21g
ルリア
21g
カランッ────
わたしが今しがた開けたドアについているベルが鳴り、顔馴染みのマスターが振り返る。
「あれ、久しぶり」
そう言って出迎えてくれた彼に、わたしは曖昧な笑みを無理やり口元だけでつくり、いつも座るカウンターの端の席に向かう。
上品なクラシックとわたしの鳴らすヒールの音が不協和音になって店内に響く。
「ビールでいい?」
そう聞いてくるマスターに「ビール"が"いい」とぞんざいに答えるわたしはきっと、いまのこの瞬間、世界でいちばんかわいげのない女だと思う。
黙って差し出されるおしぼりを形だけ受け取ってテーブルに置いてコートを脱ぎ、椅子の背もたれにかける。
「コート、ハンガーにかける?」
「んー、いいや、だいじょぶ」
そう答えながら少し高めの椅子をガタガタと引き出して口のなかだけで「よっ」と言いながら座る。
一旦保留にしたおしぼりを手に取り、広げてからぎゅっと握る。
それはとてもあたたかくてほっとする。
「おまたせ。どうぞ」
コースターにのせたグラスビールをすすすっとわたしの方に差し出すマスターの仕草を見て、ふっと口元が緩んだ。
「なんだよ、なんかおかしかった?」
「ちがうの。なんか"いつもと同じだな"って思ったら気が抜けた」
「そ。入ってきたときみたいなぶっきらぼうな感じじゃなくて、そうやって笑ってたほうがかわいいよ」
「うるさい」
キッとにらむわたしの表情と投げた言葉を、なんとも思っていないようににやりと笑うその表情の奥には「心配したんだけどな」という色が見え隠れする。
それに気がついたわたしも、そんなことは口にはしない。
そういう"気がつかないふり"はきっと、大人のたしなみだ。
差し出されたビールを手に取って口につける。
ぐびり、という音が喉で鳴らないように、響かないように、静かに味わう。
「ん、きょうも美味しい」
「おれが注いでいるからね!」
「サーバーのお手入れがちゃんとできていてえらいですねっていう褒め言葉だよ、ここは」
「どっちにしろおれが褒められている」
「うるさい」
わたしがこのお店に初めて来てから何年経ったか、もうわからない。
あの日のわたしはなんの気の迷いを起こしたかわからないけれどこんな薄暗いお店に足を踏み入れてしまった。
どうしていいかわからないまま、手渡されたメニューを見て悩み、「ギムレットをください」って言ったんだっけ。
マスターはそれを聞いて「こいつ、慣れてるな」って思ったって言ってた。
ぜんぜん、なんにも、わたしは慣れてなんていなかったけれど。
でもギムレットは美味しかった。
通ってわかったのは、それに限らずこのお店のカクテルはなんでも美味しい。
あの頃からこの場所も変わらない。
だからこうやって、どこに行ったらいいかわからないときには足を運んでしまって。
「そういえばさあ──21gって、なんのことだかわかる?」
「え、21g?重さ?」
「そうだね、重さ。なんだと思う?」
「マドラー……とか?」
「たしかに、マドラーの重さとか計ったことないけどそれくらいかも」
あはは、と笑うマスターは、さっきから貼りつけていたなんでもない営業の顔からわたしの知っている顔になった。
「スケールがあるから計ってみよ、ね、言ったからには気になるでしょ」
「21gがどこからきてどこへ行ったのかも気になるけどとりあえず計ってよ」
わたしたちはそんな些細なことで未知の世界を旅する少年少女のようにはしゃいだ。
これまで気にすることがなかったことの真相を暴くのは、いつだって楽しくあってほしい。
「みて!18gだって!」
「うん、スケールの表示なんてこっちからはぜんっぜん見えないけど惜しい!3gの差かあ、さすがに3gを体感で当てるのは無理かも」
「でもマドラーって18gなんだ。ものによってちょっとちがったりするのかな。……うちの店にあるマドラー、ぜんぶ計ってみる?」
「きっと朝になっちゃうから、あとでひとりでやって」
そうやってひとしりき笑い合ったわたしたちは、きょう最初に顔を合わせたときの、あのぎこちない空気をものともしないほどに打ち解けていた。
「それで、21gって、なに?」
「ああ、うん……21gってね、魂の重さって言われてて」
「魂の重さ?え、魂って、魂?」
「そう、魂。この、心みたいなやつ」
握った右手でトントンっと左胸を叩く彼は、すこし神妙な表情をしていた。
先ほどのわたしたちの騒がしさが嘘のような静寂が空間を支配する。
そしてわたしたちは、目を見合わせたまま、次の言葉を発せないでいる。
ビールを飲み干してしまったわたしはすこし手持ち無沙汰で。
「あー、ギムレット、んー、やめた、ちょっと甘いのにしよ。グラスホッパーで」
「グラスホッパー、好きだね」
「ん、ここのがいちばん美味しい」
訪れる沈黙。それすら心地いいんだ。この場所は。
なのに──
「アメリカの学者がね、研究したんだってさ」
うん、と声にならない相槌を打つ。
聞こえていても聞こえていなくても、きっと彼にはどうでもよくて。
「ひとが死ぬとき、21gだけ軽くなるんだって」
「うん」
「21gなんてさ、こんな、こんな軽くて」
「うん」
「あいつが生きてた時間とか、おれが抱きしめていたあいつだって」
「うん」
「21gだって」
「わたしたちは21gのなかのどれだけだったんだろうね」
「おれら、そんなに軽いかな」
「そこまで軽くない、って思いたい」
「でもそれが、彼女のすべてだったとしたら」
「思いの重さは計れない」
「だけどさ」
「ねえ、あのさ」
「なに」
「もしわたしたちが死んだとしても、同じように21gしか減らないんだよ」
「──────うん」
「その21gのなかに誰がいる?誰が残る?ねえ、たったそれだけの重さのなか、わたしたちはなにを残せるの」
はっとした彼の表情はきっと、一生忘れないと思う──そのあとに浮かんだなにかをあきらめた表情の彼からは、さっきまでの切羽詰まった雰囲気は消えていた。
「21gのなかのちょっとで済む存在なんだね、ほんとうのおれらって」
「そうだね、ちょっと軽すぎるかも」
そうやってまた、ふたりで目を見合わせて笑った。
それだけで過ごせる夜が、ここにはたしかにあった。
21g ルリア @white_flower
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