“井の中の蛙”
<CDや本を買うというのは、選挙みたいなものだ>
自分の気に入ったCDや本を買う事によって、それを作った人、
それに関わった人にお金が渡る。その事により、次に繋がっていくのだ。
買う人が多ければ、次はもっとお金をかけれるが、あまりに少なければ、
次は無いかもしれない。
CDや本だけでなく、買うという事自体、そのもの、それに関わるものに対して、
一票投じていると言って良い。
気に入っているもの、というか自身で選び取ったもので、
何らかの形で表されているものは、すべてそうだろう。
自分の行動というのは、自分で選んだものであり、その行動を行う事自体が、
その行動をプレゼンしていることになるのだ。
結局、普通に生活しているだけで、自分が気に入っているもの、
自分が選び取ったものを、プレゼンしている事になるのだ。
と、ここまで書いたところで、
リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と繋がった。
この本の中で、我々は遺伝子の乗り物であり、又、情報にとっても乗り物だ、という事。
だが、それだけでは留まらず、あらゆるものが乗り込んでいるのだ。
<アドバイスとは何か?>
<引いて開く戸をいくら押しても開かないのだ>
引いて開く戸だと知らないから押しているのだろうが、
押して開かないのは、分かっているのだ。
だから、それ以外の事を試みなければならない。横にずらしてみたり、上にあげてみたり、
あるいは、もっと強く押してみたり。もっと強く押してみるのは最後のほうの手段である。
壊してしまうかもしれないからだ。
<行動しなければ、何も変えられない>
試行錯誤しなければ、どうすれば思うように出来るかが分からない。
行動が裏目裏目と出て、最悪の状態になったとしても、何もしないよりも良い。
しかし、最悪の状態になるまでに、試行錯誤の効果が表れ、状況は良くなるだろう。
自分は、自分のために、努力しなければならない。
<死刑について>
推測ではあるが、
反対派は『殺人はダメ。そして、死刑もまた合法とはいえ、殺人に変わりはないから。』
賛成派は『犯罪防止、抑止として必要。』って感じか。
核兵器とか、自衛隊なんかと同じで、理想としては無い方が良いが、
現実的にはかなり危険を伴うために、無くすのは難しい。
<理想と現実がぶつかる時、勝るのは現実である。(現実なのだから当然。)>
理想と現実がぶつかるのは、理想を実現する有効な方法が、
未だ見つかっていない証拠である。という事は、考えて遊ぶ余地があるという事。
<話し合いについて>
Aだと主張するために、なぜならBだからと言う時には。
先ず、Bだという事を共有していなければならない。
していなければ、さらに、BであるのはCであるからと言わなければならない。
しかし、そのためには先ず、Cだという事を・・・・
と続けて行き、共有するものを見つけ出さなければならない。
もしみつけられなければ、それについての話し合いは成立しないという事。
それと、もう1つ、
Xだと主張するために、なぜならYだからと言う時には。
YならばXという関係そのものが、共有されていなければならない。
でなければ、
A(YならばX)を主張するために、なぜならBだからと言わなければならない。
が、そのためには・・・
結論
話し合うためには、先ず何を共有しているかを見つけ、そこから展開していく。
<間違えた>
自分に対し「間違えた。」というのは、過去の反省。といっても、悪かった訳ではなく
(その時点では最善)、より良い選択肢があったという事(現時点で最善)。
<能力は使われなければ意味が無い>
<おかしな考え>
「Xであってはならないのにもかかわらず、現実にはXである。」という考えはおかしい。
現実にXであるのにも関わらず、Xであってはならないと考える事に、意味が無いからだ。
<氷山の一角>
「氷山の一角」という捉え方について、表に現れているのは、ほんの一部であると、
しかし、この考えには問題がある。隠されたものがあり、
それが少しずつ表に出てくるにつれ、隠されたものが、増えていってしまうのだ。
自分の事を話せば話すほど、秘密が増えていってしまうのだ。
<間違っている>
ただ単に、「間違っている。」というのは、無意味。
何らかのルール上において、そのルールに反しているという場合においてのみ、有意味。
<命の尊さ>
少年による殺人が起こった時などの、街頭インタビューでの、「命の尊さを教えなければならない」ってやつ。
まず、命に尊さが含まれていないのに、どうやって教えるのか。強引に結び付けるしかない、マインドコントール。
それに、尊さって何?
<どちらに従う>
A氏とB氏がいて、
A氏は「自分が行動Xをした方が良い」と考えており、
B氏は「A氏は行動Xをしない方が良い」と考えており、
又、A氏にその事を伝えている。さて、A氏はどちらの考えに従うか?
当然、A氏自身の考えに従う。
<間違っている>
他者に対し、出来ればある事をして欲しくない。が、別にしても構わないという時、
これをそのまま伝えるより、して欲しくない、とだけ伝えるほうが良い。
他者に対して「間違っている。」というのは、
その他者も自分と同じルールにのっとっていると考えているから。
しかし、「間違っている。」事により、
その他者が自分とは違ったルールである事が分かるのだ。という事は、
「間違っている。」というのは、「自分とは違ったルールに従っている。」という事。
<問題解決>
Aという問題がある時、Aについて考える事により解決すれば良いが、
そうでない場合、それ以上Aについて考えるのは無意味。
この場合、新たな問題を解決しなければならない。
その問題とは、Aのような問題を解決できない思考回路が問題なのだ。
だからまず、それを改良しなければならない。
そして改良を済ました後、Aを入力してやれば良い。
そうすれば、自動的に解決してくれるのだ。
<嘘なのに正しい>
ある質問に対して間違った答えを言うが、それは質問者が希望する答えである時、
その質問に対しての答えとして、自分にとって間違っていて、かつ正しい。
面白い。自分の発言において、正しさは二種類あるという事だ。
<ボトムアップ>
「現状を認識し、問題を見つけ、改善策を考え、実行する。」はダメダメ!
これでは、改善策が見つからない可能性があるからだ。これが悩みの元にもなる。
正しくは、
「現状を認識し、こうしたらもっと良くなるという改善策を見つけたら実行に移す。」
問題を見つけるのではなくて、こうしたらもっと良くなるという案を思いついたら、それを実行に移す。
案が無いという事は、今のところそれがベスト(一番マシ)だ、という事。
簡略化「現状認識、改善策発見、実行」
で、これを続ける。現状から少しずつ良くして行くって事。いきなり理想を持ち出さない。
元々無理である可能性もあるし、最善型が1つとは限らないのだから。
『現実は正しい』『問題は答え(解決策)がなければ問題では無い』
<他人の評価>
基本的には・・・、特に気にする必要は無い。
自分に損害が出てはいけないが、利益を得ないのは構わない。
自己の利益を考えて他人の評価を上げようとすると、人はなんとなくそれを感じ取るものだ。
結局、何もしないよりも悪くしてしまうのだ。
他人の評価に関わらず、得をしようとするとその得の分、どこかが(誰かが)損をしているという事になる。
それで、全体として上手くいくとは思えない。
損をしないように心がけてさえいれば、それで良い。そうすれば、他(他人)も損をしなくてすむから。
当然、一人一人、価値観が違うのだからこれで完璧という訳ではない。
*損得というのは、自他間のやり取りで発生するのだから、相手が人間の場合は互いの納得の上でのやり取りを行えば良し。
<長所と短所>
それだけでは特徴でしかなく、長所や短所にはならない。
特定の状況下においての有利不利に関連して初めて、その特徴が長所や短所になる。
ある場合での長所が、短所になる場合もある。
短所の存在によって、他に長所が生まれるという事もある。
例えば、盲人。盲目の為に触覚や聴覚が発達。
で、深夜に災害に見舞われ真っ暗な中を逃げなければならない際、有利になる。
といっても、一般的な生活全体を考えると不利。
長所とは、生かす場が多い特徴。短所とは、生かす場が少ない特徴。
生かせない場に置かれた長所より、生かせる場におかれた短所の方が良い。
と言うか結局、「特徴を生かすようにすれば良い」という事。
<分岐点>
分岐点の前では、分岐後の良し悪しについて語れるが、
分岐後では、それしかない(比べるものが無い)のだから、良し悪しについて語れないのだ。
*しかし、分岐点の前での、分岐後の良し悪しは推測でしかない。
<腹を立てる>
「これは不可能なのではないか。いや、意味を間違っているだけだろう。」
それがそうであるのは、当然のことなのだ。
その当然の事に対して腹を立てるとはどういう事だろうか。
「人間は何で腕が二本しかないねん。」「何で後ろに目がないねん。」
「何で地球の重力が9.8gやねん。」「何で鳥のように空を飛べへんねん。」
って、マジ切れしいひんやろ。
何でかって、それは当ったり前の事やからやろ。それと同じやん。
その人の行動は、その人がそう行動する人であったから、そう行動した。
また、そう行動したのを見て、その人がそう行動する人である事が分かるのである。
それに現実そうであるものに対して、腹を立て、それはおかしいと思うのはどういう事か。
現実に対して「間違っている」と言っているのだ。
現実を間違いだと言うという事は、非現実が正しいと。
そして、非現実を正しいとしてしまうと、永久にその正しいとされる状態になる事は無く、
また、本人は間違っているとされる現実の中に生きているため、
その間違った世界で生き続けなければならない、という事になってしまう。
現実に焦点を当てて生きていかなければ、無駄に悩み苦痛の多い人生を送る事になるだろう。
この世の中には既に現実ではなく非現実を指して「本当は」とする捉え方が蔓延しており、
そしてその中に生まれ出でて育つため、自然にそういった捉え方になってしまうのだ。
周りがそういった状況であるため、自分で気付き、自力で抜け出さなくてはならない。
<腹を立てる>
その人が腹を立てている事を表現しないなら、結局、その人は腹を立てていないという事になる。
結局表現しないのなら、端から腹を立てなければ良い。
「腹を立てる事によって、そのまま表現はしないが他の形で表現するため、腹を立てることは必要。」
と言う意見があるだろうが、それなら、その表現に必要な部分だけ感じれば良い。
特に感情的な部分は省いた方が良い。ストレスにしかならない部分だからである。
自分は自分の正しさに基づいて行動し、その人はその人の正しさに基づいて行動している。
<~すべき>
他人に対し「あなたは~~~すべきだ。」と言うのは、自分の願望を述べているに過ぎない。
そして、それを受け入れるかどうかは、言われた側の自由である。
<現実を知ってもらいたい>
「現実を知ってもらいたい。」という人がいる。
その現実はその人に解釈されたその人の現実である。
<やりたい事柄が確保されているなら、それ以外の事はどうでも良い>
<義務は自分が勝手に決めているだけ>
<欲しい>
欲しい、欲しい、して欲しい。というのは無意味。
欲しい、欲しい、して欲しい、から、自分はどうするか。
<嘘>
嘘をつくためには、本当の事を知っていなければならない。
・・・・あなたは、嘘をつくことが出来ますか?
<切り絵>
折り紙から、ウサギを切り抜く。切り抜いた方は当然、ウサギである。
そして、切り抜かれた方もまた、ウサギである。
世界から、自分を取り出す。取り出した方は当然、自分である。
そして、取り出された方もまた、自分である。
両方合わせて自分、という事ではない。
切り抜いたウサギと、切り抜かれたウサギを合わせると、ウサギは無くなるのである。
<SF論>
「やりたいけど、現実的に考えてみて、やれない。」ってのはおかしい。
現実に無い状況を想定して、その状況でやりたいって思うのは、空想上の遊びでしかない。
もし、本気で思っているなら、病院行きである。
結局、「やりたいけど、現実的に考えてみて、やれない。」ってのは有り得ず、
それは、「やりたくない」って事でしかない。
何か、「やる」の方が前向き・積極的で、「やらない」は後ろ向き・消極的な感じに思うかもしれないが、
「やらない」=「やらないをやる」って事で、どちらも「やる」なのだ。
(当然、どちらも「やらない」とも言える。)
<自分探し>
「自分探し」ってのが良く分からん。
自分は既にそこに示されているではないか。
それに探して見つかったものが、元々あったモノなのかどうか分からない。
もしかすると、新たに想像したモノなのではないか。
そうすると、探そうとして見つけてはいけないのではないか。
「自分」は探すモノでは無い。
誰も悪くないし、何も悪くないのだ。
そして、君も・・・
『常識』を語るのは常に個人である。
何でも話せるのが親友なのではなく、何も話さなくても良いのが親友。
連れ合いとは、向き合うのではなく、同じ方を見る。
つまり、同じ目標を目指す同士、人生を共に戦う戦友という事。
連れ合いの為に生きてはならない。
互いの目標の為に、共に協力し生きていかなければならない。
<CDや本を買うというのは、選挙みたいなものだ>
自分の気に入ったCDや本を買う事によって、それを作った人、
それに関わった人にお金が渡る。その事により、次に繋がっていくのだ。
買う人が多ければ、次はもっとお金をかけれるが、あまりに少なければ、
次は無いかもしれない。
CDや本だけでなく、買うという事自体、そのもの、それに関わるものに対して、
一票投じていると言って良い。
気に入っているもの、というか自身で選び取ったもので、
何らかの形で表されているものは、すべてそうだろう。
自分の行動というのは、自分で選んだものであり、その行動を行う事自体が、
その行動をプレゼンしていることになるのだ。
結局、普通に生活しているだけで、自分が気に入っているもの、
自分が選び取ったものを、プレゼンしている事になるのだ。
と、ここまで書いたところで、
リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と繋がった。
この本の中で、我々は遺伝子の乗り物であり、又、情報にとっても乗り物だ、という事。
だが、それだけでは留まらず、あらゆるものが乗り込んでいるのだ。
<アドバイスとは何か?>
<引いて開く戸をいくら押しても開かないのだ>
引いて開く戸だと知らないから押しているのだろうが、
押して開かないのは、分かっているのだ。
だから、それ以外の事を試みなければならない。横にずらしてみたり、上にあげてみたり、
あるいは、もっと強く押してみたり。もっと強く押してみるのは最後のほうの手段である。
壊してしまうかもしれないからだ。
<行動しなければ、何も変えられない>
試行錯誤しなければ、どうすれば思うように出来るかが分からない。
行動が裏目裏目と出て、最悪の状態になったとしても、何もしないよりも良い。
しかし、最悪の状態になるまでに、試行錯誤の効果が表れ、状況は良くなるだろう。
自分は、自分のために、努力しなければならない。
<死刑について>
推測ではあるが、
反対派は『殺人はダメ。そして、死刑もまた合法とはいえ、殺人に変わりはないから。』
賛成派は『犯罪防止、抑止として必要。』って感じか。
核兵器とか、自衛隊なんかと同じで、理想としては無い方が良いが、
現実的にはかなり危険を伴うために、無くすのは難しい。
<理想と現実がぶつかる時、勝るのは現実である。(現実なのだから当然。)>
理想と現実がぶつかるのは、理想を実現する有効な方法が、
未だ見つかっていない証拠である。という事は、考えて遊ぶ余地があるという事。
<話し合いについて>
Aだと主張するために、なぜならBだからと言う時には。
先ず、Bだという事を共有していなければならない。
していなければ、さらに、BであるのはCであるからと言わなければならない。
しかし、そのためには先ず、Cだという事を・・・・
と続けて行き、共有するものを見つけ出さなければならない。
もしみつけられなければ、それについての話し合いは成立しないという事。
それと、もう1つ、
Xだと主張するために、なぜならYだからと言う時には。
YならばXという関係そのものが、共有されていなければならない。
でなければ、
A(YならばX)を主張するために、なぜならBだからと言わなければならない。
が、そのためには・・・
結論
話し合うためには、先ず何を共有しているかを見つけ、そこから展開していく。
<間違えた>
自分に対し「間違えた。」というのは、過去の反省。といっても、悪かった訳ではなく
(その時点では最善)、より良い選択肢があったという事(現時点で最善)。
<能力は使われなければ意味が無い>
<おかしな考え>
「Xであってはならないのにもかかわらず、現実にはXである。」という考えはおかしい。
現実にXであるのにも関わらず、Xであってはならないと考える事に、意味が無いからだ。
<氷山の一角>
「氷山の一角」という捉え方について、表に現れているのは、ほんの一部であると、
しかし、この考えには問題がある。隠されたものがあり、
それが少しずつ表に出てくるにつれ、隠されたものが、増えていってしまうのだ。
自分の事を話せば話すほど、秘密が増えていってしまうのだ。
<間違っている>
ただ単に、「間違っている。」というのは、無意味。
何らかのルール上において、そのルールに反しているという場合においてのみ、有意味。
<命の尊さ>
少年による殺人が起こった時などの、街頭インタビューでの、「命の尊さを教えなければならない」ってやつ。
まず、命に尊さが含まれていないのに、どうやって教えるのか。強引に結び付けるしかない、マインドコントール。
それに、尊さって何?
<どちらに従う>
A氏とB氏がいて、
A氏は「自分が行動Xをした方が良い」と考えており、
B氏は「A氏は行動Xをしない方が良い」と考えており、
又、A氏にその事を伝えている。さて、A氏はどちらの考えに従うか?
当然、A氏自身の考えに従う。
<間違っている>
他者に対し、出来ればある事をして欲しくない。が、別にしても構わないという時、
これをそのまま伝えるより、して欲しくない、とだけ伝えるほうが良い。
他者に対して「間違っている。」というのは、
その他者も自分と同じルールにのっとっていると考えているから。
しかし、「間違っている。」事により、
その他者が自分とは違ったルールである事が分かるのだ。という事は、
「間違っている。」というのは、「自分とは違ったルールに従っている。」という事。
<問題解決>
Aという問題がある時、Aについて考える事により解決すれば良いが、
そうでない場合、それ以上Aについて考えるのは無意味。
この場合、新たな問題を解決しなければならない。
その問題とは、Aのような問題を解決できない思考回路が問題なのだ。
だからまず、それを改良しなければならない。
そして改良を済ました後、Aを入力してやれば良い。
そうすれば、自動的に解決してくれるのだ。
<嘘なのに正しい>
ある質問に対して間違った答えを言うが、それは質問者が希望する答えである時、
その質問に対しての答えとして、自分にとって間違っていて、かつ正しい。
面白い。自分の発言において、正しさは二種類あるという事だ。
<ボトムアップ>
「現状を認識し、問題を見つけ、改善策を考え、実行する。」はダメダメ!
これでは、改善策が見つからない可能性があるからだ。これが悩みの元にもなる。
正しくは、
「現状を認識し、こうしたらもっと良くなるという改善策を見つけたら実行に移す。」
問題を見つけるのではなくて、こうしたらもっと良くなるという案を思いついたら、それを実行に移す。
案が無いという事は、今のところそれがベスト(一番マシ)だ、という事。
簡略化「現状認識、改善策発見、実行」
で、これを続ける。現状から少しずつ良くして行くって事。いきなり理想を持ち出さない。
元々無理である可能性もあるし、最善型が1つとは限らないのだから。
『現実は正しい』『問題は答え(解決策)がなければ問題では無い』
<他人の評価>
基本的には・・・、特に気にする必要は無い。
自分に損害が出てはいけないが、利益を得ないのは構わない。
自己の利益を考えて他人の評価を上げようとすると、人はなんとなくそれを感じ取るものだ。
結局、何もしないよりも悪くしてしまうのだ。
他人の評価に関わらず、得をしようとするとその得の分、どこかが(誰かが)損をしているという事になる。
それで、全体として上手くいくとは思えない。
損をしないように心がけてさえいれば、それで良い。そうすれば、他(他人)も損をしなくてすむから。
当然、一人一人、価値観が違うのだからこれで完璧という訳ではない。
*損得というのは、自他間のやり取りで発生するのだから、相手が人間の場合は互いの納得の上でのやり取りを行えば良し。
<長所と短所>
それだけでは特徴でしかなく、長所や短所にはならない。
特定の状況下においての有利不利に関連して初めて、その特徴が長所や短所になる。
ある場合での長所が、短所になる場合もある。
短所の存在によって、他に長所が生まれるという事もある。
例えば、盲人。盲目の為に触覚や聴覚が発達。
で、深夜に災害に見舞われ真っ暗な中を逃げなければならない際、有利になる。
といっても、一般的な生活全体を考えると不利。
長所とは、生かす場が多い特徴。短所とは、生かす場が少ない特徴。
生かせない場に置かれた長所より、生かせる場におかれた短所の方が良い。
と言うか結局、「特徴を生かすようにすれば良い」という事。
<分岐点>
分岐点の前では、分岐後の良し悪しについて語れるが、
分岐後では、それしかない(比べるものが無い)のだから、良し悪しについて語れないのだ。
*しかし、分岐点の前での、分岐後の良し悪しは推測でしかない。
<腹を立てる>
「これは不可能なのではないか。いや、意味を間違っているだけだろう。」
それがそうであるのは、当然のことなのだ。
その当然の事に対して腹を立てるとはどういう事だろうか。
「人間は何で腕が二本しかないねん。」「何で後ろに目がないねん。」
「何で地球の重力が9.8gやねん。」「何で鳥のように空を飛べへんねん。」
って、マジ切れしいひんやろ。
何でかって、それは当ったり前の事やからやろ。それと同じやん。
その人の行動は、その人がそう行動する人であったから、そう行動した。
また、そう行動したのを見て、その人がそう行動する人である事が分かるのである。
それに現実そうであるものに対して、腹を立て、それはおかしいと思うのはどういう事か。
現実に対して「間違っている」と言っているのだ。
現実を間違いだと言うという事は、非現実が正しいと。
そして、非現実を正しいとしてしまうと、永久にその正しいとされる状態になる事は無く、
また、本人は間違っているとされる現実の中に生きているため、
その間違った世界で生き続けなければならない、という事になってしまう。
現実に焦点を当てて生きていかなければ、無駄に悩み苦痛の多い人生を送る事になるだろう。
この世の中には既に現実ではなく非現実を指して「本当は」とする捉え方が蔓延しており、
そしてその中に生まれ出でて育つため、自然にそういった捉え方になってしまうのだ。
周りがそういった状況であるため、自分で気付き、自力で抜け出さなくてはならない。
<腹を立てる>
その人が腹を立てている事を表現しないなら、結局、その人は腹を立てていないという事になる。
結局表現しないのなら、端から腹を立てなければ良い。
「腹を立てる事によって、そのまま表現はしないが他の形で表現するため、腹を立てることは必要。」
と言う意見があるだろうが、それなら、その表現に必要な部分だけ感じれば良い。
特に感情的な部分は省いた方が良い。ストレスにしかならない部分だからである。
自分は自分の正しさに基づいて行動し、その人はその人の正しさに基づいて行動している。
<~すべき>
他人に対し「あなたは~~~すべきだ。」と言うのは、自分の願望を述べているに過ぎない。
そして、それを受け入れるかどうかは、言われた側の自由である。
<現実を知ってもらいたい>
「現実を知ってもらいたい。」という人がいる。
その現実はその人に解釈されたその人の現実である。
<やりたい事柄が確保されているなら、それ以外の事はどうでも良い>
<義務は自分が勝手に決めているだけ>
<欲しい>
欲しい、欲しい、して欲しい。というのは無意味。
欲しい、欲しい、して欲しい、から、自分はどうするか。
<嘘>
嘘をつくためには、本当の事を知っていなければならない。
・・・・あなたは、嘘をつくことが出来ますか?
<切り絵>
折り紙から、ウサギを切り抜く。切り抜いた方は当然、ウサギである。
そして、切り抜かれた方もまた、ウサギである。
世界から、自分を取り出す。取り出した方は当然、自分である。
そして、取り出された方もまた、自分である。
両方合わせて自分、という事ではない。
切り抜いたウサギと、切り抜かれたウサギを合わせると、ウサギは無くなるのである。
<SF論>
「やりたいけど、現実的に考えてみて、やれない。」ってのはおかしい。
現実に無い状況を想定して、その状況でやりたいって思うのは、空想上の遊びでしかない。
もし、本気で思っているなら、病院行きである。
結局、「やりたいけど、現実的に考えてみて、やれない。」ってのは有り得ず、
それは、「やりたくない」って事でしかない。
何か、「やる」の方が前向き・積極的で、「やらない」は後ろ向き・消極的な感じに思うかもしれないが、
「やらない」=「やらないをやる」って事で、どちらも「やる」なのだ。
(当然、どちらも「やらない」とも言える。)
<自分探し>
「自分探し」ってのが良く分からん。
自分は既にそこに示されているではないか。
それに探して見つかったものが、元々あったモノなのかどうか分からない。
もしかすると、新たに想像したモノなのではないか。
そうすると、探そうとして見つけてはいけないのではないか。
「自分」は探すモノでは無い。
誰も悪くないし、何も悪くないのだ。
そして、君も・・・
『常識』を語るのは常に個人である。
何でも話せるのが親友なのではなく、何も話さなくても良いのが親友。
連れ合いとは、向き合うのではなく、同じ方を見る。
つまり、同じ目標を目指す同士、人生を共に戦う戦友という事。
連れ合いの為に生きてはならない。
互いの目標の為に、共に協力し生きていかなければならない。
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