、行きたくない? 」
「うん、行きたい」
雫が作成したレポートを三神教授に送信し、大学を後にする。
その後、本当に江ノ電に乗りに行ったが、後になって後悔することになるとは、夢にも思わなかった。
それはもう少し先の話。
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