引っ越し

「ふうっ……」


首にかけたタオルで汗を拭う。ようやく荷解きが終わった。


スマホに通知が来ていた。


『ねえ、まだ引っ越し終わらないの? 早く、アプリ起動してよ』


……とりあえず、未読スルーを決めこむ。


『ねぇ、どうせ通知見てるんでしょ。未読スルーとか、マジで八代先まで祟るからね』


雫はSNSジャンキーだ。1時間に10〜20通のメッセージが届く。


『ひま』『外出たい』『雪降ってるよ』


幸いなのは基本短文であることだ。


とはいえ、出会ってから2ヶ月間この調子なのでさらっと無視する技を体得した。


しかし、この無駄話のおかげで救われたこともある。


あれは遡ること4時間前の話だ。



──あった、中島不動産だ。


店の窓には相変わらず物件の間取り図が沢山貼られていた。プランターには黄色や赤色の花が咲いていて新鮮な気持ちにさせてくれる。


契約してから2ヶ月が経過していた。


「すいませーん。鍵を受け取りに来た山内です」


「はいはい、ちょっと待っててね」


店の奥からしゃがれた声が聞こえる。高瀬さんはいないのかな。


少し、ほっとする。


パタパタと足音が聞こえると、小柄で頭の薄くなった初老の男性が出てきた。黒縁の老眼鏡の奥はにこやかな細い瞳が見えた。


両腕には黒い腕カバーをつけており、いかにも事務員然とした佇まいだ。


「はいはい、おまたせ。で、鍵の受け取りだっけ? お名前は? 」


「山内と申します」


「ちょっと待ってね。確認するからね」


そういうとタブレットを取り出し、何かを操作している。先程と違い真剣な表情をしている。


「あれ、おかしいな。……これか? 」


いや、テンパっているの間違いのようだ。


「やっぱり駄目か。おじちゃんにはハイテク過ぎるな。京香ちゃ〜ん」


足音が近づいてくる。


「寺さん、今、給湯室で漂白してるから手が離せないって言ったでしょ」


「ごめん、ごめん。やっぱり俺には難しいよ、これ」


京香ちゃんの正体が高瀬さんだった。僕を見つめる高瀬さんの口は「あ」の形で固まっている。


「あら、山内さんお久しぶり。今日からでしたっけ」


「お久しぶりです。僕のこと覚えているんですか」


「そりゃ…………。この店あまり人が来ないからね」


「京香ちゃん、そりゃないよ」


「あちゃあ、失言失言」


夫婦漫才でも見ているようだ。


高瀬さんは寺さんの横からタブレットを覗き込んでキビキビと操作する。


すると複合機が印刷を始める。その間に、鍵を取り出し、契約書類と思しき封筒を書棚から持って来る。


高瀬さんは印刷した紙と封筒、鍵を僕に渡してくれた。


「じゃあ、僕はこれで。ありがとうございました」


「あっ、ちょっと待って。どうせ、暇だしアパートまで送っていきますね」


「いや、悪いですよ」


高瀬さんと会話をするとボロが出るかもしれない。咄嗟に大げさに手を振り、申し訳無さそうな顔をしてみせる。


「遠慮するな少年、どうせうち暇だから」


老兵の援護射撃に虚をつかれる。


「えっ、いや……そうですか? 」


「決まり、決まり! 私、着替えてくるからちょっと待っててください」


「あ、お構いなく……」


あっという間にバックヤードに引っ込んでしまった。まずい展開になった。



──雫に注意された事を思い出す。


『高瀬は何気ない会話や仕草から相手の秘密を引き出す天才なの』


「へー探偵みたいだね」


『そうなの、この前なんか私の瞳を覗き込んで、「どこで手に入れたの、そのラノベ」とか、あり得なくない!? 』


「ラノベがあり得ないの? 」


『違うよ、私の瞳を見てラノベが映っている事に気がついたんだよ。あり得なくない? だから、目にノングレア処理いれちゃったよ』


「雫はラノベをわざわざ実体化してたってこと? 」


『そうだよ。私、本は手にとって読みたい派なんだよね。』


「……なんの話ししてたんだっけ」


『つまり、高瀬とは余計な会話しないこと』


──という事があった。まだ、続きはあるが無駄な会話が多く、その後のことはうろ覚えだ。


「……山内さん? 」


「た、高瀬さん、いつの間に」


「いや、さっきから声かけてたんですけどね。なんか良いことありました? 」


「な、なんで……」


「何でって、ニヤニヤしてたし」


かぁっと顔が熱くなる。


「ははん、さては彼女さんのことでも考えてたんでしょ」


「あ、あいつはそんなんじゃないです」


「あらあら、失礼しました」


高瀬さんはペロッと舌をだす。完全に遊ばれている。この調子だといつボロが出てもおかしくない。


気を引き締めないと。


アパートには会社の車で送ってくれるそうだ。車なら5分で着く距離だ。


「でも、一人暮らしってことは彼女さんとも遠距離恋愛でしょ? 大変じゃない」


「あ、いえ、彼女はいないので……」


「そうなの? 」


少し気まずくなったのか高瀬さんが黙っている。


このまま、目的地まで黙っていればミッションクリアだ……と思ったが、そうは問屋が卸さない。


「……ところで、不思議だったんだけどね。この前内見したときに賃貸ツアーアプリ使わなかったの? 」


「ああ、紹介してくれた赤いアイコンのヤツですか? 」


「うん? ……うん。まあ、そうね」



雫の懸念していた通り、アプリの質問をしてきた。


『もし、アプリの事を聞かれたら「なんか面倒になって使わなかった」って言うのよ』


『操作履歴は消しておいたし、何も不自然なところはないんだから』



よし、想定通りだ。


「使おうと思ったんですがなんか面倒になっちゃって。折角、お貸出してくださったのにすみません」


練習した甲斐があって滑らかに言えた。


「そっか、あのアプリ面白いんだけどね。でも、起動もしなかったの? 」


「いえ、起動はしてみたんですがなんか気分が萎えちゃって」


全く触っていないのも妙だから起動はしたことにしようと雫と打ち合わせ済みだ。


「あのアプリの赤い背景とロゴが可愛くなかったですか? あれ見るとテンション上がるんだけどなぁ」


「確かにあの赤の間取り図をイメージしたイラストは印象に残ってます」


「いい赤だったでしょ?」


「はい、でも僕は青のが好きですけどね」


何気ない会話をしているうちにアパートに着いた。我ながら見事なコミュニケーション能力だと思う。


車から降りてお礼を行って立ち去ろうとしたときに、高瀬さんが声をかけてきた。


「私、何となく山内さんの女の子の好みが分かりましたよ」


何の話だろうか。


「ショートカットに大きな瞳、ラフな格好を好む、おしゃべりな女の子でしょ」


「えっおう、いや、そ、そんなことは」


「あっはっはっ、わかりやすいわ」


「な、なんでそう思ったんですか? 」


「女の勘。もし困ったことがあったら言って下さいね」


「はい」



──ということがあった。アプリを起動する。


『遅い!やっとアプリを起動してくれた』


雫は頬を膨らませこちらを睨みつけている。


……雫の顔を見るのは内見以来だ。


髪は肩まで伸びて服は黒いノースリーブのティーシャツに淡い藍色のワンピースを着ていた。


なんか、新鮮だ。


「あの……髪伸びた? 」


『今はセミロングな気分なの。そんなことよりちゃんと高瀬をやり過ごせた? 』


「バッチリだよ」


『余計な会話はしなかったでしょうね?


「ちょっと雑談したくらいだよ。あっ、でも予想通りアプリのこと聞かれたよ」


『どんな会話したの? 』


「こんな話をしたんだけど──」


…………


額に手を当ててブンブンと顔を左右に振る。


『アホ、亮のアホ、バカ、あーちゃん』


「あの会話にまずいところあった? 」


好みの女の子の下りは関係ないので、伏せて話したが、何かまずかったらしい。


『絶対、まずいよ。うまく言えないけど、高瀬って確信があると同じことを何度も聞くんだよ』


「……そんなポイントあった? 」


『やたら、「赤」を何度も聞いてるじゃん。絶対に何か勘ぐられた! 』


気にし過ぎではないか……と、個人的には思う。 コロコロと変わる雫の表情をぼんやり眺めてしまった。


「……ねえ、雫」


『何よ? 』


「雫はショートカットの方が似合うと思うんだよね」


『な、なに? 突然』


あっ……うっかり口に出してしまった。すると、一瞬で髪型がショートカットに切り替わった。


あ、いい。凄くいい。


『そ、そうね。私もいつものショートカットに戻そうかなって思ってたところなの。亮も髪切ったんだね。スッキリしてていいよ、その髪型』


「あ、ありがとう」


『そうじゃなくて、高瀬にバレてる気がする。どうしよう』


「大丈夫だと思うけどなぁ」


確かに好みの女の子はズバリ当てられたが。何より高瀬さんが悪い人には思えないのだ。


「とにかく、今日からよろしく」


『あ、うん、よろしく』


その時、ポーンという音が聞こえた。画面には通知が表示されていた。


条件反射で通知をタップしてしまった。



「今、何してる。少しだけ、話さへん?」



トラウマからの邂逅だった。

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