水族館の音3

 「はい到着」

 午前十一時三分前。車をバックで駐車場に停めた墨花はエンジンを切りながらそう言った。

 半紙が車を降りると先に降りていた墨花が鍵をかけ半紙の元へゆったりとした足取りで近づいてくる。

 外は太陽からの直射が肌に熱というよりも痛みを与えてくるような感じだった。アスファルトからの照り返しで足首も暑い。遠くの景色は陽炎が起きていていくつかある駐車場を覆うように植えられている背の低い生垣がぼやぼやと揺れて見えた。

 「今更だがなんで水族館に誘ったんだ」

 半紙が隣を歩く墨花に尋ねる。彼から誘いを受けたのは三日前、半紙は最初乗り気ではなかったが話を聞いた家政婦の古野燃実ふるの もえみに促される形で了承し今に至る。

 「映画のほうが良かったかい?」

 「映画は燃実さんが見るって言ってたよ。買い物の後で一本観てから帰るって」

 「へぇ、何の映画観るって言ってた?」

 「知らない」

 「少しは興味を持ったらどうだい?」墨花が呆れたように言う。

 二人はアーチ状の屋根が付いた歩道にたどり着くとそこを歩きながら水族館へと向かう。直接的な日差しが遮られるだけでもだいぶ違うと思いながらもじわじわとした蒸すような感覚からは逃げられない。歩いている中スポーツサンダルの先、むき出しになっている墨花の親指の爪に緑のペディキュアが塗ってあるのを見つけると「それ」半紙はそう言って杖の先で墨花の親指をさした。

 「ん? あぁこれかい?」墨花が意味に気づく「きれいな色だろう? サマーグリーンというらしい」

 「まんまだな」

 「緑が好きな子でね。見てると落ち着くらしいよ」

 「練習台か」

 「実際に塗った時の色合いの確認も兼ねてね」

 「せっかくなら全部塗ってもらったらよかったじゃないか」

 「もったいないから親指だけ! だってさ」

 そう言って笑う墨花に半紙は車を貸してくれた人物とは違う人間だなと予想した。ペデュキアをケチる人間があんな良い車を貸すわけがない。

 「お前の周りには親切な方がたくさんいるみたいだが」半紙は歩きながら言う。「その親切心に素直に甘えない事だな」

 「ご忠告どうも。身が引き締まる思いだよ」

 言葉とは裏腹に声色は軽かった。まぁ、よっぽどのヘタはこかないだろうと半紙は長年の付き合いから考えるが同時に最悪の場合も脳内でシュミレーションしてみる。アロハシャツが鮮血に見え始めた時点でその思考はシャットアウトした。

 任海墨花と久我半紙は中学時代からの付き合いである。同じクラスだったが初めて話したのは入学して二週間ほど経ってからだった。半紙はそもそも人づきあいが得意なほうではなかったし人と喋らなくても平気なタイプだったので休憩時間は本を読んだりどこかふらっと散歩をしてみたり。一方の墨花はいつも誰かといるようなタイプだった。人といないと不安なタイプなのだろうかと思った時もあったがすぐにそれは間違いだと気づいた。彼は当時からいわゆるモテるタイプというヤツだった。十三歳という幼さの中にのぞき見える美しさ、どこかアンバランスな雰囲気が他人からは儚げに、憂いに見えたのだろう。しかし喋れば年相応のやんちゃさと声変わりしていない高い声色。そんな所も可愛いと誰かが言っていたのを聞いた事がある。彼はやたらと年上の女性にモテた。高校生になって身長も顔つきも変わり、幼さはすっかり消え大人の色気を先取りしたかのような雰囲気を持つようになり、この頃にはすでに彼自身が己の長所をよく理解し、うまく利用していた。それは今も変わっていないのだろう。

 入館口まで続く通路には時折デフォルメされた海の生き物たちがマンホール型で描かれていた。イルカ、サメ、カメ、タコの足が十本で描かれており半紙は一瞬立ち止まった。

 「どうかしたか?」墨花が声をかける。

 「……いや」

 半紙は静かに返してすぐに歩みを再開した。わずかな変化、頭の中には先程のタコの絵が浮かび、改めて脳内で足の数を数えていると後ろから子供のはしゃぐ声がして半紙と墨花の横を走り過ぎていった。

 「元気だねぇ」墨花がのんびりとした声で言った。

 「楽しみが理性を追い越しているのかな」

 半紙は歩きながら独り言のように言う。つばのついた真っ赤なキャップを被った少年はパッと見小学校低学年ぐらいに見えた。しばらくするとその子の母親らしき人物が名前を呼びながら追いかけるように半紙たちの横を通過して行き、その数秒後に黒いリュックサックを背負った父親らしき人物が同じように少年を追いかける。

 「大変だね」他人事のように半紙が言った。

 「他人事みたいに言うね」墨花が返す。

 「実際そうだろ」

 「まぁね」

 母親が少年の腕を掴み叱咤していたが少年に反省している様子は見えなかった。早く早くと急く気持ちが全身からエネルギーとなって溢れているようだと半紙は思う。夏の暑さにも負けないそのパワフルさは少し羨ましいと思った。

 「なぁ」半紙が墨花に声をかける。

 「なんだい?」

 「タコの足って何本か知ってるか?」

 「八本だったっけ?」

 「蝉だ」

 「聞いといてすぐに飽きるんじゃないよ」

 墨花が呆れたように言った。

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