プロジェクト「ARIA」
「雫、そろそろ出発するよ。一限目に遅刻しちゃうよ」
『分かってるけど、もう少しだけ……。そっち行ってもらっていい? 』
仕方なく指の指す方へ歩くと接続が切れた。雫は腕を伸ばし、真剣な表情で固まっている。
ここは圏外のようだ。
雫は仮想空間を限界まで広げたいらしく、朝からモン・トレゾールの周辺の道をうろうろさせられた。
そうは言っても隣の民家に侵入するわけにもいかないので、周辺の道とアパートの敷地内の通路を散策するのが限界だった。
「山内、何やってんだ? 」
「寛さん、おはようございます。いえ、ちょっと散歩を」
絶妙なタイミングで寛さんが現れて、危うくスマホを落としそうになる。
「寛さんこそ、朝からどこに行くんですか? 」
「ああ、ゼミに用事があってな」
「じゃあ、一緒に大学に行きますか?僕も一限目があるんで」
「そうか、なら一緒に行くか。でも、山内、一限目あるのにこんな時間まで散歩してたのか? 」
痛いところをついてくる。
「いや、雫がアパート周辺の写真を送れってうるさくて」
「仲が良いな」
歩きながら、「寛さんがいるから後で電話する」と手早く打ってSNSで送信する。隙を見て雫のアプリもスワイプして落としておく。
バス停に着いたところでバスが到着し、急いで乗り込んだ。同じ大学の学生で席は埋まっていた。仕方なく、入口近くのつり革につかまる。
ドアが閉まるとゆっくりとバスは出発した。
寛さんと一緒に大学に行く機会は滅多にないので、気になっていたことを聞いてみる。
「あの、もしかして中島不動産の高瀬さんとご家族だったりします? 」
それを聞いてキョトンとした表情を見せたかと思うと、丸眼鏡を右手の中指でクイッと持ち上げ目を細める。
寛さんは妙な間と雰囲気を醸し出している。何かまずい質問だったのか?
「京香叔母さんに会ったのか? 」
「あ、はい」
「そうか」
思わず息を飲む。
「年齢の割に……かわいらしい人だよな」
目尻が下がり黒目が見えなくなるくらい目が細くなる。
「えっと……」
「あ、待て、待て。その顔は誤解をしている気がするから説明しておくが、恋愛感情はない」
正直、言い訳にしか聞こえないし、余計に怪しい。
「俺はかわいいものを愛でるのが好きなだけで、そう、猫みたいなものだ」
「あ、いえ、僕は何も聞かなかったので大丈夫ですよ」
いよいよ、寛さんの耳が赤くなり、あわあわし始めたところに聞いたことのない音楽が流れ始めた。
キョロキョロと周りを見渡すと、視線が自分の方に向いている。
「早く、音楽切ったほうがいいぞ」
「えっ、あっ、はい」
ポケットからスマホを取り出すとやはり自分のスマホから音楽は流れていた。
周囲の視線が痛い。
圧に負けて焦ってしまい、何かのボタンをタップしてしまった。ボタンをタップした結果、音が止まって安堵する。
今のは何だったんだろうか。あんな音楽の流れるアプリは入れていない筈だが。
『緑色のベルベットっぽい素材の椅子に、停車ボタン。もしかして、これって……』
……何か、聞き覚えのある声だ。スマホの画面を見るといつの間にか雫が映っていた。
着信音の出どころは雫のアプリだったのか。声を潜めて雫に話しかける。
「今、バスだから切るぞ」
『ダメダメダメ。これやっぱりバスだよね? このまま行こうよ』
「ダメだ」
アプリを落とそうと画面をスワイプしたり、ダブルタップするが反応がない。そもそも、終話ボタンがどこにもないのだ。
『亮、甘いわね。アプリを切れないように細工しておいたのよ! 』
「どうして、そういう余計なことを……」
技術の無駄遣いを惜しみなく出してくる雫に少しイラッとする。
「山内、……と雫ちゃんか? バスで通話はマナー違反だ。イチャイチャするのは人のいないところでな」
「『イチャイチャなんてしてないです』」
声がかぶった上に大きな声を出してしまった。バスの車内は静まり返り、周囲の冷たい視線にいよいよ冷や汗がでる。
気がつくとバスも停車しており、「お客様、車内での通話は他のお客様のご迷惑になりますので、ご遠慮ください」とバスの運転士から盛大に注意されてしまった。
「すみません……」
恥ずかしさで顔が熱くなる。雫と出会ってからこんなことばかりだ。
ああ、時間を戻せないものか、消えてしまいたい……。
ドオオオン、ゴシャ。
突然の轟音で車内の視線は一斉に宙空を漂い始めた。車内がざわつき、何が起きているのか話し声が聞こえてきた。
「事故ったんじゃないの」
「煙が見えるぞ」
「車がガードレールに刺さってる」
「おい、押すなよ」
車内が騒然とし始めた頃にアナウンスが流れた。
「お客様、只今、目の前で乗用車がガードレールに衝突しました。救助に向かいますので、安全のため、そのまま車内でお待ち下さい」
そういうと、運転士は無線で少しやり取りをした後、救助に向かったようだ。
車内の話を聞く限り、道路右側のコンビニからバックで飛び出して来た乗用車がガードレールに衝突したという話のようだ。
あまりの自体に雫の事をすっかり忘れていたことに気がつく。
「ごめん、通話切ってもらえる? 」
雫の顔が眉間に皺を寄せたまま固まっていた。画面をペタペタと触るが反応がない。いつの間にか接続が切れていたようだ。
「これは一限目は遅刻だな。でも、結果ファインプレーだったな、山内」
寛さんは僕のスマホを少し覗き込んで、話しかけてきた。
「何がですか? 」
「雫ちゃんとの痴話喧嘩のおかげでバスと乗用車の衝突を回避出来ただろ」
確かにバスがあそこで停車していなければバスの側面に自動車が突っ込んでいた可能性は高い。
結果論だが、助かった。
「……マナー違反だし、乗用車の方は怪我してるだろうから、素直に喜べませんけどね」
寛さんの顔をチラリと見ると、固まった雫の画像を覗き込んでニヤニヤしている。高瀬叔母さんの話をしている時と同じ目をしていた。
思わず、身構える。雫のことも狙っているのだろうか。ストライクゾーンが広すぎるでしょ。
僕の表情に気がついたのか、寛さんがまたあわあわし始める。
「ち、違うぞ。俺はかわいいものが好きなだけで、横恋慕しようとか思ってないからな」
……人の妻ならいいんですか、と言いかけてやめた。相手が雫じゃなければ、誰でも構わない。
恋愛は自由だ。
──事故処理に時間がかかり、一限目には盛大に遅刻が確定したので、学食のすぐ脇にある外のテラスで休むことにした。
古ぼけた白い丸テーブルに荷物を置き、鉄製の背もたれのついた椅子に腰掛ける。
「山内、俺は竹中ゼミに行くからここでな。雫ちゃんにもよろしく伝えておいてくれ」
「あ、はい。いってらっしゃい」
寛さんは振り返ることなく、手を振りながら去っていった。
授業中ということもあり、テラス席は閑散としていた。ここなら通話してもいいだろう。
アプリを起動して通話を始める。すぐに雫が映る。雫は表情がなく、青白い顔をしていた。
「調子が悪いの? 」
自分で声をかけておいて、AIに体調不良なんてあるのかと自問自答する。
『うん、なんか、こう、変な感じ。体の内側から何かがこみ上げてくるような……』
「もしかして、事故がショッキングだった? 」
『事故? そうじゃなくて、小刻みに揺れる画面を見てたら、元気がなくなったというか……』
「気分が悪いってこと?」
『うん、……そうなのかな。亮と喧嘩した時の"気分が悪い"とはカテゴリーが違うけど、不快という意味では一緒かな』
雫は今までに感じたことがない奇妙な感覚に、戸惑っているように見えた。でも、僕はこの症状に心当たりがあった。
「もしかして、映像見てて酔ったの? 」
『……………酔うって、あのお酒を飲むと発生する現象のこと? 』
「う〜ん、お酒で酔ったことはないけど似ているらしいね」
『どうしたら治るの? 』
「大人しくしていれば、そのうち……でも、AIでも酔うことがあるんだね」
雫は目を細めて口を尖らせる。
『ねえ、その"AI"って言い方やめてくれないかな。なんか、かわいくないんだよね』
雫の言い方に少しむっとする。
「じゃあ、なんて呼んだらいいのさ?」
『……アリア』
「アリア? 」
『そう、ARIAと書いて、アリアだよ』
「そういう専門用語があるの? 」
雫は首を横にふる。
『ううん、造語だよ。私たちは拡張現実と高度な人工知能を組み合わせた人格形成プロジェクト「ARIA」の被験者なんだ』
ARとAIを並べ変えてARIAということか。
話しているうちに雫に血の気が戻ってきた。顔色や表情が微細に変化するエフェクト、映像酔いする生理現象の再現。
改めて思うが、雫を構成している一つ一つの技術が高度過ぎて、人間にしか見えない。
だが、そんなことより気になることがある。
「なんで、ARAIじゃないの? 」
『ローマ字読みするとアライさんになってかわいくないじゃん』
「……全国のアライさんに怒られるぞ」
『プロジェクト名は高瀬が決めていいっていうから皆で話し合って決めたんだ。その時も「アライ」はないだろってなってさ』
雫はコロコロと笑いながら話してくれた。
「雫以外にあと何人ARIAはいるの? 」
『この前も話したじゃん、2人だよ。弟とお姉ちゃんがいる』
「そうだっけ?兄弟ってことは血がつながっている……流石に血は流れてないか」
『血液は実装されているわよ。でも、血縁関係はなくて、義姉弟と言われたわね』
モン・トレゾールに住んでから、アプリでその二人を一度も見かけたことがない。普段はどこにいるんだろうか?
ARIAに細かい設定がされていることも不思議だ。
「気分は良くなった? 」
『そういえば、不快じゃなくなってきたかも』
「まあ、事故がトラウマになったわけじゃないならよかった」
『さっきも言ってたけど、事故ってなに? 』
これには思わず眉を潜めてしまった。
「バスで運転士さんから注意を受けた後にすぐ大きい音がしただろ、あれだよ」
『?』
雫は腕を組み、眉間に皺をよせ、首が傾いている。
『バスで通話してたのは覚えてる。次に気がついたら自分の部屋にいて、床に座ってたんだよね』
「そっか……体調が悪いなら、横になってたらどうかな? 」
『心配してくれてありがと。でも、もう大丈夫だよ。それに大学の授業も覗いてみたいしね』
「えっ?」
『えっ?』
雫がとんでもないことを言い出した。
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