第1話②

 −−海護達の朝は早い。


 まだ日も上がらぬ刻限から床を離れ、島の奥の御社の神木で出来た女神像の御神体を磨く。


 彼等を見守る海神は女仙…名を『ルリ』と言う。


 従って、島で美形の女児が産まれれば、海護達はこぞって『ルリ』と名付けた。


 故に『ルリ』は、美丈夫の証であり、誉である。


 今年で髪を結い上げた、海護の長の孫娘『留里』もまた、美しい娘だった。


 御社の裏手、白い『淡陽たんよう』と言う花が浮かぶ泉に桶を入れて、香りを水に移して御神体を磨けば、自然と像は芳しい匂いを放つ様になる。


 白魚の様な指先は、水の冷たさで赤く悴んだが、御神体の清めは海護の女達の最も重要な務めであったため、文句を言うものなど一人もいなかった。


「だいぶ波瑠はるが板についてこられましたね。留里様…」


「嫌だわ。様なんて止めてよ。八歳やつとせ姐さん…」


 お社の柱を磨いていると、自分を産んで永らく床に伏せり、夫が漁で命を落とした後は益々塞ぎ込み、後を追う様に亡くなった母代わりとして付き従ってきた、今年で数え三十になる八歳の言葉に、唯一の身内であり、息子亡き後海護達の長を務めていた祖父を亡くし天涯孤独…否、若くして海護の長になった数え十五の留里は、成人した海護の女達がする結い髪を照れくさそうに搔き上げる。


「いやー!八歳様の言う通りだ!長はほんに、神話のルリ様生き写しだ!島の若衆共は、早くも誰が一番に見染められるかと、毎日女子おなごのように姦しく騒いでおる。」


「ああ。確かに確かに!漁の腕なら三葉さんようだが、お若い長は役者絵から出てきた様な黒凪くろなぎがお気に召しますかな?」


「や、やだ!そんな、私まだ婚姻なんて…」


 そうして留里が真っ赤になるものだから、女達は務めの手もそこそこに益々騒ぎ始める。


「おやおや、男のおのこの話題で赤くなられていては、ご立派な長にはなれませぬ。留里様は、見目だけではない、海神様のお血筋を引かれる尊い御身。一族郎党の弥栄の為にも、早よう婿様を召されて御子を育まねばなりませぬぞ?」


「左様左様。先代が御隠れ遊ばされてもう直ぐ一年。しかし、無事喪が明けましたら、八歳様が良き婿様を見定めてくれましょう。なあ八歳様…」


 その言葉に、八歳はふっくりと微笑む。


「かような大任、わたくしのような唯の世話人の仕事ではござらん。何より、留里様の幸せが、八歳は一番の望みでございます。焦らずとも、ルリ様の御心を信ずれば、いずれ良きえにしに導いて下さることでしょう…どうかそれまで、長として清く正しく、お務め励まれましょう…留里様。」


「八歳姐さん…」


 まるで自分の事を本当の妹か娘のように思ってくれている八歳の言葉に喜びを感じる留里だったが、彼女ももう三十路。


 婚姻適齢期が十代の海護達の中では、売れ残りと言われても文句は言えない。


 しかし、全く男の影が無かった訳ではない。


 十年前、留里がまだ五歳だった頃、八歳には生薑しょうがと言う、留里の父親が目をかけていて、留里も兄のように慕っていた、腕も頭脳も良い漁師の男との縁談があった。


 しかし、留里の父親と生薑…その他数人の漁師を乗せた船は沈没。二人は他の漁師達の救命を優先した為避難が間に合わず、結果海の底…還らぬ人となった。


 それ以来、八歳は留里の祖父が持ってくる縁談を次々と拒絶。


 まるで生薑の還りを待つかのように、毎日海に祈りを捧げ、独り身を貫いている。


 何より、己の生き甲斐は自分の成長と幸せだと言う八歳に、留里は内心…八歳こそ幸せになって欲しいと、幼いながらに気を揉んでいたのだった。



 






 






 

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