思い出

それは、淡くて遠い、けど新しい記憶。


『……昇也しょうや

『なにじっちゃん!』


山の奥。木々、林が立ち乱れる獣道すらないその先で、ひっそりと佇む民家が一つ。


苔やツタひとつとしてついていない、新品同様の綺麗な家の前は広く、そして真っ平に拓けられていた。


そんな更地の上に立つ2人。

1人は少年。


服の繊維はボロボロで、ほつれ破れの繰り返された薄茶色のTシャツと、ダメージを追いすぎた茶色と青色の混じるジーンズを見に纏っている。


しかし、それに対しての不満は一切なさそうだった。

歳は中学入りたてか、それくらい幼顔で身長も低い。


無邪気に名前を呼んだ男性に近づいていく顔はワンパクといった太陽のような人相で、そこにとてもワクワクとした感情を持ち合わせている、そんな表情をしている。


はっきり言って眩しい。


それを前に、2mは裕に超えているのであろう男が1人。


長い白髭と、乾燥させた植物のつたで後ろに括った長い髪を生やした年寄りの男は、歩みを寄せる昇也という少年を狙うように天高く手のひらを掲げ上げ、そして。


ーーベシーンッと強く、けれどとても乾いた音が一体に轟響く。


鞭のしなりが生やさしいと思えるほどの勢いで昇也と呼ばれた少年の頭は引っ叩かれていた。


一度強く地面に打ち付けられるが、その際の斜角と勢いはその場にとどまるという状況を殺してしまった。


少年の耳を切り裂くように届く風の音。

昇也は吹き飛ぶ体を何とか制御しようと地面に手を伸ばした。が。


(いつもなら間に合ってるのに!!)


その指は少し土を盛り上げただけで、地形は少しの傾斜に差し掛かったためなすすべなしと空を突き進む。


体の制御はもうできない。何かにぶつかるまで止まれない。そんな、普通ならば絶望するような状況でも、少年の目は慣れからくる落ち着きがあった。


『ふう…』


呼吸をする。


空気を思いっきり吐き出して、少年は歯を食いしばる。


(今日のじっちゃんの殴り…いつになく気合入ってるなぁ。木200本もう通過した…)


関心というか感銘というか感嘆と言うか。

昇也は「んー…」と喉を鳴らして唸りながら、ギュッと体をひねり、地面に向いていた背中を空に向ける。


そして、両足は綺麗に並べ置かれていた。


その足に靴はなかった。分厚い皮が靴の代わりだと言わん程のしっかりとした素足。長年靴を履いていなかったのだろう。


(もう200本ってことは、259本目に到着するまであと3秒か。気合を入れろ……舌を噛まないように歯をかみ合わせて)


『………ーーふんっ!!!』


259本目と呼んだ木、それはこれまで絶妙に空いていた木々の合間を遮るように佇んでいる一本のとても太い木の事。



昇也はそこに足をビタンッとくっつける。



ただ、普通の接地ではない。


足の指、足の腹、かかとの順を追って、しっかりと木を足でつかみつつ、かかとへの負担を軽減する形でだ。


足と木が接触する。

昇也の体全身を貫く衝撃。

吹き飛ぶ細やかな木の皮の破片。

メバキッと木がひび割れる音を少年の耳は受け取っていた。


今まで何度も足を置いたその木は、やはり折れることは知らないのか。



しかし、その太い木はドスンときた強烈な重みに根っこから傾いた。



昇也は接地と同時に勢いよく腰を落とし、足にその負荷を強くかける。踏ん張る脚に蓄積する力。


(じゃあ、俺も新記録ださないとな!!)


俯いていた視線。

グーっと首がまっすぐ伸びる。


その先はさっき通過してきた空の道。

黒い眼に宿る、強くて眩しい眼光はギュンッと空を割いた。


ニヒリと上がる口角。歯を見せる昇也の目はとてもギラギラとしていた。


そして、昇也を中心に充満する、強い甘い香り。


昇也の目には一枚の花弁の模様が薄く映った。


途端、全身の筋肉が張ちきれんと言わんばかりにブワッと膨れ上がる。

浮き出た血管。

熱い吐息。

漲る力に、それを使いこなさんと構える昇也。


(……万能感、絶対強者、世界最速、恐怖なんて感じない。痛みもない。俺に誰も追いつけない。…だから新記録も出せるだろ、俺ならさぁ!!)


ほんの一瞬の空気の静寂。

鳥達の囀り、空気の流れる音、猪がキノコを探す鼻の音。狸の草木をかき分ける音熊の足跡。

そんな雑踏すらまとめて消し去った。


破裂。


背後でちぎれた根っこを昇也の背中に見せながら倒れ行く太い木には、もう胴体すら残っていない。


しかし彼はそれを見ることなく、その代わりとただ前を見て、一歩一歩、歩幅を限界まで伸ばしながら駆けていく。


途中途中にある木の根を軽やかにかわして加速する。

しかし、突然と進路に差し掛かる暗い影。

降り落ちてくる岩、倒れる木々。


進行を妨げる事態。


この時選択する行動はこの木々よりも高く飛びあがり回避すること。岩を避ける事。または迂回すること。

だが。


(じっちゃんめ……)


昇也は違った。


(逃亡それすなわち死。全力で直進こそ生きる可能性! それに…避けてたら新記録なんて更新出来ねぇ!!)


ぐんっと沈む腰。大きく前方に傾く姿勢。両腕を顔を隠すように前で畳み、右肩を突き出した。


(それに絶対強者にとってこの程度! 阻む壁ですらない! 絶対強者に痛みなどない! 恐怖なんてものは存在し得ない!!)


地面が割れた。


それと同時に飛来する大岩と倒れ落ちてきた木々数十本もろとも、鋼鉄の壁に衝突した様に砕け散った。


吹き飛ぶ多量の木と葉と岩の破片。


昇也にとって、もとより発泡スチロールよりも重量なんてなかった。だから空高く吹き飛んでいる。


空を泳ぐ影の海。

足元が暗く照らされる。

けれど次の瞬間にはもう突き抜けている。


吹き荒れる突風。


昇也は雑木林の先に見える増えてきた光に体を捩じ込もうと、さらにギアを上げて突き進んだ。


(いつもよりこれ! 早い!)


ズザンっと、分厚い足の皮に信頼を起きながら滑りこみ、土を高く高く盛り上げ、砂埃を高く高く高く叩き上げ、そうしてなんとか勢いを殺した昇也。


そこ足の裏には土と泥とほんの少しの切り傷からにじんだ血がついていた。


『じっちゃん! 新記録! これ絶対新記録!!』

『じっちゃんはやめろと言ってるだろうっ、師匠と呼べ』


昇也は声高らかに拳を二つ握り、エネルギッシュに飛び跳ねながら老人に語り掛けるが、じっちゃんと呼ばれた白髪の長髪と髭の老人は頑として人相悪く昇也を睨んでいた。


『嫌だ!』

『……最後まで、まったく』

『いで!』

『はぁ。まぁいい。今日で最後だな、お前との生活は。…俺にとってはお前との時間、とても短かった』

『え、短かったかな? 言っても確か………』


再び昇也の目に花弁が映る。

甘い香りも漂った、がすぐ花弁の影は消え、香りも霧散した。


『……10年』

『……10年、か。まぁ、若い木がそれなりに育つ頃か。……とはいえ、短かった。この時間の流れがアッと過ぎる感覚、少し悔まざるをえんな』


哀愁漂う老人の顔を、昇也は不思議そうに見つめていた。


『でも、短くも濃かった。それは間違いない。楽しい10年だったよ。代り映えのない生活に彩をありがとう、昇也』

『え、うんまぁ、うん?』

『昨日も言ったが最後なんだぞ、お前も少しは哀愁のようなものを持ち合わろ』


と、老人はすこし口をむくれさせながら言うが、当人はあっけらかんとしたまんまだった。


『最後って言ってもまた会いに来るよ。いつになるかはわかんないけど』


そんな一言。老人は悲しそうに見つめるまま、何も言わず昇也を抱きしめた。

そうしてしばらくの抱擁のあと、老人は優しく昇也の頭をなでながら言う。


『お前なら、お前のその馬鹿元気さなら、人里で受け入れられないこともないだろう。いやまぁ頭が馬鹿な部分は知らぬがな』

『え、ば、ばか? 馬鹿って言った? え』

『お前ならなんとかなるだろう』

『え、じっちゃん馬鹿って言った? え』

『学園でも、頑張れよ』

『え? ねぇ』


大きくごつい掌は老人の腰に戻っていく。


『そうだ、これを』

『……これは?』

『呪符だ』

『…呪符……?』

『お前、学園についての話忘れたんか』

『俺馬鹿だから忘れた』


意趣返しだ。


そういやらしい眼と歯をみせつける昇也であったが老人はため息を吐いて説明を始めた。


『呪符。端的に言えば物凄く強い力が込められた札だ。使えばその札に込められた術が展開、発動する。使い方は三つ』

『いや、ごめん覚えてる』


老人は指を一本まっすぐ立てる。


『体が札と1寸以内で接着している状態で発動する「所有発動型」』

『知ってる』


次は2本。

人差し指と中指がぐっと空へ伸びている。


『特定の印相を結ぶことで発動させる「干渉発動型」』

『……くそじじいあだ!?』


そして3本目。


『特定の術にのみ適応される使用方法。札をちぎり、所有者がそれぞれ同じ印相を結ぶことで発動する「同位体干渉発動型」以上だ』


老人は呆れた様子で昇也を見つめていた。


『知ってるって言ってんじゃん阿呆!!』


抗議の声を大にして轟かせる昇也であったが、その声は老人の心に届かない。

むしろそうじゃないと一蹴されてしまった。


『お前のその知っているは、能力が記憶している、だ。通常の記憶は反復。一朝一夕では無理だ、少なくともお前にそんな才能はない』


ーーだから何度も言っているが。


『記憶を能力に頼ってたら痛い目を見る。改めて言うが早めにやめろ。というか、今日から相当な事がない限り禁止だ』

『いやっでも俺覚えるの苦手なんだって!』

『……馬鹿を背伸びで補うか、賢いをさらに能力で補うか。どちらの方が効果的か考えろ』

『やーだ! やーだ! じゃあ馬鹿でいーい!!!』


その瞬間、グラッと空気が変わった。雷が数百本まとめて落ちてきたかのような強烈な空気の響めき、体を強く揺さぶる振動。


周囲を散歩していた動物たち、小鳥たち、虫たちは静寂の反転に全力で怯え逃げ去った。

強くさざめく木々。がさがさと。


でも今は。


『ばかもん!!!!!』


無風だ。


耳をつんざき、畏怖すら与えてくる強烈な喝。


『これに関しては毎度言っておろうが! ふざけていい話ではない、真剣に考えろ、俺は何度お前に注意した!!』


マジ怒りだった。

流石の昇也もこれには怯み、たじろぐばかりで、言い返す言葉もないとうつむいた。


『なにもふざけるなとは言っていない、それもお前のいいところだ。不真面目さは時に楽しい。だが、切り替えができんならいらん!』

『…うん……』

『はき違えるな。俺はもうお前を見れるわけじゃない。今からお前はここを出て人里で人々と暮らす。人々だ。そしてお前が行くところはどこだ』

『日本……えっと、日本、日本のえっと』

『チラチラ見るな、待ってやる。思い出せ』


どこだと言われた行き先を昇也はすぐには思い出せなかった。しかしさっきの今、それも怒られているとなると流石に能力の行使はしようと思えない。


それに、昇也の能力は行使する時の特徴があって対外的にとても分かりやすい。

隠して発動なんて無理な話でもあった。


そうして考え込みつつ、ブツブツと言葉を連ねる事20分。


『あっあっあっ!! 思い出した!』

『おう、言え』

『日本能力者育成機関! …が! 手がけてる日本能力者学園! めっちゃでかい!』

『おう、そうだ』


老人は正解した昇也の頭をなでると次に肩に手を置いてしゃがんだ。


『正確に思い出す、それはかなり難しいことだ。だが、お前は馬鹿だが地頭がいいみたいだ。お前は頑張ればなんだってできる。苦手なこともまっすぐ突き進めばいつかは得意なものになるもんだ』

『逃亡それすなわち死、直進こそが生きる可能性』

『そうだ。お前なら頑張れる。さっきみたいにな。だから逃げるな。疲れたら逃げるのではなく歩くんだ。止まればもっと疲れるし、もっと逃げたくなるからな』

『うん』

『昇也。お前はできる子だ』


まじまじと見つめられる昇也の瞳。

老人が見つめる可能性。


昇也はその可能性の自覚はない。


だが、きっと知らなくてもそれを成し遂げてくれるだろうと老人は信頼している。


たった10年、されど10年。


この凝縮された年月は短いのだけれど万年の人生なんかよりも濃いものだった、そういえてしまうほど老人にとって鮮烈な10年。


『頑張って来いよ』

『……じっちゃん』


昇也もちゃんとその瞳を見つめ返す。

今にも飲み込まれてしまいそうな、意志の強いどっしりとした瞳。


昇也は声を震わせながら言った。


『じっちゃんの目って怖いよねアイター…』

『なぁにを失礼な!!!』

『ほんとだから…』

『尚の事失礼な!』

『あと…』

『何だまだあるのか』

『………。…俺、普通にさっきの…泣きそうになった』


昇也は歯を強く噛み合わせる。

別に泣きたいわけじゃない。

けど、身体が勝手に震えてしまう。


胸の奥底を叩いてきてしまう。


『じっちゃん…。俺さ、やっぱりじっちゃんの事…じっちゃんのことーー』


それは追い縋る様で。


『ーー大好き…みたい…でさ……』


年相応で。


老人の服を掴みながら泣きじゃくるその弱々しい姿は、老人にとって初めて見る昇也の姿だった。


老人はぎゅっと優しく抱きしめ返す。


『学園っ、なんかよりも…じっちゃんとっ…ぃたい…』


そのあふれる涙と悲しむ口から明確に明かされる、昇也の心情。


老人は思わずと力を込めて抱擁しようとするが、殺してしまう。そう、ためらった。


『……じっちゃん』


だが。


『…なんだ』

『俺……昔よりも強くなった』

『……おう』

『だから…別に、死なないよ』


まるで心を見透かしたような言い方。


『なんだ、気遣いか』

『……うん。なんか…手が…震えてるから』


そういわれて気づく、老人自身の離れて行ってしまうという恐れ。怯え。

これが子離れというものかと、実感する。


(この歳でまだまだ新しい経験をさせられるとは、若い刺激の大切さがわかるな)


ふいに老人はガハハと笑った。

森全体がさんざめいてしまうほどの強烈な笑い。


『よし昇也、歯ぁ食いしばれ!!!!』

『え、お、おぉぉおおお!!!』


軽々と抱きかかえられ、瞬く間に足が地から離れていく。2mを超える老人の背丈に対してまだ成長期の昇也は160センチ。微妙に怖い高さ。


『さぁいくぞ!!!!!』

『え、あ、ちょっとまぁぁああぁあぁあああああああああああ!!!!!!!』


獣道すらない、森の奥。

コケも蔦もない、新品同様の民家が一つ。


その背には見上げても目に収まりきらないほどの大樹が立っている。


大きすぎる木を前に立つ家はどうしても米粒みたいで、でもそんなところで10年ほど暮らしていた人間は確かに存在していた。


それを見下ろし佇む大樹はどこか優しく微笑んでいた。

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