水族館の音5

 久我半紙く が はんしが友人である任海墨花とうみすみかの提案を無下に断ったのは、何も意趣返し的意図があったわけではない。

 単純な話、半紙はその展示が苦手だった。

 「初耳だ」前を歩く墨花が壁に埋め込まれる形で均等に並んでいる小さな水槽を順番に眺めながら言った。「何が苦手なんだい?」

 半紙も水槽の中をのぞきながら墨花の後ろをついて行くように歩いている。ゆったりとした足取り。後ろに人の気配がして少し振り返ると自分よりも年上の男女二人組が手をつないで水槽の中を見ていた。

 「鱗」

 「うろこ?」墨花がちらりと半紙に視線を向け聞き返す。

 「あと大きさと形かな」

 「君とはそれなりに付き合いが長いと思ってたけど初めて聞いた気がする」

 「普段話のカテゴリには入ってないだろうからね」

 「それは古代魚について? それとも水族館について?」

 「水族館は比較的比率が高いと思う」半紙が答える。「僕にとって君が古代魚好きという事が初耳のように」

 「お互いまだまだ初めての事があるんだな」

 にこりと自分に笑みを見せる墨花に半紙は何を言ってるんだかというような視線を向けた後、彼を追い越し歩いていく。通路を右へ曲がると柱のように縦に長い水槽の中に色鮮やかなサンゴで作られた空間があり小さな魚たちが泳いでいた。

 「キレイだね」

 あっさりと追いついた墨花が半紙の隣に並ぶと、見上げるように同じ水槽を眺める。半紙はふと自分の後方にいた男女二人の存在を少し探してみた。すぐに見つかり二人はこちらへは来ずまっすぐに通路を進んで行った。

 「アイスでも食べてようかな」半紙が言う。

 「え?」墨花がどういう事だという風に半紙のほうへ顔を向けた。

 「君が古代魚見てる間の話だよ。僕はアイスでも食べてのんびりしてるからゆっくり見てくるといい」

 「本当に見ないんだ」

 「あぁ」

 「まぁ、無理にとは言わないけど」

 残念だという風に唇を小さく突き出す墨花に、そんなに古代魚が好きなのかと半紙は思う。半紙は以前見た時の事を思い出す。古代魚の展示スペースはアマゾンに生息する魚も続けて展示されている。正確な事を言えばそのアマゾン展示スペースに大きなどす黒い魚の標本があるのだが、半紙はそれが苦手だった。一メートルは超えているそれはどういう意図でそうなのかはわからないが薄暗い空間の中、オレンジの照明ライトで照らされており浮き出るように展示されていて、一枚一枚はっきりと見える鱗、大きさ、濁りきった水晶体、口、それらを見た瞬間に背中がぞわぞわっと震え気分が悪くなった。

 半紙は思い出しただけで自分の背中が少しだけ粟立つような感覚になり小さく息をはく。

 自分にとってはグロテスクなものでも墨花にとってはそうではない。自らそれを見に行きたいと望むものなのだ。正直な所、気持ちはまったくわからない。しかしそれを否定する気はさらさらない。そもそも何を持って否定できるものなのか、という話である。好嫌を議論する気など毛頭無いし、押し付け否定などもってのほかだ。

 半紙はその思考をそこで終了させるように目を閉じゆっくりと開ける。サンゴの隙間から青い小さな魚が飛び出すのが見えた。


 ◇◆◇


 墨花が見終わったタイミングで連絡するという事で、二人はその場でいったん別れると半紙は二階の中央へと歩いて向かった。

 中央は円のような形で広い休憩スペースがあり、木製のベンチが均等に並べられている場所と同じ木製のひとり用の椅子が置いてある。その場所を挟むようにお土産ショップと軽食コーナーが斜めに対の形で設置されており、歩き疲れてひと休みとここにあるベンチか椅子に座っていれば必ずどちらかが視界に入るようになっている。

 アイスを食べようと考えていた半紙だったが中央に到着する頃にはその考えは揺らいでいた。右に曲がった道をいったん戻り、そこからまっすぐに続く通路を歩いていったのだが空調がやたらと冷たくて中央に着く頃には半紙の体はすっかり冷えていた。休憩スペースには先程目で追った男女二人組がぴったりと寄り添うようにしてベンチに座って飲み物を飲んでおり、他のお客は見当たらなかった。

 思えばもうアシカショーが始まってる時間かと半紙は壁に飾ってある大きな時計を見る。時刻は午後十二時十分。デフォルメされた天使が先端に星の形がくっついた杖を持ち飛んでいる絵が描かれており、そこは海関連じゃないんだと半紙はぼんやり思った。

 休憩スペースも冷房がよく効いており半紙は小さく身震いをする。とてもアイスを食べる気分にはならなかったし、どちらかというと温かい飲み物が欲しい気分になっていた。それを避けるためにアシカショーは見ないと言ったのに、半紙は一旦外に出る事にした。

 軽食コーナーの左側の壁は全面がガラスになっており自然光によって休憩スペースの明るさを演出していた。そこには両開きで大きな取っ手のついた扉もありそこから外へと出れる仕様になっている。

 ここアクアリズムは水族館と共に公園も併設されている。受付で外に出た際――と忠告されたのはその為だ。

 半紙は取っ手を掴むと押すように力を入れる。扉は随分と開けにくかった。重いというよりも固いという表現が似合う。最初、鍵がかかっているかと思ったがある程度開くと滑るように扉は開きそこから外気が漏れ入ってくる。淡い茶色のタイルが敷かれそれ以外の場所は芝生が植えられている。壁代わりの生垣によって外の景色は見えない。

 太陽の眩しさにほぼ目を閉じて何をするでもなく半紙は扉の前でしばらくぼーっと立ち尽くした。冷えた体はあっという間に温まり、それを通り越して暑さを感じさせる。

 まるで解凍作業だ。と半紙は思いながら目を開けると肩を一度回して中へと戻った。ベンチに座っていた男女二人組がちょうど立ち去ろうとしており半紙は二人が座っていたベンチの後ろにひとり座ると息をはいて背もたれに重心を乗せる。冷房の風がちょうどよく逸れており、もう少し後方にあれば外から入る日光の温度と相まって心地よいだろうにと思いながら辺りをざっくり見渡してみた。座っている場所からはお土産ショップが視界に入る。通路沿いに可愛らしいぬいぐるみが陳列されておりその横に実ったように掲げられているキーホルダーの山があった。子供の気を引くには十分な見た目だ。

 半紙は時計を見る。ここに来てまだ十分も経っていない。まだまだ余裕があるだろうから先にひとりでお土産でも見ておこうかと思っていると不意に後ろで物音がしたので振り返れば外から扉を開けようとしている子供の姿があった。取っ手を掴み体重をかけて引っ張る形で開けようとしていたが少し動いただけで後はまったく動かない。先程その扉を開けたばかりの半紙は身をもってその固さをわかっていたので子供の力では開かないだろうと思うと立ち上がって開けるのを手伝った。中から取っ手を持つとそれに気づいた子供が扉から離れその様子を見上げる。つばのついた赤いキャップに見覚えがあった。その子供は半紙たちが水族館へ向かっている中、勢いよく横を通り過ぎていった男の子だった。

 扉が開き男の子がするりと中へ入る。「ありがとうございます」男の子が半紙に向かってお礼を言ってきたので半紙は小さく首を振って扉を閉める。その間に男の子は走り去ってあっという間に姿は見えなくなった。元気な子だと思った後ふと彼の両親の事を思い出す。半紙は外の様子をうかがってみたが人の気配すらしない。

 またひとりではしゃいでいるのか。と半紙は思いながらベンチに座った後、自分がお土産を見ようと考えていたことを思い出したが改めて立ち上がるのがめんどくさくなって動きはしなかった。

 ベンチに座って何をするでもなく時間が十分を過ぎた頃半紙のスマートフォンに墨花から連絡が入った。

 『緊急事態』

 電話越しの墨花の言葉に半紙は口をへの字にした。

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